11.色糸
聞き慣れたチャイムの音が授業の終わりを告げる。教卓では授業をしていた先生が教材を片付け始めていた。黒板には暗号の羅列がびっしり書いてあるが、黒板いっぱいに板書する先生たちは、もう少し見やすくまとめられないのかと思う今日この頃だ。お陰で俺のノートは今日も真っ白である。
まあ、見やすくなっても変わらないのだろうけど。だってすでに着いていけていないのだから。
「じゃあ今日の授業はこれまで。日直」
「あ、起立、礼」
今週が日直であることに今朝気づいた俺は、自分が日直であることをまた忘れていた。慌てて号令をかければ生徒全員が一礼をし、先生は教室から出て行った。すると、先ほどの静けさから打って変わり、分かりやすいくらいに生徒たちは活気を取り戻し始める。これが五限目終了後の元気さだ。かくいう俺も眠気は一気に吹っ飛んだ。
「はぁぁぁ」
「うるさい」
「そこは、どうかしたの?って優しく問いかけてくるところだろ!」
少し離れた席にいる良樹は鞄を持ち、こちらへとやってきた。俺の長い溜息なんて気にも留めていないのか、興味なさそうに前の空いている席へと腰を下ろす。
「なんで俺がそんな面倒くさいこと」
「そういうやつだよな、俺知ってた」
「それは良かった」
冷たい物言いはするものの、先に帰ろうとしない辺り悪い奴ではないのだ。今日から部活も休みという事だし、一緒に帰るつもりなのだろう。そう、つまり来週からテストというわけで、俺の溜息の原因なわけだが。
教室内には日直である俺と、佐々木さんと中原さん含む数人しか残っていない中、男子生徒が慌てたように扉を開けた。
「あれ、澤北まだ帰んねーの?」
近づいてきた短髪でさわやかな雰囲気の男子生徒は、明るい調子で良樹へと声をかける。彼は俺の前の席に座っている森田という男子生徒だ。ちょうど彼の席に座っているのが良樹であるから、机に何か忘れ物でもしたのだろう。
「こいつの日直終わったら帰るよ。忘れ物か?」
「そう、そうなんだよ!普通にスマホ忘れて焦ったわ」
「スマホ忘れるとか」
「俺もそう思うわ」
底抜けに明るい彼は、不愛想な良樹とは正反対だ。良樹は社交性がないわけではないため、友人を作るのは結構早かったりするが、それを姉に話した時には意外そうな顔をされたものだ。
ちなみに、昔は今ほど友人を増やそうという気がなかったようで、無関心を貫いて生活していたため色んな反発も多かった。
森田はチラリと俺の方を見た。まさかこちらを見るとは思っておらず思わずビクリと体を揺らす。
「黒岩もスマホ忘れには気をつけろよ、まじ焦るから」
「あ、うん」
じゃあ帰るな、と言って足早に帰っていった彼はまるで嵐のようだった。なんとなく一息つくと、前から視線を感じて見ると、良樹がこちらをジッと見ていた。
「な、なんだよ」
「那津って人見知りだったか?」
そう問いかけてきた良樹の瞳は真剣そのもので困惑する。俺はその視線から逃げるように窓の方を見て頬杖をつく。
「良樹、長い付き合いだが言っていないことがあったな。俺は人見知りでコミュ障だ」
学校に通い始めてから一週間が経とうとしているが、俺は未だに友人が多くない。いないわけではないのだから誉めてほしいところである。このクラスに悪いやつはいないのだろう、登校初日も物珍しいものを見る感じで距離をとるわけでなく、みんな普通に接してくれていた上に怪我の治っていない俺のために、困ったことがあれば手助けもしてくれた。それこそ前の席の森田と横の席の佐々木さんなんて、それの筆頭だ。
休み時間の度に佐々木さんは予習ノートを貸してくれ、森田は昼休憩にはパンと飲み物とお菓子を買ってきてくれた。いや、頼んだわけじゃない、断る前に買って戻ってきたのだ。
お蔭で無事に平和な学校生活を送れているわけだ。友人といえるほど仲良くなった奴がいなくて嘆いているなんてきっと贅沢なのだろう。
「お前馬鹿だから人見知りじゃないかと思ってた」
「お前こそ、いつからそんなフレンドリーになったんだよ」
「元々だろ」
とりあえず良樹の発言に鼻で笑ってやった。ちなみに、こいつほど不愛想なやつに俺は会ったことがない。
とうとう教室にいる人間が俺たち合わせて4人になったところで、今週一週間、一緒に日直をする委員長こと佐々木さんがこちらへとやってきた。その横には中原さんもいることから、良樹が俺を待っているのと同様に、佐々木さんが終わるのを待っているのだろうか。
「黒岩くん、今大丈夫?」
「日直だよね、なにからすればいい?」
「いや、今日の日直なんだけど、急遽弟のお迎えに行かなくちゃいけなくなって」
申し訳なさそうに手を合わせる彼女は、どうやら弟がいたようだ。弟と言うと、自身の姉のことを思い出し、姉もこうやって俺のお迎えをしてくれていたのだろうかと思うと、温かい気持ちになった。やはり早く怪我を治して、姉の苦労を減らさねば。
「全然いいよ、俺一人でやるし」
「いやいや黒岩くんまだ怪我治ってないし、代わりに由依に頼んだから」
佐々木さんの後ろから、ポニーテールを揺らしながらヒョコっと現れた中原さんは「よろしくね」と言ってクシャリと笑った。佐々木さんともども、最近はお世話になってばかりだ。
「じゃあ私はこれ出しに職員室行ってから帰るね」
「したら、これは俺が持ってくよ」
佐々木さんが教卓の上に集められた全員分のノートを持っていこうとしたところ、暇を持て余していたであろう良樹が名乗りを上げて横から持ち去る。彼女は突然のことに一瞬動きを止めていたが、その間に彼は教室から出て行ってしまった。
「あ、澤北君」
「佐々木さん、ここは良樹に甘えて弟君を迎えに行ってあげなよ」
「あーもう。こんなんで申し訳ないけどお礼!みんなで食べてね」
彼女はどうしようか迷った挙句、鞄からファミリーパックのクッキーを取り出して俺の机の上に置いて急いで出て行った。一体なぜ鞄の中にクッキーが入っていたのか、それもファミリーパックのやつ。しかし胃袋のでかい良樹は喜びそうである。
「さっちゃんは家族が多いから、いつもおやつたくさんもってるんだよ」
どうやら疑問が顔に出ていたのか、中原さんはおかしそうに説明してくれた。そしてそのままクッキーを袋から取り出し、等分してくれる。更にはどこから取り出したのか可愛いサイズの小袋(ジップロック付き)に入れて2袋渡してくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして!」
気を付けなければすぐ顔に出てしまうことを忘れてしまうため、俺は照れくさくなりつつ笑う。
病院ではずっと白石さん相手だったから、全然気にしてなかったのだ。俺はもう高校生、ポーカーフェイスを習得せねば。
「えーっとじゃあ、とりあえず黒板消すね」
「いいよいいよ、座ってて。黒板とか机並べるのは私がするから、黒岩くんには日誌をお願いしてもいい?」
立ち上がろうと松葉杖を手にした俺の肩を抑えて、再度椅子に座らせる。中原さんは予め佐々木さんからもらっていた日誌だけを置いて、黒板を消し始めた。しかし、それはあまりにも申し訳ない為、俺はもう一度立ち上がる。
「元々は俺の仕事だし」
ラーフル(黒板消し)を片手に中原さんは首を傾げる。変に悩ませてしまっているような気がし始めたため、ここはお言葉に甘えた方がいいだろうか。
少しして、何かを思いついたのか明るい表情でこちらを見た。
「じゃあ、今度私が日直の時に手伝うっていうのはどうでしょう?」
「そんなことでいいなら全然」
「じゃあ、そういうことで!」
にこりと微笑み、そのまま黒板を掃除し始める彼女に好意に甘えることとし、俺は自身の机に置かれた日誌を開く。そこには4月の分から全てがつづってあり、俺の知らない日常が垣間見える。と言っても、その日の時間割に一言コメントが書いてあったり、日直の感想が書いてあるくらいで詳しいことは分からないのだけども。しかし自分が何を書いていいか分からないため、前の人が書いたものは参考にさせていただきたい所存ではある。
「黒岩くんの怪我って、まだ治るのかかりそうなの?」
声をかけられ顔をあげれば、黒板の下の方から消していっている中原さんの姿が目に入る。彼女はこちらを見ず、そのまま作業を続けていた為、俺もそれに倣い、時間割を埋めていく。
「大体あと一か月くらいって言われたかな」
「大変だね、通院とかあるの?」
「一応、週一であるよ」
時間割を埋め終わったところで中原さんはラーフルを持ってラーフルクリーナーのところに行く。そして「ちょっとうるさくするね」とヒトコト言ってスイッチを入れた。言葉通り教室に騒々しい音が鳴り響くが、このクリーナーの悪いところであるため、仕方がない。というかヒトコト断りを入れてくれるあたり親切だと思う。
この騒々しさでは会話もできないと判断し、授業に対する一言と今日の感想を書ききることに決める。再度言うが、こういうのは苦手だ。
静かな教室内に響く機械音と、かき消されるペンの音。それ以外の音はまるで存在しないかのように感じる。いや、文字を書いている瞬間に感じる音は、聞こえはしないが指から伝わる振動でなんとなく分かるのだ。もしかしたら白石さんの世界もこんな感じなのかもしれない。
最後の一行を書き終えたとき、教室を埋め尽くしていたそれは消えた。
「お騒がせしました」
彼女がそう言えば俺は「いえいえ」と返す。今度は両手に持った2つのラーフルをそのままに窓まで行って面を合わせて叩き始めた。あれは風向きによって粉が顔にかかるのが大変な作業だ。すると、やはりというか、顔にかかったようで彼女は渋い顔をして咳き込んだ。
「大丈夫?」
「あはは、思いっきり叩きすぎちゃった」
そして何を思ったのか、両手のそれを交互に見つめた後、俺の方へと近づいてきた。その表情はニコニコとしていて嫌な予感しかしない。
「黒岩くん、暇そうだね?」
「そ、そんなことあるけど、それはどういう事でしょうか?」
俺が椅子ごと後ずさろうとすれば、少し離れたところで両手のラーフルを優しくポンと叩いた。粉は多くは上がらず、少しだけ中を舞う。
「日誌ありがとう!これ面倒だよね」
悪戯が成功した子供のように笑う彼女に、つい白石さんの姿を重ねてしまった。中原さんと白石さんは似ている気がする。ただ中原さんは彼女と違って、なんていうんだろう。
「中原さんって、空気みたいなんだよね」
そう、白石さんは消えてしまいそうな儚さはあるけど、目が離せないと言うか。でも中原さんはいつの間にかそこにいるような感じで、同じ空気感があるというか。
「え?」
「ん?」
静まり返る教室に先ほどと違ってなんだか気まずい空気が流れた。不思議に思い顔を上げると、驚いた表情でこちらを見ている中原さんに首を傾げるが、一瞬で事態を把握する。
俺はもしかしなくても今考えていたことを口に出していたのではないか。いやでも悪口のつもりではないし、悪口ではない……いや、悪口に聞こえる?
「あ、いや違う。悪い意味ではなくて」
慌てて弁明を始めると、俺の顔を見たまま動かなくなっていた彼女は、堰を切ったように笑い出した。それは怒っているようには見えず、戸惑うしかない。
「中原さん?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
目に涙をためて笑い続ける彼女のどこら辺が大丈夫なのか分からないが、本人が大丈夫と言っているのだし、大丈夫なのだろう。しかし、ありがとうの意味は分からない。
タイミングがいいのか悪いのか、無遠慮に開けられた教室のドアの先には相変わらず無表情の良樹がおり、その手にはパンが握られていた。恐らく職員室まで行き、腹が減ったあいつは近くにあった購買部で食料を調達し食べながら帰ってきていたのだろう。そして俺の予想だとあれは3個目のパンだ、間違いない。
「修羅場か?」
「なんでそうなる!?」
若干、眉間にシワが寄った彼の言葉で改めて状況を見てみると、中原さんが両手にラーフルを持ち、涙目で腹を抱えて机に寄り掛かっている中、俺は自身の机に座り微動だにしていない。
確かに、どうゆう状況だとは思うが修羅場ってなんだ、修羅場って。
「あははっ、ごめんごめん笑いすぎた!あとは私が片付けておくから日誌の提出お願いしてもいい?」
「また職員室行くのか」
ぽつりと呟いた良樹の背中を叩き、俺は日誌を持って立ち上がる。床に置いていた鞄はいつの間にか良樹が取っていたため、立て掛けて置いていた松葉杖を取る。
「それ貸して」
すると良樹は中原さんからラーフルを一つ受け取り、黒板の方へと歩き出した。何をするのだろうと見守っていると、黒板の上の方、つまり中原さんの身長では届かなかった部分を消し始めたのだ。なんだこいつ、いいやつかよ。
「あ。ごめん澤北君」
「別にいいよ。あいつ使えないし」
「おいこら」
視線だけで馬鹿に、いや、言葉でも馬鹿にされた気がするため松葉杖を振り上げて(良い子は真似しないでください)威嚇してみるが、鼻で笑われた。いつもこうである。初めて会った時でさえこんな感じだったのに、なんで良樹に友達がいるのか。そんな俺たちに中原さんは再度、声を出して笑った。
「大丈夫?」
「どっちの意味で?」
「どっちもかな」
あまりにも笑いすぎている彼女の表情筋と腹筋、さらに残りの仕事全て任せてもいいのかという気持ちを込めて尋ねてみると笑顔でピースをしてくれた。
「じゃあどっちも大丈夫!」
やはり類は友を呼ぶと言うのだろうか、佐々木さんと言い中原さんと言い、人の良い人が多いものだ。俺には到底真似できそうもない。
良樹が黒板の残りの部分まできれいにした後、スマホを見ると16時30分を過ぎており、姉から連絡が来ていたため急いで教室を出る。
今日は今から病院だ。どうやって姉さんを撒いて白石さんに会いに行くかが問題になるわけだけど、彼女の存在がバレている時点で無理な気はしている。それよりも何の話からしようか、それだけを考えよう。




