2.黒色
私の小さな世界では窓から吹く冷たさが、唯一感じる外側だった。
遠慮がちに叩かれた肩に、私の心臓が大きく跳ねる。音も色もない私の世界は、辛うじて感じる明るさと 風の冷たさで構成されていた。だから、今が何時で外の天気は何なのかも分からない。つまり今、私の肩を叩いた人物すら分からないのだ。
検診の時間か、はたまた夕食の時間か。お腹はそんなに空いていないから夕食の時間まではまだ先だと思うけれど、一日中ここで引きこもっている私のお腹が減ることの方が少ないから何の目安にもならない。であれば松川先生が来たのかとも思ったが、松川先生は私が“こんな状態”だと言うことをよく知っているから、もう少し肩の叩き方に配慮があるはずなのだ。それにもう1度窓を開けに来ていた。
「誰か、いるんですか?」
取り敢えず問いかけてみる。今の私にできることなんて限られている為、これが一番無難な選択だと思ったのだ。しかしこの部屋のどこかにいるであろう人は、何の反応も見せてはくれなかった。私の肩が叩かれたのは気のせいだったのだろうかと、不安に駆られる。しかしなんとなく人の気配がするような気もするから、簡単には無視できない。
ないとは思うが、松川先生が揶揄っているという可能性。
松川先生は私のことを大変心配してくれているようで、忙しいはずなのに毎日私のところに来てくれるような人だ。だから、もしかしたら私のことを元気づけようと、何かサプライズ的な何かをしてくれているのかもしれない。
「もしかして、松川先生ですか?」
大正解、というアクションもなく、無音の世界が続いていく。本当に誰もいなくて、今の今まで独りで話していたのであれば恥ずかしいのだが、もし毎日一人だから寂しいと感じていたとして、それで架空の友人でも作ってしまったのだとしたら……そんな恐ろしいことまで考えてしまった。
「あの……せ、先生?」
私は最終手段として、目の前に自分の手を差し出してみた。これは決して意味もなく差し出したわけではない。これで私の“この状態”を知っている人か、そうでないかが分かるのだ。あれは私が目覚めたときの話。
◇◇◇
何もない真っ黒な空間で、人の走る足音だけが木霊する。前も後ろも上も下も、ここがどこかも分からない。誰かが息を切らし走っていることだけ、私には理解できた。
「はっはっ…っ」
息苦しく感じたことで、漸く走っているのが自分であることに気づく。大きく息を吸い、乱れた呼吸を整えようとするが、胸の苦しさは変わらない。立ち止まりたい衝動にかられるのに、なぜだか止まってはいけないような気がした。一体ここがどこなのか、私はなんで走っているのかも分からない。ただ分かるのが、何かから逃げているということだけ。助けてほしいと、心から思って私は走り続けていた。
どれくらい走ったのか、暫くすると目の前に小さな人影が見えてきた。すでに私は自分の乱れる呼吸すら聞こえなくなっていた。もちろん自分の足音も。ちゃんと地面を踏みしめているのだろうか?私はまだ歩けているのだろうか?それすら分からない。それでも目の前の人に助けを求めたい一心で歩を進める。
漸く近づいた人影は、近くにいるはずなのに誰なのか分からなかった。困惑する私を無視して、目の前の人物は私に手を差し伸べた。
――できないよ。
差し出される手を私は取ることが出来ず、小さく首を振る。先ほどまで助けてほしいと願って走っていたのに、目の前にある手を取れないのだ。心が叫んでいる、でも体が動かない。人影は何かを言っている。私には聞こえない。視界がぼんやりとしてきた。もう何も考えたくない。
そして突然、足元が崩れ落ちる。咄嗟に目を閉じ落下の衝撃に備えた瞬間、一瞬の浮遊感に襲われ、私の意識が覚醒するのを感じた。
暗闇。目が覚めた時、真っ先に思い浮かんだ言葉だ。
正確には、少し眩しい黒、という感じ。何を言っているのは私にも分からないけど、つまり何も見えないのに淡い光だけは感じる、ということ。 暖かかな日差しが自分を包んでいるのを感じるのに、どこを見渡しても黒しかないのだ。
次に手を動かしてみる。布団を掴むような感触が手に伝わる。冷たいシーツが全身を包み、頭には同じような感触の枕が敷いてあるのを感じた。私の使っていた枕よりも低めのこれは、ふかふかとした柔らかさがとても気持ちいい。きっと私の使っていたものよりいいものなのだろう。
そこでふと疑問を感じる。自分の枕とはどんなものだったか。今思い浮かべていた自分の部屋の記憶が元から無かったかのように、消えてしまっていた。疑問は湧くのに、本当に何も思い出せないのだ。
――ここはどこで、私は誰?そうだ、私は一体誰なの?
ここで、自分が誰なのか分からないことに気づく。しかし混乱する頭とは裏腹に私の心は妙に凪いでいて、怖いくらい冷静だった。そんな事実に気づいても、どこか他人事のよう思えてしまうのは、あまりにも情報がなさ過ぎて如何することもできないからだろうか。
「あー……え?」
次に声を出してみた。出したはずなのだが、聞こえなかった。確かに声を出している感覚はあるのに、声が私に届かないのだ。何度か声を出してみたけれど、結局一度も自分の声を聴くことは叶わなかった。
ならば、と起き上がろうとしてみたが、頭が重くて起き上がれない。体のあちこちに鈍い痛みを感じる。これはもしや小説とかでよくある≪拉致監禁、その際に大怪我をして入院≫みたいな状況なのだろうか。いや、本の読みすぎか、読んだ記憶もないけど。
とうとう私は諦めて、とりあえず一息ついた。何もない眩しい暗闇へ、手を伸ばす。ここかどこかも、自分がどんな状況におかれているのかも一切分からないが、夢で見たあの人のように誰かが私の手を掴んでくれるような気がしたから。
――そう言えば夢では、掴んでもらえたっけ。
淡い期待を裏切るように、私の手は空を掴んだ。一体なにを期待したというのだろうか。そう、何を期待していたのかも、私には分からないのに。
しかし、私の手はそのまま投げ出されることなく、包み込まれた。それは妙に暖かく、優しい、私がかつて求めていた何かのように……そこまで考えて同時にやってきた嫌悪感と、抑えられない吐き気に私は息を止める。思わずその何かを振り払い、息の仕方を思い出そうと、荒々しく吐き出す。これは所謂過呼吸というやつだと、やはり他人事のように思うが、さすがにこの苦しさは自分のものであり、このままでは私は死んでしまうのではないかとも思った。
心はこんなに落ち着いているのに、反比例するように私の呼吸は荒くなっていく。私が私でないような変な感覚である。
そして、仰向けで寝ていた私は複数人の手によって、うつ伏せにさせられた。ひっくり返されることに抵抗することも出来ず、うつ伏せになると、少しだけ呼吸が楽になる。朦朧とし始めた意識の片隅で、床の振動から誰かが駆けてくる気配を感じていた。
そして再び訪れる暗闇と静寂に、安心する。自分の呼吸音すら曖昧で、自分の輪郭が分からなくなる。それでも落ち着いていられたのは、この暗闇が酷く安心感を与えてくれるからだろう。私は再び意識を手放したのだった。
◇◇◇
というのが先週の話。あれから数日の間に、自分が階段から落ちて病院に運ばれ、意識不明だったことを知った。そして、恐らくその衝撃が原因で視力や聴力が弱くなっていること、同時に記憶が失われているということも。
正直驚きはなかった。やっぱりね、という感じ。
私は目が見えないし、耳も聞こえない。だから意思疎通の手段は限られている。しかも先天性ではなく、後天性であり、最近まで普通に暮らしていたらしいので、触手話、点字筆記、指点字、 ローマ字式指文字みたいにたくさんの会話方法 (まだまだあったが、覚えていない)があるらしいのだけど、今更これらを覚えるという手段も取れない。取れたとしても時間がかかることは分かり切っているし、それらを覚えるより、また見えるようになる可能性の方が高いのだ。
そんな私に松川先生が教えてくれた会話の手段、それが手書き文字だった。手書き文字とは、手の平に指で文字を書く会話方法。これはそんなに難しくはないけれど、会話に時間はかかるし、中々伝わりにくいと言うデメリットもある。それでも、まだ視力や聴力が戻る可能性のある私にはピッタリな方法なのだ。
ということで私は手を差し出しているわけだけど、一切の反応がないことを見るに、目の前の人物は手書き文字を知らない人、ということが分かった。そうなると、一体誰なのか。先生や看護師さんなら知っているはずだし、私の家族も然り。もしかすると、記憶があるときの友人、とかだろうか。
「馬鹿馬鹿、俺は何を考えているんだ。俺は決して変態ではない、ないんです」
「……すみません、どなたですか?」
「ええい、迷っている場合じゃない!」
再度問いかけてみる。もしこれでも反応がなかった場合は誰もいなかったのだと思うことにした。しかし少し間を置いた後、私の背中にその人物が触れたため、思わず大きく肩を揺らしてしまった。それが相手にも伝わったようで、私の背中に触るのを躊躇いつつも再度背中に指が触れる。細い指は、優しく遠慮がちに私の背中を触るものだから、少しくすぐったい。
「……名言……里、芋?」
「どうしてそうなった。何、名言里芋って、里芋が名言って何」
書かれる文字を読み上げながら、私は首を傾げる。きっと私が何かを間違えているのだろう事だけは分かった。言い訳をしてしまえば手書き文字でさえも不慣れな中、背中の文字を理解する方が無理という話なのだ。手よりもくすぐったく、なんとなく緊張してしまって文字どころの話ではないのである。しかし、そんなことも言っていられないので背中へと意識を集中させる。
「な、ま、え……名前?」
「そうそう!名前」
今後は分かりやすいように平仮名で書いてくれた。どうやら名前を伝えようとしてくれていたみたいだ。なんとなく一生懸命伝えようとしてくれる彼女が、とても可愛らしく感じてしまう。年上の方だったら失礼なのだろうけど。
「くろいわ?」
くろいわと名乗った彼女からの返答はない。私は不思議に思い、目が見えるわけではないが背後にいる彼女へと振り返る。ふわりと柔軟剤の匂いが鼻を擽る。
「あの、くろいわさんで良いのでしょうか?」
「あ、あぁ!はい!って聞こえないんだった!」
背中に大きく『はい』と書かれ、私は思わず笑ってしまった。私に伝わったことが相当に嬉しかったのだろう、そのことが私にも伝わってなんだか私も嬉しくなったのだ。感情の豊かな“くろいわさん”に私は自然と温かい気持ちになった。
「肯定の時は丸、否定の時は×と書くと簡単ですよ」
「なるほど確かに!」
私の言葉に、くろいわさんは大きく『〇』と書いてくれる。それもまた私の背中いっぱいに描くものだから、私はまた笑ってしまった。
「ごめんなさい、くろいわさんのお名前、漢字でもう一度伺ってもよろしいですか?」
「漢字で?一文字ずつ書いた方がいいか?大きく書けば分かるか!」
くろいわさんは今度は文字の方も大きく書こうと考えたのか、私の左肩から背中の真ん中辺りまで大きく1本線を書き始める。縦、横、そのまま縦にいって、田んぼの田?いや、そのまま縦線が伸びていって……土に点4つ。
「黒色の黒ですね!」
「大正解!すげぇ!あ、えっと肯定は丸っと」
再び大きな丸が背中に書かれる。まるで伝言ゲームが繋がったときのような感動を覚え、とても楽しい。次は縦横……山かな?それで下の方が石?山と石なら
「岩?岩漿とか、そういう岩ですか?」
「がんしょう?がん……まぁ、読み方合ってるし大丈夫か!」
丸。どうやら、あっていたようだ。
──くろいわさん、黒岩さん。
何度反復しても、聞き覚えのない名前。彼女は私の知り合いなのだろうか?それは本人に確かめれば早い話なのだが、私を心配してお見舞いに来てくれていたのだとしたら、それは失礼なのではないかと思った。私が知らなくても、私を知っている彼女は悲しい気持ちになるだろう。しかし先生や家族から説明があったはずだし、私の現状くらいなら知っている可能性も否定できない。
一瞬、悩んでいる間に、黒岩さんは別の文字を書きだす。その文字もどうやら平仮名のようで、結構な長文であった。私は文字の羅列を頭で思い浮かべる。
『へやをまちがえてしまつてごめんなさい』
全て平仮名で句読点がないと、言葉というのはこうも理解に時間がかかるものなのかと頭を抱えたくなる。
この文面から察するに、何かを謝っているはず。ごめんなさい、は分かるから。そうなると謝罪より前の言葉。『へやをまちがえてしまつて』へ、へや……部屋?部屋を、まちがえて……間違えて。あぁ、なるほど、しまつては『しまって』か。つまり『部屋を間違えてしまって、ごめんなさい』と彼女は言ったのだろう。
私はこの言葉から、彼女が私の知り合いでないことを察し、少し安心する。部屋を間違えてしまうなんて、おっちょこちょいな子なのだろうか。
「そうだったんですね。じゃあ黒岩さんは私のお知り合い、というわけではないんですよね」
「お知り合い?……あ、そっか、見えないから知り合いかと思ったのかな」
『しょたいめん』
しょた……初対面か。当人の口からそれが聞けて一安心だ。そうなると、誰かのお見舞いか入院している人だろうか。でも入院している人で自分の部屋を間違えることなんてあるのか。
『いまにゅういん』
どうやら入院している人のようだ。
「そうだったんですね。そうだ、私は白石那津って言います。今更かもしれませんが、初めまして」
「あ、は、初めまして!」
私はベッドの横に腰掛け、黒岩さんがいるであろう方向に軽く頭を下げる。彼女も頭を下げてくれたのか、頭の方から微かな空気の動きとそれに乗って柔軟剤の匂いが香ってきた。爽やかな柑橘系の匂い。それはまるで彼女の人柄を示すかのようだ。
私は再度、彼女に背中を向ける。さっさと手書き文字の存在を伝えればいいのだが、この会話方法も新鮮で楽しいし、何より彼女の話を遮りたくはないのだ。別に間違い、というわけではないし構わないだろう。
『なまえおなじ』
「え?あなたもナノツさんって言うんですか?」
珍しい名前だと思っていたが、どうやら私と同じ名前らしい。自分の名前という認識はないけれど、しっくりくる名前だから恐らく私の名前なのだろう、という感じ。しかし、どうやら違ったようで、背中には『×』が書かれる。
「うーむ、漢字が同じって書いても伝わるかなぁ。画数多い文字で伝わる自信がないよなぁ」
どうやって伝えようか悩んでいるのか、何も動きがない。名前とは一体なんなのか。考えたところで分からないのだから、彼女の言葉を待つしかないわけだけど。
『かんじおなじ』
「……同じ感じ?」
少し間をおいて背中に『〇』と書かれた。なんだか変な間があったが、この認識でいいのだろうか。少し不安になる。しかし彼女が言うには同じような名前、ということなのだからそうなのだろう。
「それで間違われたんですね」
「すごい優しいじゃん、不審者同然の俺に。なんか自分で言ってて悲しくなってきたぞ」
「ところで漢字ではどのように書くんですか?」
「え?」
……変な空気が漂っている気がする。私のこれまでの経験(記憶はないけど)から、今ものすごく私たちの間に変な空気が流れていることが分かる。何か変なことを言ってしまったのか。漢字を聞いたのが駄目だったのか。しかし漢字が駄目――
そこで私は気づく【感じ】と【漢字】の勘違いに。なんだかラップみたいになってしまったけど、今はそれどころではない。同じ名前で、ナノツではない、伝え方の難しい名前。それは同じ漢字で読み方が違う名前、ということなのかもしれない。
「あの、もしかして書き方が同じで読み方が違うんでしょうか」
「……あれ、これ伝わってなかったやつか」
私の問いへの回答は『〇』やはり、私が勘違いをしてしまったようだ。
「読みを聞いてもいいですか?」
『なつ』
「黒岩那津さん」
目を閉じて名前を呼んでみる。私の口から出た言葉は外に出て空気を揺らす。声が出ているのかも疑わしいほど、微かに、でも確かに、その振動は伝わってきた。自分の声すら聞こえないけれど、彼女の名前を自分の声で聴いてみたかったのだ。そうは思っても聞こえないものは聞こえないし、振動を感じる程度だ。
聞こえない分、私は胸に刻む。閉鎖的な病院での生活、今の私は空を見上げることも、鳥の声を聴くことも叶わないが、不満はなかった。それでも彼女の存在を、私の初めての知り合いを、覚えておきたいと思った。記憶がなくなる前がどうだったかは分からないけど、少なくても今の私にとって初めての知り合いは彼女なのだから。これを友人と定義していいのか、してもいいのか今の私には決められないけれど。いつか、彼女が私の友人になってくれたらいいなと、黒色の世界で思った。




