20.二色
バタバタと駆ける足音がドア越しから聞こえてくる。会話の内容から察するに、今から姉は“白石”という人へ会いに“あおいカフェ”とやらに出掛けるのだろう。あおいカフェはそこそこ有名なところだし、記憶違いでなければ昔姉が良く行っていた場所だった気がする。
「那津ー?帰ってるでしょー?」
ドアの前で首を傾げていると、リビングから姉の呼ぶ声が届いた。いつまでもここに居る訳にはいかないため、諦めてドアを開ける。部屋ではエプロンをソファーに投げ捨て、いつもご飯を食べているテーブルに鏡を置いて化粧をしている姉の姿があった。普段から化粧っ気のない姉はいつもその場でパパっと済ませるのだが今日は目元に何か塗っているようだ。
「でかけるの?」
「ちょっとね。夕飯はできてるから温めて食べといて」
パチンと手元にあったケースを閉じた姉は立ち上がる。どうやら着替えるらしく、いそいそとクローゼットに向かえば中を漁っていた。そんな姿にもギョッとしてしまう。確かに姉は誰に会うにしても身なりは整えていく方だ。だがそれは先ほどの化粧と同じで最低限で済ませる程度なのだ。まぁ、何を言ったところで俺には女子の最低限なんて分からないわけだけど。
「今の電話の人に会いに?」
「そうそう」
俺はソファーに荷物を置いて冷蔵庫を漁る。中には先ほど作ったのであろう煮物が2人、お皿に準備されていた。俺はそれを手に取り、レンジへと放り込む。
「俺も行きたい」
クローゼットを漁っていた姉は眉間にシワを寄せて手を止める。なんとなく姉が合いに行く白石が、俺の知っている那珂さんなのか気になってしまったのだ。もし本当に那珂さんなら世間って狭いなって感じだけど、何よりも姉との関係が非常に気になるところだなのだ。
「馬鹿なの?」
しかし俺の要望は受け入れられず、すっぱり切り捨てられてしまった。そうだろうとは思ったが、そんなにシワを寄せなくてもいいのではないか。レンジの中で回る煮物を横目に肩を竦めた。
黒のタイトなスキニーに薄茶色の長袖シャツを踝まで伸ばしたようなデザインの、ワンピースと言うのだろうか、それにキャップを被った姉は小さめの肩掛け鞄を手に取り腕時計を見た。
「あ、洗濯物も途中だから頼んでいい?」
「うん」
「あとクロの御飯もお願い、まだ2階で寝てるはずだから」
玄関へと向かう姉の後をついて行けば、2階からクロもゆっくりと下りてきた。どうやら今起きたようで、大きな欠伸をしながら姉の足元へ行き頭突きを食らわせている。
姉はクロをヒト撫でしてスニーカーを履き、玄関に掛けてあった車のキーを手に取った。そんな姿を俺とクロは見つめるのみだ。その姿はまるで、置いて行かれる2匹の猫のようだろう。
「遅くはならないと思うけど、戸締りはしっかりしてね。あとゲームしすぎない事と夜更かしは」
「わ、分かったから!」
永遠と続きそうな話の腰を折ると、姉は優しく笑って俺の頭も撫でてくれた。俺は照れくさくて目を逸らす。
「いってきます」
「いってらっしゃい、気を付けて」
俺はクロを抱き上げて、姉が車に乗り込む姿を見送る。傾いた陽の中を車は走り去っていった。チラリと庭を見ると、そこには干しかけの洗濯物カゴがそのままにしてある。少し考えてから部屋の中に入り、ポケットからスマホを取り出しRE.INを開いて、メッセージを送る。
「クロ、俺は人生初の尾行をしようと思う」
クロはキョトンとした顔で俺を見つめ、興味がないのか「にゃあ」と再び欠伸をしてリビングの方へと行ってしまった。そのままスマホをポケットへ戻して、急いで庭へと向かう。とりあえず言われたことを全て終わらせて行かねばならないのだ。部屋の中では温め終えた煮物が音を鳴らして俺を呼んでいた。
◇ ◇ ◇
薄暗い路地に街灯はなく、人通りも少ない。すぐ近くにある表通りには日が暮れた後にも関わらず、いまだに多くの車が走っていた。目の前のオシャレなカフェには暖かな明かりが灯っており、俺たちのいる空間とは別の空間に浮かんでいるように思わせられる。俺はそっとマンションの蔭からカフェの様子を眺めた。
「……で、なんだこれ」
「しっ! 気づかれ――いだぁっ!」
「説明しろって言ってるんだけど俺」
後ろにいた友人によって容赦なく殴られた頭を押さえ、恨めしく見上げれば暗闇でも分かるほどの無表情で俺を見下す友人の姿が目に入った。これ以上文句を言えば暴力の追随がくると思い、賢い俺はお口にチャックをする。
「帰った瞬間急に呼び出されてここまで何も聞かされずにチャリ漕いで来させられて何も言わなかった俺を褒めてほしいぐらいなんだが」
彼の後ろに並んでいる2台の自転車を指さし、壁に寄り掛かる姿は分かりやすいほどに不機嫌だ。あれから俺は『急いで家に来て』とメッセージを入れて、急いで洗濯物を干し、ご飯を食べ、クロにもご飯を上げた。そしていいタイミングで来た良樹に何も言わず急かしてここまで走ったのは、言い逃れようのない事実である。そんなことされたら俺はきっと途中で帰るかもしれない。
しかし考えても見てほしい、あの面倒くさがりな良樹に「姉さんの尾行するからついて来て」と言ってついて来てくれるだろうか。彼は事実を知った瞬間に速攻で帰るだろう。ついでに俺はもう1発殴られる。そんなことは避けたい俺としては、何も言わずに連れてくるのが最善の選択だったのである。
「あそこに姉さんがいる」
「雪那さんが?」
「そして恐らく男と会ってい、ちち近い近い! どうした!?」
深刻そうに言えば許してもらえるだろうと思い、目を伏せて言葉を紡いだ直後、俺の肩は逆方向に引っ張られて壁に押し付けられた。これは所謂、壁ドンですか?と思う暇もなく、視線の先には珍しく取り乱している彼の姿があった。強く掴まれた肩が悲鳴をあげている気がする。
「男って?」
「そ、それを今から確かめようと」
俺の知っている彼はいつも余裕をかましており、なんでもやれば出来る器用なやつで驚くくらい大人びて見えるやつだ。実際よく大学生なんかに見られるし、姉さんには「ませガキ」なんて言われているくらいだ。そんな彼が焦っている姿は滅多に見れるものではない。
「それを早く言えよ、行くぞ」
「は、え!? えぇ」
姉さんを尾行してきたことについて何も言及しない挙句、俺よりもノリノリで前を歩き出す彼の姿に、逆に俺が戸惑ってしまう。本当にノリノリなのかは先ほどの余裕のない様子を見ても読み取れないが、さっさと先を歩く姿からきっとノリノリなのだろうと推察する。
こいつは案外、俺の悪ふざけに進んで付き合ってくれるところがあるからな。
「あの、良樹さん? どこまで行くつもりで?」
しかし少し近づくどころか、カフェの入り口まで向かっているような気がして声をかける。ここまで来てバレてしまったら全てが水の泡になってしまうのだが。そして姉による説教なんかは特に勘弁してほしいところだ。
「カフェ」
どうやら嫌な予感が的中しそうだったため、彼の腕を掴むと明らかに不機嫌そうにこちらを振り向いた。一応機嫌を損ねつつ動きは止められたが、目の前は既にカフェの入り口だ。出来ればここから離れて今後の相談をしたいところである。
「とりあえず、離れない?」
「雪那さんが誰といるか見に来たんだろ」
「そうなんだけど……待ってお願い、そのドアノブにかけようとしてる手をいったん落ち着かせて俺に向き直ってお願い」
容赦なくドアノブを回そうとする反対側の手首を即座に掴む。状態としては良樹の両腕を俺の両手で掴んでいる形だ。見たままの説明だ。一体カフェの入り口で男2人が何をやっているのか。
懇願する俺を彼は引き気味に見てくるが、そんなこと気にしていられない。今は姉に見つかることへの回避に専念しなければいけないのだから。
「お前が先に始めたことだろうが」
「それに関しては否定しないけどさ!」
確かにそもそもの始まりは俺なのだが、彼がここまで張り切るとは思いもよらなかったのだ。寧ろ「はぁ? ゲームしたいんだけど」とか言って即帰宅されるもんだと思っていた。
「とりあえず裏行こう、な?」
「中に入った方が早いだろ」
「突撃兵かお前は」
彼の足を軽く蹴り上げ、そのまま腕を掴んで引っ張ると渋々と言った感じで後をついて来てくれた。勢いで蹴り上げた事を怒られると思ったが何もお咎めなしで安心する。取り敢えずカフェの裏にある駐車場の方へ来てみた。そこには見覚えのある姉の軽自動車があり、彼女が確実にここに居ることを物語っている。
裏の方は特別、街灯があるわけではないが表と同様にオシャレなドアがあり、ドアの前には腰ぐらいの高さのタキシードを着た男性のアンティークが置かれていた。俺はそのドアを後ろに良樹に向かい合う形で立つ。恐らくここは従業員用の入り口だろうが、裏口もオシャレとは凝っているお店である。
「それにしてもオシャレなお店だなぁ」
女子を連れてきたら確実に喜ばれるだろうことは俺でも分かる。高校時代に姉が遠いにも関わらず通っていたのも頷けるが、俺はゲームの方が好きだから来ないとだろう。
これはかなりのやり手が姉を誘ったのかもしれない。それが那珂さんだと聞いたら、まぁ納得してしまうのだけど。
「とにかく、俺たちは隠密に行動しないといけないわけよ。万に一つでも姉さんにバレようもんなら俺たちは確実に終わる」
「そんなか?」
「確実に説教長時間コースだ」
真面目に答えると、事の深刻さを理解したのか彼は無言で頷いた。姉に説教を受けたくないのは彼も、あの恐怖の時間を知っている同士だからだ。ようやく理解してくれて大変喜ばしい限りではあるが、忘れてはいけない。俺たちは結局振出しに戻っただけという事を。
「ならここにいない方が良いんじゃね」
「なんで?」
「ここも出入り口だから、雪那さんがここから出てくる可能性も――」
そこで言葉を切った良樹は口を開いたまま静止した。そんなアホ面下げてどうしたのだと問う前に、理由が判明する。
「誰が出てくるって?」
軽快な音と共に開いた扉から、暗闇に慣れた俺たちを眩しい店内の明かりが照らす。眩しさに目を細めたのは一瞬で、光の先で腕を組み、仁王立ちしている見覚えのある女性が目に入り絶望した。
「オーマイゴッド」
思わずつぶやいた言葉に嘘はない。あぁ神様なんて非情なことをするのですか。
俺は目の前に立つ姉から視線を逸らし、良樹に目を向けるが彼は見事な“色々と終わった”という表情をして立っていた。彼は頭が良いくせして姉さんの前ではいつも素直である。つまり役に立たないというわけだ。
俺は余計なことを考えるのをやめて、いかに説教を減らせるかに思考をシフトチェンジする。そもそもなんで電話相手の白石さんが一緒じゃないのか、せめて顔さえ拝めればこの苦労も報われるというのに。これでは骨折り損のくたびれ儲けというやつである。