24.刈安色
白石さんと夏祭りに行ってから数週間が経った。あの日以来、那珂さんは仕事が忙しいらしく2人に会ってはいない。それでも俺の日常は当たり前のように過ぎていくし、同じように朝日が昇っていく。
空っぽになった洗濯カゴを片付けてからリビングのソファに横になり、何もない天井を見上げた。今日は日曜日、夏休みで休日なんて関係はないが、明日が月曜日というだけでダルく感じてしまうのはなぜなのだろうか。
適度に冷房が効いた部屋で暑くなった体を冷やしつつ、ゆっくりと目を閉じる。
「休みの日だからってダラダラしないで出かけたら?」
物置から掃除機を持ってきた姉が、床にそれを置いて顔を覗き込んできた。呆れ顔の姉から、思わず寝返りを打って顔を逸らす。
「昼から用事があるから大丈夫」
「何が大丈夫なのか分からないんだけど」
頭上からは小さなため息が聞こえ、直後に再び掃除機の音が鳴りだす。
窓の外では先ほど干した洗濯物が風に揺れる。蝉の声と夏の日差しが、苛立つ心を逆なでするかのようだ。
「あのさ、8月9日なんだけど」
騒音とともに姉の声が耳に届く。今にもかき消されてしまいそうな声だが、俺に届ける意志はあるらしく、少し声を張っているようだ。
「昼から姉さんと一緒に行かない?母さんたちの――」
視線の先にある、かつてTVが置いてあった壁には、薄茶色の四角いシミが付いていた。それは長い間、確かにそこにあったTVの存在を物語っているものであり、2人だけしか住んでいないこの広い部屋の違和感の一因でもあった。しかしそれも、今では慣れて違和感すら抱かなくなっている。
――そう言えばこの間、映画見たって言ってたけど、何で見たんだろ。スマホかな。
背中から聞こえる姉の声が遠ざかり、そのシミの痕から目を逸らすことができなかった。
「那津、聞いてる?」
いつまでも何も言わないことに待ち切れなくなったようで、姉は掃除機の電源を切る。背中から投げかけられる言葉をゆっくり飲み込んで、俺は小さく息を吐いた。
「その日は、予定あるから」
「そっか」
それだけ言って再び掃除を再開した姉の言葉は、それ以上何も聞こえない。
原因不明の苛立ちに頭を搔きむしれば、ポケットの中で携帯が小さく揺れる。確認すると、一通のメッセージが届いていた。
「俺、出るね」
「何時に帰る?」
「夕飯前には帰ると思う。また連絡するよ」
携帯をズボンのポケットに入れて立ち上がる。玄関には掃除機の音にビビッて隅に隠れているクロがいた。怖がっているくせに絶対2階に逃げないのはなぜなのか、謎である。クロを抱き上げると、相当不安だったようで、俺にしがみ付いて来た。
「あら、クロいたの?」
「隅っこで丸まってた」
玄関まで掃除しに来た姉は、クロの存在に気づいて電源を切る。音がなくなって安心したのか、俺の腕から飛び降りてそそくさとリビングへと帰っていく。
「掃除機かけるときは2階の部屋に移動させるのに、なんでかいつも戻ってくるよね」
それを見送って、姉がリビングの扉を閉める。俺はそのまま玄関に座り、綺麗に揃えられたスリッパやスニーカーを横目に、乱雑に脱ぎ捨てられている靴を履いた。
「怖がりの見たがり的な感じかな」
「私たちの事が心配だからだったり」
姉と目を見合わせ、そんなしっかり者の猫だっただろうかと思案してみたが普段、猫の矜持を捨てたクロの姿を思い出して、同時に吹き出す。無性にフォルダに入ってるクロの写真が見たくなる。
「あー笑った。じゃあ行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関に置いていた自転車の鍵を手に家を出る。今から行くのは、この間2人と待ち合わせをした公園だ。今日は久し振りに白石さんと会う。
◇ ◇ ◇
自転車を漕ぎだして数分、茹だるような夏の暑さに既に帰りたい。暑すぎてイライラするほどだ。それでも容赦なく照り付ける日差しと、室内とは比べ物にならないくらい至る所から聞こえてくる蝉の声と、夏休みを謳歌する学生たちの笑い声に深く息を吐きだす。
「あっつ」
額に伝う汗を拭いつつ、自転車を漕ぐ。あの日と違う点と言えば、この暑さだろう。7月になる前と、なった後でこんなに温度差があるものかと憂鬱になる。この暑さで夜になると少し冷えるとか温度差どうなっているのだ。
「なつくーん」
無心で漕いでいると、真っ直ぐ続く道の先で見覚えのある白の軽自動車から降りてきた1人の男性が、こちらに向かって大きく手を振っているのが見えた。その助手席には白石さんが相変わらず窓の外を眩しそうに見つめている。
自転車から降りて道の脇にスタンドを立てて置くと、那珂さんが近づいてくる。
「那珂さん、お久し振りです」
「久し振り。最近仕事が忙しくて、あんまり時間作れなくてごめんね」
夏本番ではないにしろ、この暑さを意に返していないのか、涼し気に笑みを浮かべる那珂さんは流石の一言である。
「それは全然、大丈夫ですよ」
それに反してこちらは額に汗が滲みだす。服の首元を摘まんでパタパタする気持ちばかりの風でさえ、気持ちがいい。早く木陰に行きたいなと思い顔を上げると、彼は眉を寄せてこちらをジッと見つめていた。
「那珂さん?」
「あぁごめんね。それじゃあ妹をお願い、僕は少し行かなくちゃいけないところがあって外すけど」
この暑さで気分がすぐれなかったのだろう。声をかけると直ぐに我に返ったようで、いつものように笑みを浮かべていた。まだ夏本番ではないにも関わらず、この暑さなのだから顔をしかめたくなる気持ちはよく分かる。
「どれくらいで帰ってきますか?」
「そうだなぁ。1時間かからないくらいかな」
腕時計を見る彼につられてスマホで時間を確認すると、13時半を少し過ぎたところだった。1時間程度ということは、大体14時半くらいか。
彼は、助手席のドアを開けて、白石さんの肩を優しく叩いた。そして彼女の手を取って、何か伝えてから外へと誘導する。ドアを閉める勢いで漂ってきた微かな冷気と、嬉しそうに深く息をする彼女は涼し気な表情で空を仰ぐ。
「黒岩くん、暑い中ありがとう」
那珂さんにバトンタッチされ、彼女の手を取ると彼はそそくさと去って行った。夏休みにも関わらず仕事で忙しいのだろうか。
「大人に夏休みって関係ないんだっけ」
シフト制の姉にそう怒鳴られたことを思い出し、結論付ける。 怒鳴られたというか、嘆いていたとか悲鳴を上げていた、に近いような気がするけど。
「大丈夫?」
覗き込むように首を傾げた彼女の目は見えていないので、俺たちの視線が交わることはない。顔色を窺うその瞳には青い空が反射して、病室にいた時よりも近く。鮮明に彼女を写していた。
「え?」
「私、水持ってるから陰で飲もっか」
服の裾を引く彼女に促されるまま、近くの公園にあった屋根付きのベンチに2人で腰を下ろす。一息ついて、自身の手を見ると汗ばんでいた。
もしかして白石さんに、この汗だくである手を触られたという事だろうか。その事実に気が付き絶望するしかない。今からでも何か綺麗な物で拭いてもらった方がいいのではないか。
「どうぞ、少し温くなってると思うけど」
トートバックから出てきたペットボトルの水を渡され、アタフタし始めた自分を落ち着ける。取り敢えずそれを受け取り、その冷たさに思わず深く息を吐いた。
「あー気持ちい」
首元にそれを当てながら後ろの出っ張りに寄り掛かる。目を閉じると、色んなところから子供たちの遊ぶ声が聞こえてきた。そんな声に、ここが公園だったことを思い出す。
「もう夏、だね」
隣に目をやると、やはりどこか遠くを見つめている彼女の横顔があった。優しく吹いた風に揺れる彼女の長い黒髪は、咲いていたシロツメクサと一緒に揺れる。
そう言えば昔、夏には家族でひまわり畑に行っていたな。一面のひまわりに当時の俺は興味がそそられなくて、いつも父さんと虫取りに勤しんでいた。
――ひまわり畑に立つ彼女は、どんな表情をするのだろうか。
「そう言えば今日は大丈夫?」
『?』
「確かに夜まで両親は帰ってこないけど、黒岩くん……嫌じゃないかなって」
一体彼女は何の話をしているのか。話の趣旨が見えず首を傾げていると、彼女の後ろの方で見覚えのある人が、見覚えのない大きな車から出てくる姿が見えた。
「確かに宿題を終わらせるなら、家でするのが一番ではあるんだけど」
「えっと……?」
意味が分からず体を起こすと、車から出てきた人物が大きく手を振って俺たちのことを呼んでいた。時間を見れば14時にもなっていない。あの人は仕事に行っていたのではないのだろうか。