70.呈色③
開け放たれた窓からは温い風と、遠くからフライングしている蝉の声が流れてきた。そろそろ梅雨が明けそうだが、夏が目の前にきているようで少し憂鬱だ。
俺は、何度目か分からない席替えで、ようやく窓側の席を勝ち取っていた。授業中の現在は先生の声をBGMに、頬杖をついて日差しのさす校舎を眺めている。
「いて」
後ろから背中をつつかれ、思わず声を零す。幸いにも先生には聞こえていなかったみたいだが、危うく怒られるところだ。
痛くはなかったが、俺は後ろを振り返って森田を睨みつける。
「サボるなよ」
小声で言い放ち、ウインクをした彼の語尾には星が付きそうだ。俺が頭を抱えたくなる衝動を抑えているところで、チャイムが鳴る。
せっかくの窓側の席が、後ろに森田がいる事によって台無しになっている気がするんだけど。
「今日はこれで終わる。宿題は月曜日までだから、忘れるなよ」
先生が教室から出て行き、俺は机に突っ伏した。
「なっつん、帰らないのか?」
「帰るけどさ」
土曜日である今日は、午前中だけで帰れる。いや、この言い方は間違っているな、土曜日なのに午前中に授業があった、が正しい。2年生になったということで土曜日も登校する羽目になったのだ。
「あ、そう言えば台風来るらしいな」
台風と聞いて脈打つ心臓を最大限に無視し、上体を起こす。いつの間にか目の前の席に移動していた森田は、人のいなくなった椅子に腰を下ろした。
「いつ?」
「来週当たりだった気がするけど。何、ニュース見ない派?」
「あぁ、うちテレビないんだよ」
「はぁ!? まじ? 何を楽しみに生きてんだよ」
森田は信じられないものを見るかのような視線を送ってくる。そんなことを言っても、ないものはないし、新しく買う余裕なんて我が家にはないだろう。それに、楽しみと言えばゲームがあるから問題はない。
「ゲームとか」
「あぁ、あの1年の時に生徒指導の先生に没収されてたやつな」
「何で知ってんだよ」
あれは誰もいない教室でバレて没収されたはずだ。森田が知る由もないはずだが、森田なら知ってても可笑しくないような気もしてくる。何しろ、彼は誰とでも仲良くなるのだ。もちろん、あの生徒指導の先生とも仲がいい。
「那津、行くぞ」
「良樹。じゃあ俺、帰るから」
「おう、2人ともまたな!
手を振る森田を軽く流しつつ、クラスの前に来た良樹の元へ寄ると、誰かにメッセージを送っているところだった。
「佐竹、先に待ってるって」
「あ、うん。了解」
どうやら佐竹と連絡を取り合っていたらしい。それはそうか、今日会いに行く予定なのだから。
「本当にいいのか」
「それ何回目だよ」
「忘れた」
隣を歩きながら、こちらを見ることなく言う良樹に苦笑を漏らす。彼なりに心配してくれているのか、そうでないのか、どうにも分かりづらい。
しかし、無駄に緊張していることがバレバレだからこその言葉なのだろうなとは思う。正直、今にも心臓が飛び出してしまいそうだ。
「こんなに緊張するの、仮面レーダーに会いに行ったとき以来かもしれない」
「思ってたよりも余裕だな」
「どういう意味だ、おい」
失礼すぎるにもほどがあるだろう。
幼稚園の時の俺は、初めて会える正義のヒーローに緊張しすぎて吐いた。前日の夜から色々考えすぎて眠れず、朝はご飯も喉を通らなかった、あの時と同じだというのに。
◇ ◇ ◇
待ち合わせ場所は中央駅にあるファミレスだった。土曜の昼過ぎだけあって、多くの人が出入りしている。店内を見渡せば、一番奥のテーブルで遠慮がちに手を振っている佐竹の姿を見つけた。
「ふぅ」
「大丈夫か」
「思ってたよりも平気だよ」
一瞬、ほんの一瞬だけ逃げ出したくなったが踏みとどまることが出来た。2度目だからだろうか、それとも隣に良樹がいてくれるからだろうか。
テーブルに近づくと、佐竹は立ち上がった。
「黒岩君、あの、久し振り」
「久し振り、佐竹」
中学の時に見た彼に比べて、なんとなく表情が明るくなっている気がする。それは、この間ショッピングモールで会ったときも思ったことだ。顔を隠していた前髪も今ではスッキリしていた。
「取り敢えず、お前ら座れよ」
黙ったままでいた俺たちに、良樹が一喝する。彼の表情は心底面倒くさそうだ。その上隠すこともなく溜息を吐きやがった。
そんな変わらぬ友人の姿に、なんとなく力んでいた肩の力が抜ける。俺は佐竹の向かい側に腰を下ろし、その隣に良樹が座った。
「佐竹、何か頼んだ?」
「い、いやまだ何も」
気軽に尋ねれば、動揺しつつも佐竹は腰を下ろす。それを横目にメニューを開いた。
「じゃあ、取り敢えずドリンクバーと」
「ポテから大盛りと白玉ぜんざい抹茶パフェ」
かぶせる様に言ったのは、もちろん良樹だ。俺はジト目で隣を見るが「なんだよ」と気にした様子もなく聞いてくる彼に、首を振る他なかった。
「佐竹は何か食べたいものある?」
「僕はチョコパフェ食べたい」
「じゃあ、俺はチーズケーキにするか」
注文を待つ間、俺たちは今どこの高校へ行っているのかや、佐竹の部活について等を色々聞いた。そうしていると、いつの間にか注文していたものも全て揃う。
思っていたよりも普通に会話が出来ることに、自分でも驚いた。最近までは名前を聞いたり、顔を見ただけで息苦しくなっていたはずだったのだ。
しかし実際に話してみると、緊張はしたものの気分が悪くなることもなかった。
「本題に入るんだけど」
佐竹がパフェを食べ終えた頃、真っすぐとこちらを見ながらそう言った。丁度俺も食べ終え(良樹はまだ食べている)、良い感じに緊張も解れていたので心を決めて、頷いた。
「今更かもしれないけど、謝らせてください。一瞬でも死んでしまいたいと思ったこと、それを黒岩君にだけ押し付けようとしたこと。優しさを利用したこと……本当にごめんなさい」
深く頭を下げる彼に、ズキリと胸が痛んだ。
確かにあの日、佐竹のメールで俺は家を飛び出した。それで両親を失って、そして助けようとした佐竹にも裏切られて。謝るだけで許せることではない。そのはずなのに、彼を憎く思う感情がどこにもなかった。
「俺も、ごめん。佐竹にも悪いところがあるんじゃないか、とか言って」
途切れ途切れに紡いだ言葉に、顔を上げた彼は目を見開いて、こちらを見た。
「……実は僕、高校で前に仲の良かった友達と会ったんだ。正直怖かったけど、黒岩君の言葉を思い出したんだよ」
「俺の言葉って」
ちゃんとは思い出せないが、佐竹の物言いが偶にキツく感じたから、もう少し言葉を選んだ方がいいと言った。
だけど、だからと言って虐めや暴力をしていい訳ではない。そういう人間は、どんな言葉を選んでも変えられないのだ。だからこそ、俺は佐竹に謝った。
「僕、デブとか不細工って呼んでたんだ。悪気があったわけじゃない。嫌だって言われたことがなかったし、あいつにならいいやって思ってたんだ」
ある日の佐竹の言葉が思い出される。〝仲が良かった、よく揶揄ってた″そう言っていたことがあった。
絵を否定されて一気に、すごい拗れたなとは思っていたが元々の始まりは佐竹からだったようだ。
「あっちも僕に気づいた時、すごく気まずそうな顔してた。けど、僕から声をかけてね。謝ったんだ。そしたら向こうも、ずっと無視していたこと謝ってくれた」
「そっか」
虐めといじり、これを判断するのは難しい。俺だって分からない。だからいつも相手に言っていたんだ、嫌なことがあったら俺に相談してって。
「うん。だから、黒岩君は悪くないよ」
ドキリ、と心臓が大きく跳ねる。俺が悪くない?
今では考えられないぐらい無鉄砲だった頃の俺。そんな自分に、自分が一番後悔したのだ。
「まぁ、そもそも番田が悪いんだけどな」
綺麗に完食している皿を重ねながら、良樹は言った。
「澤北君も相当悪だなって思ったけど」
「俺は何もしてないだろ」
納得がいかなそうに眉を寄せ、佐竹と談笑をする良樹の姿に改めて成長を感じると共に、怖がっているくせに素直な言葉を良樹に言い放つ佐竹は変わらない。
「いや、だってガラの悪い生徒がみんな転校していったのだって、」
「何か言ったか?」
「な、なんでもない」
「ちょっとは空気読めるようになったな」
「空気と言うか、澤北君は顔が怖い」
「人の見た目に文句言うんじゃねぇ」
「ご、ごめんなさい」
さっきから心臓がズキズキと痛い。なんだか世界が白黒にチカチカと点滅しているような気がした。
佐竹は悪くない。俺も悪くない……本当に? じゃあ一体誰が悪いのだろうか。
「……那津?」
名前を呼ばれて我に返ると、怪訝そうにこちらを見ている良樹が目に映る。今、俺は何を考えていたのだろうか。
「あ、あぁ、ごめん。佐竹、今は大丈夫なんだよな?」
「うん。まだ友達は全然出来てないけど、学校は楽しいよ」
「それなら良かった。演劇の大会で良樹に会って驚いただろ」
笑顔の佐竹に、本当に楽しんでいるのだと分かり、安心する。俺は飲んでいなかったジュースで、乾いた喉を濡らした。氷の入ったコップから水滴が机へ滴る。
「うん、吃驚した。まさか演劇部に入部してるとは思っても見なかったし」
「分かる。俺もこいつが演劇部入るとは思わなかったし」
「また、こうやって黒岩君と話せると思わなかった。黒岩君の家族の」
「佐竹」
会話の途中で突然、良樹が佐竹の声を遮る。しかし、家族という言葉はしっかりと聞こえていた。驚いた様子の佐竹は、良樹と俺の顔を交互に見る。
「黒岩君……自分のことは、許してあげたの?」
心臓が早鐘を打ち、手足の感覚がなくなっていく。どうして、その言葉が佐竹の口から出てきたのだろう。
佐竹は俺が学校を休み始めた時には転校したと良樹から聞いていた。俺が休んでいた理由なんて、知らないはずなのに。まるで知っているみたいに。そもそも自分を許すって――
「なんのことだよ」
引き攣る顔で必死に笑みを浮かべる。佐竹が良樹を見て、彼は大きく溜息を吐き出す。
「佐竹は知ってる」
それはどこからどこまで? そんな疑問が浮かぶ。
「……佐竹は気にしなくてもいいよ」
「駄目だよ。僕のことを許す前に自分のことを見てあげなきゃ、そうじゃなきゃ」
泣きそうな顔で言う佐竹の言葉を遮るように、俺は笑顔を貼り付ける。良樹の顔はどうしても見れなかった。
「佐竹、俺は大丈夫だからさ。高校では頑張れよ」
「うん……今日はありがとう。お会計は僕がするよ」
佐竹は何かを言いたそうにしていたが、俺と良樹の顔を見て席を立つ。
「まじか、ありがとう。良樹も帰るだろ?」
「あぁ、いや。今日は道場行かないと」
「おっけー、俺は先帰るな。またな、佐竹」
「またね」
良樹が何かを言う前に、と思って急いで席を立ったが、結局彼は何も言わなかった。最後まで、その表情を見ないようにしていたせいで、何を思ったのかも分からない。
しかし、今は自分の感情の方が分からなかった。俺は本当はどうしたいのだろうか。
少し傾いた太陽が、灰色の大きな雲に覆われていった。
季節は秋、もうすぐ冬。
でも物語は、そろそろ夏。
そういうことも、あるよね。
次回は10月23日22時に更新予定です!
よろしくお願いします!




