3.一色
白石さんの部屋に通うようになった。
と言っても、昼過ぎのリハビリが終わって、姉さんの面会があればその後に少し話に行くぐらいなのだが。でも、それが日課となって1週間近く経つ。ほんの1時間、それが俺たちの話せる時間だ。
目の前には306号室、白石那津の文字。俺は松葉杖を両手に抱え、見慣れた扉を見上げた。
車椅子生活はつい最近終えて、今では松葉杖での移動ができるところまで回復をしている。少しの寂しさを覚えるが、よくなってきているのを身をもって感じられるのは喜ばしいことだし、そろそろリハビリも終わる頃合いだと勝手に思っている。
慣れた手つきで扉をノックした。返事はもちろんないが、そのまま開けて中へと入る。初めに言っておくが、きちんと白石さんから許可はもらっている。決して勝手に入ってきてるわけじゃない。白石さんは「私の耳が聞こえないので、自由に入ってきてもらって構わないですよ」と優しく言ってくれたのだ。大人の女性ってみんな、あんなに懐が深いのだろうか。いや、姉さんは違うからな。……おっと悪寒が。そもそも白石さんの年齢知らないんだけどね。
ふわりと冷たい風が吹き込んできた。最初のとき、なんで窓が開いているのかを聞いたら、松川先生が昼頃に来て開けていくのだと言っていた。なんでもずっと病室に籠っていると憂鬱になってしまうから、だそうだ。彼女に対する気遣いなのだろうけど、日が暮れてくると気温も下がってくるのだから、締めに来なければ寒いのではないかと俺は思う。だって俺は寒い。だから俺は来たらまず窓を閉めることにしていた。傾き始めた太陽を眺める。夕食の時間まであと50分。
俺は窓のカギを閉め、白石さんへ振り返る。体の線は細く、ちゃんとご飯を食べているのかと疑わしくなるほど不健康そうだ。そんな彼女は相変わらず無表情で外を眺めていた。眺めている、という表現は目の見えない彼女にとって正解ではないのだろうけど、俺から見える彼女はちゃんと外を眺めていた。
彼女の肩をポンと2度叩くと無表情だった表情が驚きと、不安に染まる。
「黒岩さんですか?」
自信なさげに問いかけてくる姿も見慣れたものだ。俺だと分かりつつも、目が見えないものだからやっぱり自信がないのだと言っていた姿を思い出して仕方ないよなと思いつつ、彼女の背中に『〇』を書く。
「こんにちは」
安堵の表情を浮かべる白石さんに、俺までホッとする。今日は何の話をしようかと考える。基本的に難しい話はできない。だからと言って単純すぎる話では会話が続かないのだ。ここ数日では基本的に俺のリハビリのことを話していた。説明が面倒だから、事故になったこと、それで今リハビリ中だということだけを伝えている。そのうえで、リハビリの先生と話したこと、そこで起こったアクシデントなんかを話したりしていた。
白石さんは俺の顔を見てから、外へと視線を移す。その瞳に映っている空は、彼女にとって大切な何かだったのかと思わせられる。
「今日は何色ですか?」
その問いは、俺がここへ通い始めてすぐ聞くことになったものだった。再度、晴れている空へと視線を戻す。春が過ぎて、5月前。まだ夏には程遠い空の色は、俺には特別なものには見えなくて。でも彼女にとっては違うくて。その違いが俺には分からない。だから俺はこう答えるのだ。
『みずいろ』
「今日は澄んだ空なんですね」
誰でも知っていそうな色の言葉。俺はいつもそれしか答えられないし、それ以上のものを答えようとも思わない。けれど彼女は満足そうに、今日はみずいろの空を見上げるのだ。昨日は青、一昨日は灰色。毎日代り映えのしない俺の返答に飽きもせず問いかけてくるのはなぜなのか、それは分からないけれど、彼女がそれでいいのなら俺も別に、それでいいと思うのだ。
「黒岩さんは今日もリハビリ帰りですか?」
『〇』
「毎日お疲れ様です」
「あ、そうだ」
リハビリへの労いで、今日聞いた話を思い出す。それは手書き文字について、だ。すっかり忘れていたがリハビリの先生、湯田先生に「目が見えなくて、耳も聞こえない人との会話って普通はどうするんですか?簡単なやつで」というような質問をしていたのだった。その返答が「え?そうだな……一般的には点字とかだけど、一番簡単なのだったら手書き文字かなぁ。人によるけどね」だった。そこで気づいてしまったわけだ。背中である必要なかったのでは?と。
だから俺は白石さんの背中ではなく、前にある手を掴む。ちなみにこの行動はかなり勇気のいるものだったと言っておこう。いくら俺には姉さんが居て、女子が苦手ではないからと言って、それに触るのはまた別問題なのである。中学の体育祭で、いつも普通に接していた女子といざダンスを踊るとなったときの緊張感を思い出してほしい。
白石さんもかなり気を抜いていたのか、手を触られた瞬間、以前背中を触ったときと比べ物にならないくらいビクリと肩を揺らしていた。その姿は緊張で硬くなっているように見える。
『てがきもじ』
「てがき……あぁ、手書き文字」
『ごめん』
「気にしないでください、私も言っていませんでしたから。それに」
「それに?」
「伝言ゲームみたいで、楽しいなと思ってたので」
照れくさそうに笑みを浮かべる白石さんは、俺が書きやすいように向けていた背中から、ベッドサイドに腰掛けて俺の方に正面を向けた。初めて真正面から向き合う彼女は、また新鮮に思える。
――そう言えば、こうやって顔を見合わせて話すのは初めてかも。
初めて出会った日も、今日までの日も。いつも彼女の横顔か、後姿しか見ることがなかった。彼女の目が見えないため、視線が合ったと感じることはあっても、本当に目と目を合わせて話せているわけではなかった。だからと言って、今この状況でも目が合っているというわけではないのだろうけど、なんだか変な特別感というか、何とも言えない不思議な感情が芽生えてくる。
『おしえてほしい』
「手書き文字をですか?」
『〇』
今までなんとなくでコミュニケーションを取っていた為、こういった間違いを起こしていたのだ。それに気づいたのだから、あとは当人に話しやすい方法を聞くのが手っ取り早い。そう思っての提案だったのだが、白石さんからの返事がない。どうしたのかと彼女の顔を見ると、驚いたように目をパチクリとささえていた。
「え?」
「あ、ごめんなさい。これからも黒岩さんが来てくれるんだなと思って、驚いて」
ほら、私こんなんだから。と白石さんは困ったように眉を下げる。彼女の言っている意味はよく分からないが、もしかすると面会に来てくれる人が少ないのだろうか。確かに会話は難儀するし、大したことも話せないけど、それで来なくなるということは今のところ無いとは思う。でないと、俺も暇になるし。
「じゃあえっと、手書き文字ですね。特に決まったルールがあるわけではないんですけど」
そう言って話してくれたのは、白石さんが理解しやすい手書き文字の方法だった。平仮名だけの方が分かりやすい人、片仮名を好む人、漢字を使用しても理解できる人。様々な人がいるそうだ。そんな中で白石さんは漢字を使ってもある程度分かるが、ゆっくり書いてもらった方が分かりやすいとのこと。
そりゃそうだろうと俺も納得する。早口で話されるより、ゆっくり丁寧に話す方が聞いてる方としても理解がしやすいし。特に授業とか。まぁ逆に眠くなるだろうけど。
それから、単語と単語の間に読点を入れると理解しやすいらしい。なるほど、と思う。例えば先ほどの“てがきもじ”これは“手、書き、文字”とした方が分かりやすいと言う事。そう言われればそうかもしれない。句読点とか国語で習ったけど特に意識したことはなかったし、なくても大体は理解できるし。それに今のSNSなんか使う連絡手段なんて、句読点使わなくても短文ずつで送るから普段から俺も使わないしな。
まぁ、とりあえずいつもより多めで、単語の間に点をつければいいだけなのだ。難しくはない。
『〇』
「私も早く、慣れるように頑張りますね」
そう言えば白石さんも手書き文字に慣れていないのだろうか、そんな疑問が浮かぶ。初めて会ってから少し経つが、彼女自身の話を全く聞いていないせいで、目が見えない原因などを全く知らないのである。といっても病気のことを赤の他人に話すことなんてないだろうけど、特に病気や怪我をしているようにも見えないのだ。
いつから今の状態なのか、なんで入院しているのか。多少は気になってしまう。
「今日は湯田先生とは、どんなお話をされたんですか?」
まぁ、気になりはするけど聞くことはないだろう。それは俺のすべきことではないだろうし。
『手、書き、文字』
「なるほど、湯田先生からその話を伺っていたんですね」
『あと、』
休みの日とか、普段何してるかの話をしたんだけど、どうやって伝えようか。このまま伝えてしまうと多分長すぎるんだよな。普段何してるか、普段がまず漢字画数多いし。
俺はそこから手を止めて少し悩む。白石さんは首を傾げて不思議そうに次の言葉を待っているため、悠長に考えている暇はないのだろう。俺に語彙力でもあれば違うのだろうが、残念ながら俺の国語力は5評価のうち3だ。
『休み、の、話』
「お休みの日の話をしたんですね、黒岩さんは何をされるんですか?」
伝わった。これは一重に白石さんの理解力がいいということに他ならないわけだけど、いつもそれに助らているのだとシミジミ思う。あと彼女はきっと国語の評価は5だと思う。難しい言葉知ってるし。
『ゲーム』
「ゲーム!私、したことがなくて詳しくはないんですけど、動物みたいなキャラクターたちをボールの中に入れて使役して戦わせるやつですよね」
待って、ツッコミどころがたくさんありすぎて処理しきれないんだが。まずゲームしたことないって何。すごくない?このゲームバブル時代(自称)に一切のゲームをしたことがないと言うの?そんな現世と切り離された修行僧みたいな生活送ってたの?あと、ゲームの知識。それなんていうポ〇モ〇?何も間違ってないけど、なんか説明変わると違うゲームに聞こえてくるね。ゲームの知識それだけって何事なの。
とりあえず何から彼女に伝えればいいのか分からない。これを全て一気に言葉で言えたのなら、どれだけ楽だろうと再度考えさせられる。だから俺は国語3なんだって。
「何か間違ってました?」
『少し』
「恥ずかしいですね、TVとか、周りの人の話で得た知識なので」
『なんで、しない?』
そこで質問を間違えてしまったことに気づく。ゲームをしたことがないという事があまりにも驚きで思わず聞いてしまったが、目が見えないのにどうやってゲームをしろというのだ。
恐る恐る白石さんの顔を見上げると、彼女は腕を組んで考え込んでいた。これはどういう感情なのか。怒ってはいなさそうだし、困ってもいなさそうだ。ただ、なんでしていなかったのかを考えている、そんな感じ。自分のことなのにそんなに悩むかってくらい首がどんどん傾いていく。
「なんでなんでしょうね」
そして捻り出された声は割と深刻そうで、その表情も眉間にシワを寄せられていた。そんな彼女の姿に俺は思わず笑ってしまう。
だって、めっちゃ悩んだ挙句出た答えが「なんでなんでしょうね」で、めっちゃ深刻そうなんだよ。温度差って言うか、そこなの!?っていうか。とりあえず白石さんは少し変な人だという事が分かった瞬間だった。
「あ、黒岩さん笑ってますね」
ギクリ。そんな効果音が付きそうな勢いで俺は笑うのを止める。なぜバレてしまったのか分からない、と思って下を見ると彼女の手を握っている自分の手が目に入った。なるほど、笑いすぎて俺が揺れていたのだろう。これは迂闊だった。次から笑う時は手を離すことにしよう。今はとりあえず誤魔化すしかない。
『笑って、ない』
「あ、嘘つく……っ」
「白石さん!?」
「ごめんなさい、ちょっとした頭痛です」
冷や汗を流し、青ざめた顔で無理に笑顔を見せる彼女はとても痛々しい。詳しくは分からないが、頭の病気か何かだろうか。それだと目や耳が悪かったりする理由にも納得がいく。これで寿命が、とか言われたら俺はどうすればいいのか。高校生になって初めてできた友達だというのに。
『先生、よぶ?』
「いえ、たまにあるんです。大丈夫ですよ」
「大丈夫って言ったって」
先ほどよりは幾分かましになったようだが、たまにこんな頭痛あるなんて大変そうだと思った。ふと時計を見て、そろそろ時間が来ることに気づく。1時間というのは本当にあっという間だ。
今日は少しハプニングがあったが、 この何気ない時間が今の俺には唯一の楽しい時間になっている。
毎日のリハビリも、先生たちはいい人ばかりだし、日に日に良くなっていく自分の体に嬉しく思いもするけど、実際それ以外に病院でやることがなくて暇なのだ。ゲームは1日2時間までと姉さんに煩く言われているし、唯一の友人と言っていい良樹も見舞いに来る気配が微塵もない。
あいつ絶対面倒くさがってやがるんだ、今頃1人でレベル上げしまくってんだろうな、羨ましい。
ということで、俺は白石さんと話すことがいい暇つぶしにもなっていたのだ。彼女も会話の練習になると喜んでいるのだし、winwinの関係というものだろう。それに、白石さんには余計なことを聞かれることもない。彼女の不自由が、俺の安心になっている。なんとも不幸な話である。
いつもは外から叩く側の俺の耳に、コンコンコンとノック音が届いた。え?と思ったのも束の間、無慈悲にも扉が開かれる。そこには白衣に身を包んだ男の人がおり、その後ろには看護師さんが見えた。
「……あれ、君は?」
「黒岩くん、どうしてここに?」
看護師さんは俺の部屋にもよく来てくれる人で、顔見知りだった、まぁここの病棟の看護師さんはほぼ顔見知りなのではあるが。しかしタイミングが悪いにもほどがある。
俺は椅子から立ち上がり、松葉杖を手に取る。
「こ、こんにちは。えっと俺帰りますね」
「まぁ待ちたまえ」
歩き出そうとする俺お静止したのは医者だろう男性。その首に下げられたネームには松川優の文字が見えた。どうやらこの人が白石さんの担当医のようだ。名は体を表すとはよく言ったもので、太めの眉毛は少し白髪交じりで、その表情は穏やかだ。優しそうに笑みを浮かべる松川先生はとてもいい人そうに見えた。
「君は彼女の知り合いなのかな」
「いえ、俺はたまたま知り合っただけで」
「そうかい」
「あの、黒岩さん、どうかされましたか?」
前からも後ろからも挟まれた俺はまさに背水の陣というやつだろう。あれ、四面楚歌だっけ?まぁどちらでもいい、要するにピンチというわけだ。なぜかって?今までこの部屋で白石さん以外に会うことはなかったし、この時間は大丈夫だと彼女が言っていたから誰かに会うだなんて思ってもみなかったのだ。そこじゃない?そんなことも分からないのか。よく考えてみよう、目の見えない女子、そこにいる知らない男子。もう犯罪の予感しかしない。思わず挙動不審にもなるというものだ。
「黒岩くん、悪いことしてたんじゃないよね?」
「いいえ!全く!」
あははは、と笑って誤魔化しつつ白石さんの手に『先生、きた』とだけ書いて扉の方へ歩き出す。
「先生……松川先生?」
いつもとは違う時間に来た先生の存在に驚きつつも俺に「今日はありがとうございました」と言うあたり、本当に律儀な人である。きっと家族もしっかりとした家庭なのだろう。
「あ、そうだ。さっき白石さん、頭痛そうで」
「それは大変だね」
そういうや否や、先生は白石さんと会話を始めた。俺はそれを横目で見て、看護師さんに会釈をする。看護師さんがニヤニヤしているが、それは見なかったことにしようと思います。廊下にはすでに配膳者にのせられ、食事が運ばれてきているようだ。俺は今日の夕食は何かなと考えつつ、2つ隣にある自分の病室へと向かう。
「ん?」
変な感じがして、後ろを振り向く。そこには相変わらず看護師さんたちが忙しなく働いている姿が目に入るだけで何もない。なんだかここ数日、視線を感じるような気がするのだ。
「気のせいかな」
そうは思うものの、俺の勘が言っている。何かあると。まぁ、別にそこまで怖い感じでもないんだけど、如何せんジロジロと見られているような感じで落ち着かないのだ。しかもいつも白石さんの部屋から帰るときだけ。
「はっ!もしかして姉さんに見られてるとか」
それだったらやばいなと思うが、姉さんのことだから見てたらすぐに言うとおもうのだ。とりあえず俺を揶揄うのが好きな人だし、気になったらストレートにぶつかる性格だし。少しは駆け引きというものを学ばないと彼氏ができないと言われてたのに治らないんだから困りものである。
まぁ気にしても仕方がないと思った俺は、急ぎ足で自室へと向かったのだった。




