8.半色
「なんでバレちゃったかな」
「なんでじゃないから」
あと一日だったのに、という愚痴は聞かなかったことにして、引き出しの中のものを片付ける。一か月以上入院していたこの部屋は自分の持ち物であふれており、まるで実家の自分の部屋を見ているようだった。改めて部屋を見渡して、減っていく物に少し寂しく感じる。
部屋の隅にはすでにまとめられた荷物が重なっていて、姉がそれを整理していた。その顔は少々不満気だ。
「良樹くんさえ黙っててくれたら良かったと思わない?」
「あいつが黙ってたら、いつ言うつもりだったんだよ」
「明日」
「当日じゃん!」
意地の悪そうな笑顔で言い放つ姉に呆れながらも、入院当初に比べて明るくなった姿に嬉しくも思う。目覚めたとき泣いた姉の姿が、二年前の姿と共に思い出された。
――あまり心配かけないようにしないと。
この強がりで意地っ張りな、どうしようも無い姉を泣かせることが無いように。
「何か文句あるの?」
「ないでーす」
手に持っていたペットボトルが音を立てて潰れていくのが視界に入った。ペットボトルの最期を見守り姉の顔を見えると、ただでさえ吊り上がっている目つきが更に釣り上がっていた。ちなみに元々目つきが悪い姉が一度睨みを聞かせると、どこかの悪役のように恐ろしい顔になる。
だから俺と良樹の間で姉さんを怒らせるべからずって協定を結んでいるわけだけど。本気で怒っていないと分かっていても少し怖く感じるのだから、姉さんはいつまでたっても彼氏ができないと俺は思うのだ。
「今日はこれだけ持って帰って、残りは明日かな」
「結構持って帰るね」
入り口に積まれた荷物は大きめのリュック4個分。そして残りの量はザっと見てリュック2個分。どんだけため込んでいたのかと言われれば約一か月分と答える他ないわけだが、計画的に持って帰らなかったのは一重にこの姉の“サプライズ”のせいと言って過言ではないだろう。
もし俺にバレてなかったら、当日にこの量を持って帰るつもりだったのかとゾッとする。もしかして良樹はそれが分かっていたから教えてくれたのかもしれない。あいつは姉さんの後先考えない行動をよく分かっているから。
「明日はお祝いに外食行くから、今日多めに持って帰ろうと思って」
「ねぇ、それをサプライズにするべきじゃない?」
「……サプラーイズ」
「何その、取ってつけたかのようなサプライズ感」
お互いの目が合って、思わず吹き出してしまった。何が面白いかと言われても何も面白くないのだが、なんとなく、やっと一息付けたような気がしたのだ。それはきっと姉も同じだったと思う。
「よし、じゃあ明日は手続きもあるし11時頃には迎えに来るから」
「夕方の迎えでも良かったのに」
「いいのいいの、有休使ってなかったし」
両手いっぱいに荷物を持ち上げて、歩き出す姉の姿は覚束ない。俺が手伝えればいいのだが、この有様のため役立たずだ。
「ごめんね、手伝えればいいんだけど」
「大丈夫大丈夫、これも全部サプライズしようとした私がいけないのよ」
「分かってるんかい」
いい笑顔でドアを開ける姉に頭を抱えたくなるが、きっと今回の件でも何も学ばずに同じことを繰り返すのだろうと思う。サプライズ好きなのは昔からだから、よく分かる。
俺は大きな溜息を吐いて松葉杖を片方だけ持ちドアの方へと向かう。そして片方の手で姉が開けていたドアを支えて開けておいた。荷物は持てないが両手が使えない姉の代わりに、せめて車のドアを開けるまでは見送ろうかと考えていた時、エレベーターの方へ歩いていく那珂さんの背中が見える。
「「あ」」
姉弟の声が見事に重なる。思わず姉の方へ目をやると、姉もこちらを訝しげに見ていた。見るまでもなく俺も同じような顔をしていただのだろう、先に口を開いたのは姉だった。
「今の“あ”何?」
「姉さんこそ」
しばらく見つめ合うが、姉が先にチラリとエレベーターの方へと視線を逸らした。
姉さんは那珂さんと知り合いなのだろうか、しかし那珂さんからも、それこそ姉さんからもそういった話は聞いたことがない。姉さんに限っては男の友達すら居らず、今の今まで男の影がチラついたことなんて一度もないのだ。それは弟である俺が心配になるほどで、良樹に一度相談してみたら「雪那さんはいいんだよ、あと4年くらいで彼氏できるだろうし」とか予言めいたことを言われた。
そして再度、痛いほどこちらを見つめてくる姉から目を逸らしたのは俺だった。
「いや俺はほら、今日のログインボーナスもらい忘れたなって」
苦し紛れの言い訳にしかならないが、今はまだ那珂さんと知り合いだとバレるわけにはいかない。これは俺の沽券に関わる。
「ゲーム、もう鞄の中だけど」
「え!?」
「今日のゲームは終わったでしょ」
さも当たり前のことを言ったのだというような顔でこちらを見ている姉に言いたい文句はたくさんあったが、言いたいことが多すぎて上手い文句が出てこず、口をパクパクとしてしまう。しかし一言くらいは何か言いたいと、声を絞り出す。
「終わってないけど!」
「はいはい終わり終わり」
「こ、この鬼!!」
俺の叫びは虚しく、姉はそそくさと去っていく。そのスピードは俺が下までついていくのを許さないほどで、何か言う前には既に視界からいなくなっていた。姉はか弱いわけではないため、あのくらいの荷物なら余裕で持っていけるだろうが、一体何が起こったのか分からず、困惑する。
「まぁいっか、良い時間だし白石さんのとこ行こっと」
部屋にある時計を見ると、いつもの時間をさしており、気持ちを切り替えて白石さんの病室へ行くことにした。今日は退院のことを伝えなければいけないのだ、行かないわけにはいけない。
自分の病室からもう片方の松葉杖を手に取り、2つ隣の彼女の部屋へ向かう。今日は土曜日だからか、お見舞いに来ている人が多く見える。もしかしたら今日は白石さんの家族がいたりするのだろうか。今までほぼ会ったことはないが那珂さんもいたし、あり得ない話ではないはずだ。
俺は恐る恐る、彼女の部屋をノックした。返事はない。しかし念には念をだ、再度ノックをする。やはり返事はなかった。
「失礼します……」
ドアをスライドさせると、いつも通り中心に置いてあるベッドの上に白石さんが座っており、いつも通り外を眺めていた。一つ昨日と違う事と言えば、手首に巻かれた包帯だろう。
室内には彼女以外誰も居らず、一先ず安心して中へと入った。
「昼間は結構暑いに、この時間になると一気に冷えるのどうにかならないかな」
窓を閉めようと窓辺へと近づく。朝から曇っていた空は夕日で染まることはなく、薄暗いままだ。日が長くなってきたとは言えど、太陽が出ていないと一段と冷える。遠くで雷が鳴った。
この時期は昼と夜の温度差が激しくて着る服に困るんだよな、あと秋頃。厚着で出て行くと姉さんが「それは見てるこっちが暑くなる」って文句言うんだよな。早朝の自転車は寒いんだっていうことを分かっていただきたものだ。
「白石さーん」
聞こえないだろうということは分かっていたが、なんとなく声をかけながら彼女の肩を二度叩くと、驚いた様子もなく笑みを浮かべてくれた。その姿に俺が逆に驚かされて、動きを止める。それはまるでこちらの声が聞こえていたかの速度であり、見えていたかの反応だ。
「黒岩さん、ですよね?」
しかし彼女は反応のない俺に不安そうに問い返してくる。その姿に彼女はまだ見えていないということが分かり変な安心感を覚えた。
「もしかして聞こえてる?」
俺のその問いにも何も答えることはない。ではやはりいつも通りなのだ。昨日転んだ衝撃で全部良くなったのかと思って少し焦ってしまった。
俺は戸惑う彼女の手をとり『〇』と書いた。すると安堵の表情を浮かべる。
「そうそう、それ。吃驚したぁ」
いつも通りの行動に心底安心し、彼女になぜ分かったのかを聞いてみることにした。
『どうして、分かった?』
「黒岩さん、いつも窓閉めてくれますよね?」
『〇』
「そういうことです」
年上の女の人にこんなこと思っていいのか分からないが、悪戯が成功した時の子供のように嬉しそうにする彼女を微笑ましく思った。これが姉であったら、憎たらしい笑みを浮かべていること間違いなしなのだが、姉の意味の分からないサプライズ(不発)を受けたあとだと何かが浄化されるような思いである。
しかし、いつも窓を閉めているというだけで俺である確証もないのに、中々賭けた悪戯だな。ていうか、窓閉めるだけで何が分かるんだ。
『驚いた』
「違ったらどうしようかと思いました」
突然、窓の外がピカッと光り、あまり間も明けずに音が鳴った。大分近くに雷が落ちたようだ。それに続くように雨が降り始める。
梅雨はまだ先のはずだった。今日は夕方から晴れの予報だった。だから姉さんに昼ではなくて夕方に荷物を取りに来てほしいと頼んだ。天気が必ず当たるわけではないし、梅雨じゃないから雨が降らないわけではない、それは分かっているけれど、心がどうしても追い付かない。
「黒岩さん?」
手を取ったまま固まる俺を不思議に思った白石さんに声をかけられる。その声は届かない。
姉さん大丈夫かな、車で帰ったよな。どうしよう、とりあえず電話だよな。大丈夫か確認しないと。
小さく震える手に気づかず彼女の手を離し、ポケットに入れていたスマホを取り出す。指がブレるせいで上手く解除できないパスワードに煩わしさを覚える。やっと解除できた時には焦りとイライラで頭がパンクしそうだった。
「くそ、電話帳」
こんな時に限って操作が上手くいかないのはなぜなのか、スマホを投げてしまいたくなる。
画面に注視しすぎて、周りが見えていなかった俺のスマホ画面の前に突然人の手が現れた。その手はそのままスマホを握りしめる。
「あれ?あ、ごめんなさい。これじゃなくて、えーっと。これですね」
彼女はいつの間にかベッドから降りており、どこから出したのか分からないひざ掛けを、目が見えていないせいで不器用に俺の膝へとかける。そして、再度スマホ、ではなく俺の手を彼女の両手で包み込んだ。
彼女の手は暖かく、知らない間に冷たくなっていた俺の手は優しく解かれていくような気がした。
「この部屋寒いですよね、もしかして雨降ってきました?」
自然と窓の方へ視線を移すと、雷は見掛け倒しだったようで、弱々しく窓に打ち付けている雨粒が見えた。
大丈夫、小雨だ。これくらいなら視界が悪くなることはないはず。
やっと落ち着いた自分の手で、再度電話帳を探す。もう片方の手は白石さんに握ってもらったままだ。
〈もしもし那津?ねぇさっきの雷見た?真横に落ちてきたんだと思ったわ〉
数コールあとに電話に出た姉は、面白そうに笑いながら話した。笑いごとではないような出来事だが、相変わらず元気そうで安堵する。出るのが早かったことから、もしかしたら先ほどの雷で一度車を止めているのかもしれない。
〈良樹くんも、黙ってないで何か言いなよ〉
〈雪那さん!〉
〈あ、これ言ったら駄目だったやつだ〉
〈雪那さん……〉
一体あの2人は何をやっているのか。というか良樹はなんで姉さんといるのか。
いつもほぼ無表情の友人が姉に振り回される姿を思い出し、つい笑ってしまう。良樹もいるならきっと大丈夫だろう。俺はやっと安心して電話を切ることができた。俺の突然の電話の理由も聞いてこなかったが、もしかしたら今車内で壮絶な喧嘩が始まっているかもしれない。あの友人が姉に喧嘩を売ったのは、小学生の頃だけだったが。
スマホをポケットに戻し、俺の左手を握っていた白石さんの手を解く。彼女は何も抵抗せずに手を離してくれて、そのままその手に文字を書く。
『ありがとう』
「黒岩さんって、結構寒がりなんですね」
和やかな表情で言う彼女は、それ以上何も言わなかった。
立ったままでまた転んでしまうと危ない為、ベッドへ座らせる。彼女は為されるがままに元の場所へ戻り、貸してくれたひざ掛けはそのまま借りることにした。柔らかい手触りの、茶色のひざ掛けも俺の膝上へと戻る。
『明日、退院』
「明日……?」
言葉の意味を考えているのか、白石さんの動きが止まる。その表情はキョトンとしているが、言葉の意味が分かると分かりやすく明るいものへと変わった。
「良かったですね、おめでとうございます」
まるで自分の事のように喜んでくれる彼女の姿になぜだか涙が出そうになった。
いや別に良樹とか姉さんのことなんて思い出してないよ、あいつら全然おめでとうとか言ってくれなかったなとか、良樹に至っては暴言しか吐いてなかった気がするなとか、そんなこと思ってなんてないんだからね。
「何時ごろ帰られるんですか?」
『2時』
「お昼過ぎなんですね」
なら今日が最後になってしまうんですね、と寂しそうに言う彼女の姿を見て、確かに最後になるのかと気づく。次も普通に来るような気持でいたが、明日からは夕方は家にいるし、明後日からは普通に高校も通わないといけない。家からこの病院までの距離はそこそこあり、来れない距離ではないが、怪我をしているこの身でここまで来るのは些か大変にも思う。それも1人で、となると尚更だ。
「まぁ、時間があるときくらいなら来てもいい気はするんだよなぁ」
ふと、週一回の定期検診があると姉が言ってたことを思い出す。であれば、少なくても週一回は会いに来れるのではないだろうか。彼女に会っている間、姉にどう説明するかはあとで考えることにして、そしたらいいような気がする。
『お見舞い、来る』
「本当ですか?嬉しいです」
安心したのか、白石さんの表情が少し和らいだ。彼女も同じように寂しく感じていたのだろうか、そう思うと少し胸の奥がくすぐったいような、そんな気がする。
そうだ、明日午前中にちょっとだけ来ようかな、姉さんは11時に来るって言ってたし、朝ごはんの後の1時間くらいならバレないだろう。あとは白石さんの予定次第ではあるし、那珂さん以外の家族が来たりしないかも肝になってくるわけだけど。
『明日、朝、来て、いい?』
「全然いいですよ」
『家族、来ない?』
「日曜日の午前中はお見舞いの人が多いので、あまり来ないんです」
一瞬白石さんからなんの感情もない表情が見えた気がしたが、気のせいだったかと思うくらいに今はいつも通り優し気な顔でこちらを見ている。きっと彼女の家族もうちと同じように不定休というやつなのだろう。それだったら日曜日にお見舞いができないのも納得だ。
「何時ごろ来られますか?私は7時には起きてるのでそれ以降ならいつでもいいですよ」
「うわ早起き」
俺は朝ごはんが運ばれてきてタイミングでいつも起きていた。つまり8時過ぎ。そして食べてから二度寝するのが最近のルーティンだ。しかし明日はその二度寝をする時間はないだろう。そして、俺の寝坊も踏まえた時間指定をするべきだと言う結論に至る。
『9時半』
「はい、9時半に絶対起きて待ってます」
それは俺に寝坊するなと言っているのだろうか、いやきっと自分が寝坊しないように宣言しているだけなのだろう。しかしこれは俺も寝坊できなくなったというわけだ。まぁ、いつも8時過ぎには起きているし大丈夫だろう。




