32.変色
――那珂side
あれは何年前だったか、那津がまだ小学生くらいで、僕が高校生になったばかりだった気がする。父は仕事ばかりで家には帰ってこず、母とは家を出てから喧嘩すら少なくなっていた。
そんないつも通りの夏の日。普段、家族で出かけたりしない我が家で、唯一父が連れて行ってくれたのが、あのひまわり畑だった。
「来ないな」
腕時計を確認し、車外を見つめる。いつもであれば約束の時間丁度には道の向こうから自転車を漕いでやってくるナツくんの姿が見えるはずだ。しかし今日はもう10分も時間を過ぎており、更に彼からの連絡もなかった。
隣に視線を移せば、助手席で外を見つめる妹の姿がある。なんとなく楽しげに見える姿に安堵した。こうやって外に連れ出すようになってから、入院前に比べて表情が明るくなっている気がしている。それは、ナツくんの存在も大きいのだと思う。
――もしかしたら、記憶が無くなる前より明るいかもしれないね。
彼には感謝しかない。できる事ならずっと妹を支えてほしいし。そしてもし、記憶が戻ったときには助けてほしいと思っている。
まぁ、このままでも構わないとすら最近は思ってるのだけど。現状維持を母親は嫌がりそうではあるが、もしもの時は僕の借りてるマンションで一緒に住めば問題ないだろうから。
「もしかしたら何かあったのかな」
一向に来る気配がないため、一言メールだけ送っておいて止めていた車のエンジンをかける。幸いにも彼の家までの道のりは分かっているため、迎えに行く方が早いだろう。
隣で妹がビクリと肩を震わせる。流石に動き出した車に不安を覚えたのだろうが、何も言わずに再度外へと顔を向けていた。
少し車を走らせれば、黒岩という表札がかかった家に到着する。ここまでの道にも慣れたもので、迷わずに着くことができた。できることなら毎日のように妹をここへ送り届けたいところなのだが、実家の状況と僕の仕事の都合が邪魔をするためそれが叶わない。
いっそのこと全て殴り飛ばしてやろうかとも考えたけれど、世話になっている居酒屋の店長に全力で止められてしまったため出来ないのだ。
『待』
それだけ伝えると、那津は頷いてくれた。それを見てから外へと出てインターホンを押すと、ピンポーンと高い音が響いた。と同時に家の中からバタバタとした足音が聞こえてくる。
「はーい、って白石さん!」
ピっと機会音が鳴り、インターホンから聞こえたのは黒岩さん、ナツくんのお姉さんの声だった。どうやら向こうはカメラで誰が来ているか分かったようで、驚いた様子で通話を切る。ほどなくして玄関の扉が開き、彼女は焦ったように笑みを浮かべた。
「どうかしましたか?」
「急にすみません。ナツくんと会う約束をしていたんですが、来なかったので心配で来てしまいました」
「なるほど。すいません、弟はいるんですけど」
言葉を詰まらせている様子の彼女は、不自然で怪しく見える。それは何かを隠しているかのような不自然さだ。
確かにナツくんも高校生であるため、気分が変わることもあるだろうがドタキャンはさすがにないと思いたい。
「今日は那津、体調悪いみたいで」
黒岩さんの後ろから出てきたのは、ナツくんの友人の、名前は確かヨシキくんだ。彼の表情からは嘘をついているかどうかは分からないが、明らかに驚いている彼女の姿で大方嘘なのだろうことは察することができた。
「夏風邪ですか、それは大変ですね。何か買ってきましょうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
嘘をついているにも関わらず悪意のない様子に戸惑うしかないのだが、なぜこんな嘘をついているのだろうか。いや、彼女の後ろにいる彼からは、不思議と悪意と似たものを感じる気はしているのだけど。
笑みを浮かべつつ、冷や汗を流していると部屋の奥の方から覚束ない足音が聞こえてきた。もしかしたら他の家族も在宅なのかもしれない。それは当然だし普通の事なのだが、普通の家庭だというだけで形容しがたい嫌悪感に襲われてしまう。
「姉さん、誰が――」
「那津、起きたの!?」
手すりを握りしめて、ふら付きながら階段を降りてきたのは今しがた僕が迎えに来た人物だった。どうやら本当に体調が悪そうで、妙な威圧感を放っていた彼もナツくんを支えるために部屋へと入っていく。
「那珂さん?」
「大丈夫? 辛そうだね」
「あ、約束! ……すみません」
良樹くんに支えられて玄関まで来た彼は、遠目からでは分からなかったが青白い顔をしていた。黒岩さんも心配そうに彼を見つめており、よく見たら彼女の目元も寝不足なのか隈が薄っすらと見える。
「気にしないで、風邪なら仕方ないよ」
「風邪?」
不思議そうに首を傾げるナツくんに、僕も首を傾げる。当の本人が風邪を自覚していないのだとしたら、これは本物の馬鹿というやつか。
「お前もう休め」
「は、良樹? 何を」
「いいから」
当人以外は彼を部屋の中へ押し返そうとするが、そんな心配を他所に、怪訝そうに眉をひそめていた。そして極めつけにはヨシキくんへ、必死の抵抗を見せている。
「大丈夫だから、別にどっか悪いわけでもないし。あの、白石さんって」
「うん、来てるよ。車の中だけど」
チラリと外を見れば、助手席にいる妹と目が合ったように感じた。何を考えているのか、車の中から真っすぐとこちらを見る姿が、あの日、僕が家を出て行ったときの妹の姿に重なった。
「じゃあ、すぐ準備してきます」
「でもまだキツイでしょ?」
「大丈夫、たくさん寝たし」
未だに攻防を続けている3人だが、これにいつ決着がつくのか。体調が悪そうなのは本当のようだし、今回は諦めて後日に回した方がいいだろうか。
しかし、そうは思ってもナツくんが無理してでも出てくれないかなと心の奥底で考えてしまっている僕。
「風邪ならゆっくりした方がいいよ」
そうやって思ってもない言葉を口に出す。昔に比べれば本音を隠すことも出来るようになっただけ、成長したものだと思う。高校生の彼らを見ていると10代の頃が懐かしくなる。
「え? 風邪じゃないですよ。じゃあ着替えてきます」
先ほどよりかはマシになった足取りで、再び自室へと戻ったナツくんの後姿をヨシキくんは盛大な溜息を吐いて見送っていた。それに、黒岩さんは苦笑をもらす。声をかけて良いものかと少し悩みつつ、「あの」と控えめに声をかけた。
「すみません、本人が大丈夫そうなので連れて行ってください」
「分かりました」
「雪那さん、でも」
「顔色も昨日よりは良くなったし、外の空気吸った方がいいかもだしね」
黒岩さんは諦めたようで、外出を許可するようだ。対するヨシキくんは未だに不服そうに食い下がっている。
どうやら昨日は今よりも状態が悪かったようだ。それならば連絡ができなくても仕方ないところがあるかもしれない。いや、一報あっても良かったような気もするかもしれない。
待つこと数分、しっかりとした足取りでナツくんは階段を降りてきた。着替えている間に多少元気になったのかもしれない。ひとまずは一安心と言ったところだ。
「お待たせしました。じゃあ行ってきます」
「気を付けてね」
「僕も、お邪魔しま……した」
軽く会釈をして玄関扉から手を離すと、未だに不服そうな彼と直前に目が合って睨まれたような気がしたため、思わず睨み返しそうになってしまった。昔の癖でつい、ガン飛ばしそうになる。高校生相手に大人げない事をするところだった。
「那珂さん?」
「ごめん、今行くね」
ナツくんに促され、慌てて車へと乗りこむ。ひんやりと冷えた車内は少し肌寒いほどだ。空調の気温を上げて、エンジンをかける。場所はいつもの公園でいいだろう、妹も喜ぶし。
「そう言えば、昨日は何かあったの?」
「あーまぁ少し。ごめんなさい、連絡忘れてて」
「体調悪かったら仕方ないよ。キツイ時は言ってね、いつも妹がお世話になってるし」
「いえ、そんなことないですよ」
いつもより口数が少なく感じるのは、気のせいだろうか。彼とは長い付き合いではないにしろ、割と裏表がなく、話しやすい上に弄りやすい性格、という僕の認識は間違ってはいないと思っていたのだけれど。
「ヨシキくんって結構心配性なんだね、ナツくんが来るまでずっと引き留めてたよ」
「そうなんですね」
やっぱりそっけない様な気がする。迎えに行ってしまったのが駄目だったのだろうか、高校生の考えることは分からない。しかしここで彼の機嫌を損ねでもしたら、妹に会ってくれなくなる恐れもある。それでまた、塞ぎこんでしまったら最悪だ。今度こそ、間違えないようにしなければ。
しかし車内は僕の考えとは裏腹に、静かな時間が続き、公園に着くまで誰も話し出すことはなかった。
◇ ◇ ◇
「ありがとうございます」
エンジンを止めて、ようやく彼の声が聞けてホッとする。その反面、彼を妹の元に繋ぎとめておかなければいけないという焦りも生まれた。
「ナツくん、お願いがあるんだけど」
「なんでしょう」
「妹のこと、これからもずっと頼んでいいかな」
静まり返る車内、これは彼の表情を見なくても分かる。確実に困惑している空気だった。高校生に何を頼んでいるんだと言われば、そうなのだが僕には彼に頼むほかないのだ。
「無理のない範囲でいいんだよ。ただ、那津を助けてやってほしいんだけなんだ」
「助ける?」
抑揚のない声に思わず後ろを向くと、想像しているよりも無表情な彼の姿があった。今まで喜怒哀楽のはっきりした様子しか見たことがなかっただけに、思わず言葉が詰まる。
「……難しく考えなくてもいいよ、今までみたいに会ってくれるだけで」
「ごめんなさい、助けるとかはちょっと荷が重いです」
淡々と、しかしハッキリとした拒否。その言葉には一切の迷いはなく、かぶせる様に僕の言葉を遮る。そして、先ほど怖いと思っていた表情は今では笑顔に変わっており、それがまた僕の言葉を詰まらせる。
「ここまでの付き合いだし、そんな風に言わなくてもいいんじゃないかな」
「そうは言っても長い付き合い、というわけでもないですし」
彼は今、僕たちに一線を引いているのか。もしかしたら、僕たちが気づいていなかっただけで、ずっとこうだったのかもしれない。だったら何故、妹と仲良くなったのだろうか。入院中だけの暇つぶしとでも思っていたのだろうか。
「こんな状態の妹を見て、よくそんなことが言えるね。キミには良心がなかったみたいだ」
気まずい静寂が冷えた車内を包み込む。
頭の中をグルグルと余計なことが駆け巡り、つい本音をもらしてしまった。頭に血が上ってしまったようだ。高校生相手に何ムキになっているのだろうか。
「その良心で何かあった場合、責任は誰が負うんですか」
「責、任?」
責任、そう言った彼は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
「まさか姉さんにも、それ言ってませんよね」
「彼女には、まだ」
「これ以上姉さんに関わらないでください。俺と白石さんとの関係は今まで通りです。これ以下はあっても、これ以上にはなりません」
言うだけ言って車から出て行く彼は、しっかり那津を連れていくことを忘れずに助手席のドアを開けた。その時にも一切僕とは目を合わせようとせず、2人は背を向けて公園へと歩いて行く。
何が一体どうしてこうなったのか、頭が痛くなりそうな事態に呆然とするしかない。
「はぁ……高校生に何ムキになってんだ俺」
溜息を吐き髪をかき上げると、額のキワにある傷が手を掠める。今さら痛みはしないが、無性にイライラしてきたため、車内の引き出しを開いて煙草を探す。しかしそこにはCDしか入っていなかった。
「そう言えば禁煙してるんだった」
思わず舌打ちをして、再び大きな溜息が漏れ出た。仕方がないため、ポケットに入れていたガムを取り出して噛むが、なんの気もまぎれる気がしない。
「焦りすぎたなぁ」
視界の端にいる2人の姿に、これからのことを考えると悩ましくなる。彼の言動について首を突っ込んでいいものか、それともこのまま様子を見た方がいいのか分からないのだ。
暑い日差しに、止めたエンジンを再びつける。温くなり始めたエアコンの風が頬を撫でる。結論が出ないまま、いつも通りの2人を見つめた。
次回更新は5月18日の22時頃を予定しています!!