16.さび色②
「あいつ何してんだ」
病室に戻ってきた俺は折り畳み傘を片手に、廊下の奥の窓辺で知らない老人とお菓子を食べながら話している友人の姿を見つけた。てっきり先に帰ったものだと思っていたため、まだ居ることにも驚いたが、雨が酷くなってきているため、先に帰っていなくて良かったとも思う。しかし個人的に、彼は一体誰と話しているのか、の方が気になる。
取り敢えず早く屋上に戻らなければいけないだろう。今話しかければ確実にあいつはついて来ると言いかねないため、見つからないように忍び足でその場を去った。
軽快な電子音とともに屋上前の階段に着き、足早に階段を駆け上がる。普通に歩けるようになって暫く経つが、自分の足で階段を踏みしめる感覚はやはり嬉しいものだった。いつだったか、謎に怪我している足で歩こうとして激痛を味わうことになったあの日が懐かしい。
「あれ、いない」
息を切らしながら屋上に到着したが、白石さんがいたはずの場所にはその姿が見当たらなかった。確か不安にならないよう、壁際に寄り掛かって待っていてもらったはずだが、急いで戻ったせいでその記憶も曖昧だ。それでも遠くには行けないだろうと辺りを見回してすぐ、彼女を見つけることができた。
誰もいない土砂降りの屋上庭園に佇む、1人の女性。その姿は大粒の雨に押しつぶされて消えてしまいそうで。この世界には彼女しかいなくて、他はなにもない。まるで手を伸ばしても届かない場所にいるような、そんな錯覚を覚えた。
雨の中を必死に走り回っていたあの日のことを思い出して、自然と荒くなる呼吸と速足になる心臓を落ち着かせようと、深く息を吸う。
――あぁ、だから雨は嫌いなんだ。
遠くでエレベーターの電子音が鳴った。そう言えばここは病院で、今自分は屋上にいたのだと思い出す。そうだ、とりあえず彼女に傘をさしてあげなければいけない。俺は気を取り直して傘を広げて外へ出た。
折り畳み傘を嘲笑うかのように、雨は激しく打ち付けてくる。これの耐久力が試される時だが、壊した時の良樹の反応が怖い為、是非壊れないでほしいところである。
傘をさして、降り続く雨が止んだのにも関わらず、彼女はまだ空を見つめ続けていた。残っていた雨粒が彼女の頬をポタポタと滑り落ちていく。遠くからでは分からなかったが、その表情はとても哀しそうで、まるで泣いているようにも見えた。曇天の空を見上げる彼女は、何か大事なものに置いて行かれたように、そこにいた。
無意識に拳を強く握りしめる。なぜか、今すぐ彼女の手を掴まなければいけない衝動にかられたのだ。しかしその哀し気な表情と自身の衝動を誤魔化すように、俺は彼女にデコピンをする。
「あいてっ」
突然の衝撃にやっと彼女はこちらの存在に気づいたようで、驚いたように目を見開いていた。ここで俺は気づいてはいけないことに気づいて、慌てて目を逸らす。
最近の夕方はまだ肌寒いものの、昼間は蒸し暑い時間が増えていた。当然俺もそれが分かっているため薄着の上にカーディガンを羽織るだけに留まっている。
デレン!そこで問題です。室内から出ることのない白石さんは当然、薄着なわけですが、ずぶ濡れになった場合どうなるでしょうか。はい、正解は“透ける”です。
「早かった、ね……?」
どうしようと考えた結果、自分の来ていたカーディガンを羽織らせた。こんなに濡れていたらなんの足しにもならないだろうが、俺の目のやり場には困らなくなるはずだ。しかし彼女は不思議そうに首を傾げる。どうやら自分の状況を理解していないらしい。
『風邪』
それだけ伝えると、彼女は自身の濡れた服に触れてギュッと握る。すると服が吸い込んだ水が絞り出された。そこで自身の濡れ具合と言うものを理解したのか、彼女は慌てて申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい!これ濡れちゃうから」
『着て』
「でも」
『きて』
せっかく羽織らせた服を脱ごうとする彼女をどうにか阻止すると、納得はしていないようだが渋々従ってくれた。それを脱ごうものなら俺はこの場にいられなくなるのだ。しかし1つ盲点だった。
「カーディガンだと前が隠れない!」
チラリと彼女を見ると、少し本当に少しだけ大きめな俺のカーディガンを羽織っている。そう、羽織っているのだ。だから前の方が隠れていない、最も重要な部分が。これがコートとかであれば隠れたのだろうが、身長も近い俺のカーディガンでは防御力が心もとなかった。こんな事になると分かっていたなら何が何でもコートを持ってきていただろう。こんなラッキースケベみたいなの切実にいらなかった。いや待てラッキーとか言うな。
「くしゅん」
「あー、とりあえず中はいらないと」
頭にこびりついて離れない彼女の姿をどうにか片隅へ追いやり、腕を引いて屋根のある所まで行く。そのまま傘を畳み、横目で彼女を見れば一つにまとめられた長い髪を下ろして滴る雫を絞っていた。そうすることでよりチラリと。
「やめいやめい!やめんか!」
これはいかんと頭を振る。ではどうやってこの状況を改善すればいいか、それはあの前方にある目の毒を隠すことだろう。
「そうだボタン閉めればいい……馬鹿野郎!」
勢いあまって自身の頬をグーパンする。思いっきり殴ったせいか口の中が切れたようで、血の味がしてきた。寧ろそれが良かったのか、ようやく頭が冷めてきた。末恐ろしいな……思春期の男子高校生なめんなよ。煩悩がやべぇんだぞ(※個人差があります)
深く息を吸い、吐いて、取り敢えずボタンをどうにかしてもらおうと、彼女の手を取る。
『ボタン』
「ボタン?」
『しめる?』
「しめ……?あ、留めた方がいい?」
こちらの言うことを理解したところまでは良かったが、彼女は手先が冷えて言うことを聞かないのか、中々上手くボタンをはめられないでいた。しかも先ほどより寒そうにしており、カーディガンでは冷えていく体を全く防寒できていない。あまり時間をかけすぎると本格的に風邪を引いてしまうだろうが、前は隠してほしい。
「あーうーんー……これは不可抗力、そう不可抗力だ」
果たして彼女は俺が男だという事を分かっているのだろうか、という文句を飲み込み、ボタンのために彼女の前に屈む。もちろん薄目で必要最低限のみ確認をしつつ手こずる彼女の代わりにボタンを留めた。ここが重要である。
「ごめんなさい、上手く留められなくて」
「大丈夫、見てないから見てないですから」
決して見てはいない。俺は何も悪いことをしていない、不可抗力なのだ。そう心の中で念じ続けた。
その後、急ぎ足で病室へと帰って来る。幸いにも誰ともすれ違うことなく、戻ってこれたため一先ず安心した。まずは着替えてもらわなければいけないだろうと、冷え切った彼女をベッドサイドまで案内した。
『ついた』
「重ね重ね申し訳ないのだけれど、一番下の引き出しから着替えを取ってもらってもいいかな」
「何を言いだすんだこの人」
彼女はやはり俺のことを男としてみていない節があるようだ。いくら友達と言っても、超えてはいけない一線と言うものがあるのを彼女はピュアさのあまり、知らないのだろうか。しかし、彼女の覚束ない足取りで着替えを取るよりも、俺が取って渡した方が早くて確実なのもまた事実。俺は今、究極の選択に迫られている。
「大丈夫?なんだかすごく緊張してるみたいだけど」
手を握ったままフリーズしていたため、彼女は心配そうに俺の手を握りしめた。そこは心配そうではなく、色々察してほしいところだが、何も考えず俺の手を握っているところを見ると、やはり男として見てもらえていないんだと再認識する。
これは再度覚悟を決めるしかない状況のようで、彼女の手を離して指示された引き出しの前へと屈み、折り畳み傘はそのまま棚の横に立て掛ける。どうやら持参した棚を置いているようで、3段の大き目のボックス型である棚はシンプルな明るい木のもので、既存の棚にはめ込まれている引き出しは100円ショップ等でよく見る布製のボックスだった。
「一番下だよな」
固唾を飲み込み、視線を逸らす。そして恐る恐るボックスを引くと、中には可愛らしい布製の袋で小分けにしてあるものがたくさん詰め込んであった。それを思わずガン見する。
「なんだ、下着じゃないの……馬鹿野郎!!」
勢いあまって自身の頬を以下略。
「痛い」
2度目の拳を受け止めた右頬がヒリヒリしてきた。久し振りの痛みに涙が出そうだが、あまり彼女を待たせると、またあらぬ心配をかけてしまうだろうから急いで小袋を取り、渡す。
「ありがとう、すぐに着替えるね」
小袋を受け取ると、そのまま着替え始めようとしたため俺が慌ててカーテンを閉める。そろそろ怒ってもいいだろうか。というか、虚しくなってきたんだが。
誰でもいいから、俺は何も悪いことをしていないのだと言い張りたい。そして、ここまで男として見てもらえない事実に慰めてもらいたい。いや別に男として見てもらいたいわけではないのだけど、友人として信頼されているという点に関しては名誉賞をもらえるレベルだとは思うんだけど。
一気に襲ってきた疲労感に、そのまま椅子へと腰を下ろす。もう考えるのも疲れたので思考放棄をしようと思う。しかし存外上手くいかないもので、無意識に屋上での光景を思い出してしまった。
「忘れろ、忘れるんだ」
また速足になる心臓を落ち着かせようと、深呼吸を繰り返すが煩悩は消えてくれない。こんなときは違うことを考えるに限るだろう、例えばこの状況を白石さんの両親にでも見られたらヤバいだろうな、とか。
「これ見られたら、すごい誤解されそうだなぁ」
想像しただけでも恐ろしい事実に乾いた笑いを洩らすが、ここで気づく。もしかして自分でフラグを立ててしまったのでは、ということに。張り付いた笑顔を崩すことを忘れ、そのまま血の気が引いていく。
いやまさか、こんなに早くフラグ回収なんて起きないだろう、漫画じゃあるまいし。しかし念のために早めに帰るに越したことはないだろう。彼女にヒトコト言って帰ろうとカーテンに手を伸ばして、そこで動きを止める。今この状況でカーテンを開けるのはさすがに不可抗力、とは言えなくなってしまうのではないか。それはもはや、ただの覗きでは。
そして最悪のタイミングで、フラグが回収される。
ノックもなく、ゆっくりと開かれるドアが視界の端に見えた。それはまるでスロー再生されているかの如く、ドアの向こう側にいた年上の女性と目が合う。
髪は肩くらいで短く切りそろえられており、細目で綺麗な顔立ちと潔癖そうな雰囲気のある立ち姿は、白石さんというよりナカさんと似たものを感じた。
「……誰ですか」
怪訝そうにこちらを見据える女性は、会ったことはないが誰なのかさすがの俺でも分かった。この人がおそらく白石さんのお母さんなのだろう。




