9.露草色
さすがにいつも通り起きれば遅刻することなんて早々ないだろうと、そう思っていた時期が俺にもありました。
柔らかい光というにはやけに明るくて、静かな朝というには少し周りの声は騒がしいそんな朝。大きな欠伸を洩らしながら、背筋を伸ばす。久し振りに熟睡できたのか、寝覚めはスッキリしていて気分が良かった。
しかし、トイレに行こうと立ち上がって時計を見たら、短い針が9で長い針が6を指していることに気づく。それの意味することは一つ。
「寝坊した」
スッキリしていたはずの頭は、寝起きという言い訳の元、一気に動きが鈍くなる。一体なぜこんな時間になったのか、今朝はなぜ朝食が運ばれて来なかったのか。
働かない頭をフル回転させて考えていると、ドアがノックされた。
「はい」
「あら黒岩くん、起きてたのにね。おはよう」
ドアを開けたのは、よく俺の担当をしてくれている看護師の山田さんだった。相変わらず、笑ったときの目元の小じわがチャームポイントだ。
山田さんは車輪のついている台車にノートパソコンを乗せたものを引っ張って病室へと入ってくる。その手には体温計が握られており、朝の検温をしにきたことが分かった。俺はとりあえずそのままベッドへと腰掛ける。
「山田さん、あの、今日の朝ごはんって」
「何度か起こしたんだけど、よく眠っていたから下げましたよ。何か食べるなら今から準備しようか?」
「あ、いや大丈夫です」
手渡された体温計を受け取り、脇に挟みながらなるほど、と思う。そう言えば何度か俺が寝坊したとき、食事が出なかったことがあった。そして起きた後に何か食べたいって言ったら軽食が出てきていた。すっかり忘れていた、詰まる所、寝坊したと言う事実はなくならないわけだが。
機械音が体温計測の終わりを知らせる。脇に挟んでいたそれを確認することなく山田さんに手渡せば、彼女は笑みを深めた。
「はい、熱もないね。今日退院できますよー」
「それは良かったです、あの、ちょっと出てきてもいいですか?」
チラリと山田さんの顔を見れば、そのめもとのシワは一層深くなる。
「あらあらあ、まぁまぁ」
「そういうのじゃないですから!」
なんだか恥ずかしくなり、松葉杖とスマホを手に取って急いで病室から出ようとして、やめる。寝起きの自分の格好に気づいたのだ。寝巻のままでは姉さんが来た時にすぐ帰れないだろうから着替えておくのが無難だろう。俺は未だにそこにいる山田さんをジト目で見つめる。
「あの、着替えたいんですが」
「うふふ、そうよねぇ。じゃあ私は戻りますね」
ニヤニヤとしながら帰っていく姿に、姉の姿を重ねてしまったのは仕方のない話だろう。きっと姉に白石さんと一緒にいるところを見られたら、ああいった反応になるに違いないのだ。いやもしかしたら更に酷いかもしれない、本当に気を付けないと。
俺は決意を胸に今日のために残しておいた私服に着替えて寝巻を鞄の中に仕舞った。スマホの時間を見ると10時になりそうな時間だったため、急いで彼女の病室へと向かう。
◇◇◇
いつものように彼女の病室に来れば、今日はまだ窓が開いていなかった。恐らく松川先生がまだ来ていないのだろう。いつも閉めてから彼女に声をかけるが、今日はその必要はないようだ。
「おはようございます」
肩を叩けば、俺が遅刻してきているとは知らない彼女は優しく微笑んで、迎え入れてくれた。言わなければバレないことではあるが、自分で時間を指定しておいて遅刻したと言う罪悪感が圧し掛かってくる。
これは遅刻したと正直に言って謝るべきか、何も知らない振りをするべきか迷いどころだ。
「ところで黒岩さん」
「ん?」
白石さんの手を取り、次の言葉に悩んでいると反対の方の手に持っていたのか、腕時計を差し出してきた。普段腕時計なんてつけないから分からないが、それは女性用にしては大きな盤面で、それに比例するように大きい数字が並んでいた。そしてその盤面のガラスは開かれており、まるで名探偵コ〇ンで出てくる腕時計型麻酔銃を連想させる。
「寝坊しましたね?」
「………なぜバレたし」
まさかバレているとは思わず、ビクリと肩を揺らす。白石さんの顔を見るとその表情は先ほどと変わりなく優しく微笑んでいるが、今は静かにキレているようにしか見えなかった。
やはり早めに謝っておくべきだったと後悔するが、もう遅い。俺は恐ろしくて彼女の顔から目を逸らす。
「ふっ……あははっ」
なぜか聞こえてきた笑い声に、不思議に思い視線を戻せば、腹を抱えて笑うのを堪えている白石さんの姿が目に入った。彼女は今までにないくらい目に涙をためて、静かに大爆笑をしている。一体なぜ笑っているのか分からない俺は唖然とするしかない。
「ご、ごめんなさい。黒岩さんがあまりにも分かりやすく動揺するものだから、つい」
そこで自分が揶揄われたことに気付き、恥ずかしさや怒りが来るよりよりも先に、驚きがきた。出会った当初と比べるとよく笑うようにはなったし、割と感情豊かな人なのだと思うことも多かった。しかしここまで目いっぱいに涙をためて笑っている姿も珍しかったのだ。
楽しそうで何よりだけど、笑いすぎでは。
『時計』
一通り笑った彼女は息を整えて涙を拭い、手に持っていた腕時計の盤面のガラスを閉じた。
「昨日、兄がくれたみたいなんです。盤面が直接触れて、それで時間が分かるんですよ」
すごいですよね、と彼女は大事そうに時計を見つめながらそう言った。
それはとても喜ばしいことなのだろう。今まで時間も感覚でしか分からずにいた彼女が時間の流れが分かるようになったのだから。が、那珂さんに一つ物申したい。タイミングが悪すぎると。なぜ俺が寝坊するときに渡してしまったのか、いや別にバレなければ隠し通そうだなんて思っていないけど。思っていないって。
「そうだ、改めまして黒岩さん。ご退院おめでとうございます」
『ありがとう』
彼女は律儀に頭を下げてお祝いの言葉を再度言ってくれた。なんだか硬いなと思うのは敬語のせいなのだろう。今まで特に気にしていなかったが、一応彼女の方が年上なのだし、敬語はなくてもいいのかもしれない。逆にこちらが敬語を使うべきところだが、手書き文字で敬語まで使い始めたら言葉数が増えてしまって面倒であるし、彼女も分かりにくなるだろうから許してほしい。
「敬語ってどう書くんだっけ、えーっと」
国語力3の俺は漢字もうろ覚えである。言い訳ではないが、携帯を使い始めてから読みの方は大丈夫なのだが漢字を書く方はめっきり駄目になってしまった気がする。
『敬語、いらない』
「けいご………いいんですか?」
『〇』
「では遠慮なく。でも、なんだか照れくさいね」
敬語がなくなり、ハニカム白石さんの姿になぜかドキリとする。出会ってから一か月、ずっと敬語だったせいか、切り出した側としても慣れるのに時間がかかってしまいそうだ。
ふと、こんなに仲良くなっていいのかという不安にもかられた。敬語が抜けただけなのだが、この入院期間で随分と彼女と仲良くなっている。退院当日に会いに来ようと自然と思えてしまうほど。
最初はこんなに仲良くなるつもりなんてなかったのに。このまま退院したらこの関係も変わってくるのだろうか。
「黒岩さんの年齢、聞いてもいいかな?」
今までそういった質問はされたことがなかったので、若干動揺する。あえて聞いてこなかったのか、遠慮していたのか分からないが改めて聞かれるとは思っていなかった。
差し出されている手を見つめる。初めて聞かれた俺の自身のこと。別にそれくらいなら隠す必要もないのだが。
『15』
「15ってことは、高校生?」
「なんだって」
童顔では決してないが、中学生と高校生なら必ず中学生と言われてきたここ数ヶ月。初めて最初に中学生?と聞かれなかったことに喜びを感じる。16になれば高校生?と自ずと言われるようになるとあと少しの辛抱だと思っていたのだ。
『なんで?』
「雰囲気がなんとなく………違ったかな?」
『〇』
「あってる?よかった」
雰囲気、雰囲気はちゃんと大人だと言う証明が、今成された。これは大変名誉なことだと思いませんか。これで俺も大人の仲間入りという事である。
心の中で大きくガッツポーズをして、ついでに白石さんの年齢を聞いてもいいものかと思案する。姉さん曰く、女性に年齢を聞くときは慎重にとのことなのだ。しかしいくら慎重にせども聞く内容には変わりはないのだから、普通に聞いてもいいのでは。
『白石さんは?』
「私?私は19歳だよ」
やはり年上だった。姉よりは年下だが、雰囲気は姉よりも落ち着いていて大人の女性という感じが出ていたし、寧ろもっと上でも違和感がないほどだ。
日が昇り始めて室内の温度も高くなってきたのか、彼女を握る手に若干汗が滲んできた。急いで手を離し、自身の服で汗を拭う。そろそろ窓でも開けないと暑いかもしれない。
『窓』
「そうだね、ちょっと暑くなってきたね」
彼女に許可を取り、窓を開けに行く。いつもは閉める専門だったため開けるのはなんだか変な感じである。今日は天気がよく、絶好の退院日和だ。昨日はあまり雨も激しくならなかったし、天気がいいのはいいことだ。
そう言えば今日は寝坊したせいで、天気予報見るのを忘れてたな。いつも朝一で見るんだけど。
「今日は何色ですか?この時間に聞くのも変な感じだね」
窓を開けて戻ると、彼女は外の景色を見ながらいつもの問いかけをしてきた、いつもは夕方頃に来るが今日は朝にきているから、変な感じと言えばそうだと思う。しかし、いつもの時間と今の時間とでも、俺には違いがよく分からないのは変わらない事実である。
「青かな。いやでも退院だし、何かいつもと違うこと言いたいな」
彼女と一緒に窓越しから空を見上げて、頭を捻る。きっとそんなに悩まないでも彼女は何も言わず、いつものように喜んでくれるのだろうが、ひと捻りしたいという俺のプライドみたいなものだ。
『ス』
「す?」
『ッと、した、青』
しかし、そんなプライドをあざ笑うかのように出てきた言葉は、あまりにも残念だった。俺の語彙力ではこれが限界だったし、動きを止めて俺を見る彼女に、こんなことならいつも通り言っとけばよかったと後悔を感じ始める。
「黒岩さんの朝の青は、そういう風に見えているんだね」
『白石さんは?』
「え?」
眩しそうにこちらを見る彼女に、自然と問いかけてしまったが、目の見えない人にそんなことを聞いてどうするのだと焦る。しかし、俺の見ている青と、彼女に見える青にどんな違いがあるのだろうと思ってしまったのだ。
「薄明」
「はくめい?」
「遠くて、眩しい、そんな青かな」
記憶の中の空を思い出しているのか、その瞳に映る青は最初にあったころに見たものと同じで、随分と遠くに感じた。彼女にとっての青は一体どういうものなのか、それは喜びなのか悲しみなのか、これだけでは測ることはできない。
そうだ、と何かを思い出したのか、遠くを見つめていた瞳は突然こちらに戻ってくる。
「白石って毎回言うのも手間だと思うから、何か別の言い方を考えようか。呼び捨てでも構わないけど」
『×』
間髪入れずに×を書くと、彼女は「早い」と言って可笑しそうに笑った。
確かに『〇』や『×』みたいにパッと書けるものになれば会話もだいぶ楽になる気がする。いつかはそうできればいいなと思っていたので大歓迎だ。これを機に名前だけではなくていくつか合言葉的なものを作ってしまおう。
「うーん、安直かもしれないけど白石のSとか、どうだろう」
『〇』
安直だけど、分かりやすいのが一番だと思う。これからいくつか作るし、覚えられなければ意味がない。なんだかコードネームみたいで厨二心をくすぐられるな。
俺たちは合言葉を作ることに夢中で気づいていなかったのだ、今が何時なのかを。いや正確には俺だけだが。
ノック音が病室に響き渡る。この緊張感はこれで何度目なのか、できれば一度しか味わいたくはないことの一つではなかろうか。俺が返事をする前に開け放たれたドアへと振り向いて、反射的にスマホの時計を確認する。“11:00”視界に入ってきたのはそんな無慈悲な時間であった。
ギギギっと音を立てそうな自分の首を再度、後ろへ向ければ素敵な笑顔の姉が目に入った。一体いつの間に1時間経っていたのか、なぜ気が付かなかったのか。後悔の念を今更抱いても、今を変えられないわけで、とりあえずなぜこの場所がバレたのか。
「那ぁ津ぅ?このお嬢さんとは一体どういう関係なのかしらぁ?」
すっごい楽しそう。それだけは分かる。
ダラダラと流れる変な汗は止まらない。どう言い訳をするか頭を捻って考えるがいい案も浮かばず、いい笑顔の姉がこちらへ近づいてくるのを見つめることしか出来ない。
「黒岩さん?」
急に動きを止めた俺を不思議に思ったのか白石さんは俺の手を軽く引いた。しかしそれを気にしている余裕もない。それがいけなかったのだろう、姉は目の前で足を止めて白石さんと俺の繋がれている手を指さした。
「熱いねぇぇぇ」
「あ、ち、ちが」
「いいのよ、弟よ。確かに彼女が出来たって報告がなかったのは悲しい。でも目出たいことだからね、隠されてもいいわ。思春期だしね」
人の話を聞かず、勘違いをしたまま語り始める姉には静止の言葉は届かない。心配かけたくなかったのもあるが、こうなるからできればバレたくなかったのだ。
退院するはずなのに頭が痛くなってきたから再入院したい気持ちになってきたが、とりあえずこれは逃げるしかない。
『帰る』
「もうそんな時間なんだね、じゃあ気を付けてね」
「え、何?帰るの?ていうか今の秘密の会話?ねぇねぇ弟」
「帰るから!取り敢えず帰ろう!」
帰ろうとしない姉の背中を無理やり押して、部屋を出る。薄明の空を背景に、彼女はドアが閉まるまで手を振り続けた。
そして騒ぎ続ける姉を見て、ため息が出る。面倒なことになったが、今はとりあえず現実逃避をしてもいいだろうか。