4.色男
平日の昼下がり。暖かな日差しを浴びて、俺は空を眺める。普通ならば学校があるわけだが、俺は正当な理由により学校を休んでいて正当な理由により、ここで日向ぼっこをしているのだ。なんて優越感。今日もいい天気だ。
「黒岩くん、そろそろ部屋もどろりましょうか」
「もうそんな時間ですか」
隣で付き添ってくれている今日の担当看護師の山田さんに促され、ポケットのスマホを取り出して時間を確認すると、時計は午後4時30分を表示していた。どうやら1時間近くここでボケっとしていたらしい。暇を持て余してはいたが、時間が過ぎるのも早いものだ。
「リハビリがないとこんなに暇なんですね。ゲームが出来れば違うのに」
「私の息子なんてゲームするなって言っても聞かないのに、黒岩くんは偉いわねぇ」
俺は山田さんに支えられつつ、ベンチから立ち上がる。ちなみにここは病院内にある庭だ。公園と併設されており、夕方に近いだけあって小さな子供たちが遊びまわっている姿が目に入る。遠くの方には両親と思われる母親たちが井戸端会議に花を咲かしているのか、とても楽しそうだ。
「眩しいですね」
「もう陽も落ちてきたからねぇ」
俺は無意識に溜息を吐く。
「そんなに暇なら彼女のところに早めに行けばいいのに」
「……彼女って誰のことでしょうか」
「分かってるくせにー、私はきっちり見ていたんだから!」
山田さんはとてもいい顔で笑みを浮かべているが、絶対に目を合わせてはいけない。そう言えば昨日、白石さんの病室に来たのはこの人だったことを思い出す。なんてタイミングの悪い。
自動ドアが開いて、冷えすぎた空気が全身を包む。昼間は暖かいが、夕方になると気温が一気に下がるのだから冷房はまだ早いのではないかとも思うが、働いている側からすると動いて暑くなってしまうのだろうか。
「白石さんとはどういう関係なの?お姉さんに話してごらん?」
山田さんは目元の小じわを一層深くさせて、俺に詰め寄ってくる。ちなみに山田さんは最近、物忘れが酷くなったと俺に愚痴っていた。だからと言って、もうお姉さんだなんて言える年でもないでしょうとは言わない。それを言ってしまったら終わりだという事くらい、いくら俺でも分かると言うものだ。
エレベーターは待つことなく到着し、2人で乗り込む。山田さんが6階のボタンを押してゆっくりと上昇し始めた。
「そんな大した関係じゃないですよ」
「そんなことないでしょう」
是が非でも聞き出したいのか、俺を見つめる熱いまなざしは変わらない。ゴウンゴウンという微かな機械音だけが木霊し、とうとう俺は諦めて小さく息を吐く。
「ただ、ちょっと知り合いになっただけですよ」
「あら、元々の知り合いってわけじゃないの?」
「違いますよ、色々あって話し相手になってもらってるだけです」
ポーンと軽快な音とともに6階に到着する。息苦しいような閉塞感から解放され、いち早くエレベーターを降りる。すると山田さんは不思議そうに首を傾げた。
「そうなのねぇ。でも不思議ね、白石さんとはどうやって」
「あ、俺そろそろ行かないとなんで!付き添いありがとうございました!」
これ以上はいけないと、俺は急ぎ足でその場を立ち去る。治り始めている足は急な動きに驚いたのか小さな悲鳴を上げる。そろそろ痛み止めが切れる頃か、あとで食後の痛み止めをもらいに行こう。
山田さんはというと、残念そうにナースステーションへと帰っていった。危ないところだった。何度も言うようだが、白石さんとの出会いの経緯なんて言ってしまえば、例え今仲良くできているとしても、確実に俺は不審者扱いの変態になりかねないのだ。あの時の俺は軽率だった、これだけは分かる。
「まぁ、その陰で楽しいのもあるんだけどさ」
白石さんのネームプレートをしっかりと確認し、ノックをする。返事はないが、そのまま病室へと入る。いつも通り窓が開いており、春のまだ冷たい風が俺に、吹かなかった。思わず眉間にシワを寄せる。窓の方を凝視するが、窓はしっかり締まっており、鍵まできちんと閉めてあった。白石さんは相変わらず外を眺めているようで、表情は見えないがきっと“無”なのだろう。
今日は松川先生が来なかったのかとも思ったが、部屋の空気がまだ冷たいことから考えるに、つい先ほどまで窓は開いていたのだろうということが分かる。であれば誰かが閉めたという事になるのだが、一体誰が。そこまで考えて俺の息が止まる。なんとなく振り向いた後ろに、人が立っていたのだ。
スーツを身に纏い、スラっとした長身男性。よく手入れされたような、センターに分けられた前髪と整えられた黒髪。その表情は何を考えているのか分からず、細目の彼は微笑んでいるようにも見えた。
「……どなた様でしょうか」
俺は一体何を言っているのか。そんなこと自分が一番分かっている。あちらからしたら、そもそもお前が誰なんだという話なのだ。ここにいるということは絶対白石さんの知り合いなわけで、俺は知らないけど白石さんは知っている相手なわけで。つまりお前が誰だ状態なんだよ。
俺は混乱する頭でそこまでの結論に至った。結論に至れているのかすら危ういが、そんなことを考えている余裕はない。すると目の前の男性が面白そうに吹き出して、口を押えながら手招きして先に外へと出て行った。
外で話そうという事なのだろうか。よく分からないが、なんだか笑われちゃったし、悪い人ではないのだろう。とりあえず着いていってから考えることにしよう。
黙ってついていくと、扉のすぐ外の方で待機している姿があった。俺も出てきたことに気づけば、そのまま歩き出し、エレベーターボタンを押した。軽快な音とともにやってきたエレベーターに乗り込み、彼は最上階のボタンを押す。外に行くのかと思ったが、上の階に何かあるのだろうか。
最上階へと到着すると、彼は階段を上り始める。遅れないように急いでついていこうとすると、手を差し出された。
「あ、どうも」
俺は思わずその手を掴み、一緒に階段を上る。そこまで長くはない階段を抜け、思いドアを開けると庭園が広がっていた。
「うわぁ」
そこには数人の患者さんと看護師さんがおり、各々が自由に過ごしている。こんなところがあったとは知らなかった俺は思わず感嘆が漏れる。
「ここに来るのは初めてですか?」
「あ、はい。こんなところがあったんですね」
「珍しいですよね、屋上庭園なんて。最近できたらしいですよ」
優しい声色の彼は、俺を近くのベンチへと座らせてくれた。すごい良くしてもらっているのだが、なんだか緊張感もあるため戸惑ってしまう。まぁ俺たちは初対面で、出会ったの白石さんの病室だからな。どう足掻いたって気まずい関係のはずだろう。
「えっと、俺はその」
「黒岩那津くん、ですよね」
思わず、彼の顔を見る。隣に座る彼は少し相変わらず表情が読めない。
「まずは、すみません。急に呼び出してしまって」
「あ、いえ。俺も急に押し掛けたみたいなものですし」
冷や汗の止まらない俺を横目に、彼はフッと優しく笑った。どこか影のあるような笑顔に、なぜか白石さんの顔が重なる。彼女がそんな風に笑ったことは今日まで見たことはなかったはずなのに。
「僕は白石那珂、那津の兄だよ」
「お……え!?」
驚きのあまり思考が停止するとはまさにこの事で、いい経験が出来ました。いやそうじゃなくて。
俺は頭を振り、目の前の自称白石さんのお兄さんを凝視する。確かになんとなく白石さんに似ている気がする。しかし、まさかこんな急に身内登場するとか思わなかったし、考えたくもなかった。
いつか誰かに出会うとは思っていたけど、(実際に松川先生に出会ったし)まさか今肉親が現れるなんて。ていうか身内の登場早すぎない?普通もう少しあとに出てきて「那津は渡さない!」的な感じになるんじゃないの?あ、待って、むしろ肉親に会う確率の方が高いんじゃないの?俺って実は馬鹿だったの?
足早に脈打つ心臓に気づかないほど、俺は頭が真っ白になる。一体今からどうすればいいのか、というより今の状況を理解する方が難しい状態だ。そりゃあ緊張感あるでしょうよ、警戒されてるだろうし。あれ、もしかして本当に通報されるんじゃ?
「そんなに俺と那津って似てないかなぁ」
悲しそうに俯くお兄さんに俺は回らない頭をフル回転される。
「あの、えっと、そういう事ではなくてですね!今の状況というか、不審者的俺みたいな!」
「冗談ですよ」
「冗談かい!」
慌てた俺の横でケロッとして、おかしそうに笑ったお兄さんに戸惑いを覚えたのは俺だけではないはずだ。思わず全力でツッコんでしまうほどには。しかし一体どういった理由で、こんな名前も知らないような明らかに不審な人間が、なぜだか目も耳も悪い妹の病室に勝手に訪れた限りなくアウトに近いアウトオブ不審者の俺に自己紹介をしてくれたのか。皆目見当もつかない。
「とこで黒岩くん、僕って一応毎日お見舞に来てるんですよ。夕食前くらいに。知りませんでしたか?」
彼の細い目がスッと開かれたのを見て、俺は不自然に顔をそらす。目を合わせたら食われるような気がした。
「あ、いえ」
なんとか出た声はか細く、笑える。笑わないけど。それより、俺が来る前には松川先生が来るという事しか聞いていないのだが。そんな話白石さんから聞いていないですけど。
俺の心はこんなに忙しないにも関わらず、庭園は平和そのもので、傾き始めた陽と、向かい側には少し欠けている月が向かい合っていた。世界は明るいのにはっきり見える月は、まるで必死に自分を主張しているようだ。
「そこで君のことをよく見かけていたので、どこの馬の骨かと思いまして個人情報特定のために後をつけさせてもらいました」
この人はきっと、恐ろしく妹思いの兄なのだろう。そう考えると、その行動も批判できるものではないだろうし、俺だって知らないヤツが姉さんのところに通ってたら気になって後をつけるだろう。多分きっと恐らく。
ふと、いつも感じていた視線のことを思い出した。恐らく、白石さんの病室から出てきて自分の病室に戻るまでの間に感じていた視線の正体は彼だったのだろう。そう考えれば納得である。しかし、それならば一体いつから俺のことを知っていたのか。考えると少し背筋が冷たくなってきた。