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紫陽花の短いツルに似た幼児期に見出される一般現象について

作者: dorge

 閉じた松明の裏側に涙を囲ったところで私は一人、苦しみの中の牢獄のネズミに頭を侵されながらワルツを踊っていた。一抹の不安があった。生乾きのシャツ、淫らな雌牛、陽気なサンバを踊る友人たち。


 ある夕食に私は招かれた。美しい燭台、暖かな銅像のアポロンは勇気の眼差しを向ける。空に慈悲があるか?それが唐辛子のくちづけに似たものであるなら、丑の刻に私の食べるチーズケーキにもおそらく意味があるということだろう。

 目を覚ませ、我が友!と叫ぶ悲劇俳優風の人物、彼の唇は噛み締められ、それを見ているだけでとても私は嫌な気分になる。彼こそが私の縄であり、ホワイトソースが肉にかけられるように、私は彼にふんじばられているのだ。

 眠りは怠惰を意味する。なら覚醒はきっと何を意味する?狂気である。一瞬の狂気の瞬き、その薄明さは本質的には虚無と同じであり、狂気とは虚偽に言葉の上では似ている。


 ありし日の我が孫娘はピカソ風の絵を対峙しながら、それをいかに無為無毛の作にかえせしめられるかに挑戦していた。あたかも牛が優しさの花を投げ降り注ぐかのようで、娘にはそれが耐えられなかったのである。ピカソの絵の中の動物たちは彼女の筆の二振りを持ってただの肉塊と化し、その吐息はじめじめとした虫唾の走るものとなっただろう。

 あくる朝、私のベンチに二人の老人が座っていた。

 私は尋ねた。

「ねえ、あなた、それは私のベンチですよ、私はそのベンチにこれまで20回、30回と座って来たんです、わかりますか?」

 老人は私の言葉を聞いていなかった。ただぶつぶつぶつぶつと口の中でガムを噛むようにいればを転がして、ねぶっていた。

 だが、それは犯罪的です。ねえあなた、それは私のベンチですよ?ね。

 木漏れ日が老人の瞼を照陽し、その裏のナメクジが工場のリトルマーメイドに挨拶をしているような気持ちを私の指先に向けていることが私にはわかった。

 それはおかしい、私は憤った。

 なんでって君は、どうせ、食べたことがないんだ。ゴルゴンゾーラも、パルミジャーノも。

 わかってない。何一つ。

 仕方ないので、私は老人の膝の上に座った。

 ポケットの中には一つのパンがあり、それをちぎってむしゃむしゃと食べた。

 明らかな夕暮れが近づいていた。

 銃声がついに、響いた。夜の挨拶だ。これを機に、世界は夜を迎える。


 ペニスペニスペニス、と叫んでみる。それに意味があると信じているから。やめる、夜だからやめてしまえこんなこと。

 私の剣の話、盾の話、これらももう、ゴミ箱においやる。銃殺刑に処された人々の話、これもいらない。話すべきことはもっとちんちくりんの意味のないなかにも意味のないこと。

 例えば、サラダのこと、サラダチキンがより好ましく、無色透明のベニジャケのにぎりはなおさら好ましいだろう。

 ベニジャケはコンビニで永久に腐らず、いや、永久なんてことはないが、すくなくとも3週間程度は腐らないだろう。明るい太陽は天井で凡庸に顔を出していて、そこで働く人の表情に、深刻さだとか、愚鈍さだとか、誠実さだとか、勇猛さだとか、そんなものが見出せるだろうか。否、である。そこにいるのはただの眼差しである。ただの頬である。ただの顔である。ただの瞼である。ただの目玉である。ただの唇である。あれはただのピアノである。木を組み合わせて、黒い色を塗って、それでできている。あれはただの太陽である。地球からだいぶの距離を離れている。とてつもない光を発していて、それだけで驚いてしまうが、取るに足らない光の玉。

 人の暮らしはおよそそのような実在的事柄でできていて、それに対してあれこれ、小難しい言葉を使うことは偽りを重ねるだけの虚偽申告にすぎないだろうか?

 それとも、実在こそが偽りだろうか?

 実在は信じられるが、夢想は結局のところ、ただのマスク、あの劇的な人物の声と同じ、虚偽にすぎないのだろうか?

 だが、それなしに、どうしたら人は楽しく生きていけるのか、必要な淫らさだろうか?

 いや淫らさというよりは身だしなみと言った方がよろしいか?


 何かそろそろ終わりにしてしまおうと私は考えている。ここで気の利いた一言を付け加えたい。適当に言葉を思いつくまま3行並べて、それらしくとも、全くそうでなくとも、それで終わりにすることにする。


 すなわち天の恵みは一瞬のたくらみをホトトギスのように鷹揚に、私にくださった。シャンプーハットの上に一房のにんじんが置かれているとしたら、それこそが神の導きである。

 なら、御伽噺の中で大根がとてつもなく臭いとして、そのことも偶然ではなく、神の導きである。




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