10.露草色②
真っ白な空間の真ん中にポツリと白いベッドが置いてある。見覚えのあるような光景に、何かが足りないとは思うが何が足りないのかは思い出せない。
「黒岩さん」
どこからか聞こえてきた声に思わず後ろを振り向くが、そこには何もなく、突然、青い空が窓越しに現れた。
青、水色、藍色。思いつく限りの青は彼女に伝えたが、きっと彼女は俺の知らない青も多く知っているのだろう。そう言えばあの日、言っていた青はなんだったか。
「薄明」
今度ははっきり聞こえた声に再度振り向けば、ベッドの上には白石さんが座っていた。その表情はやはり見えなくて、彼女は遠くにある空を見つめている。
―――そうだ、足りないのは白石さんだった。
いつも通り、窓を閉めようと窓を見れば外からピピピピという電子音が聞こえてくる。それは徐々に大きくなり、俺の音を全て侵食していく。
煩いな、俺はまだ白石さんと話していたいのに。
フッと意識を浮上させると、見慣れた天井と見慣れたカーテンの隙間から淡い光が漏れていた。耳元では充電器に繋がっているスマホが騒がしく時間を知らせている。気怠い体にむち打ち、鳴り続ける目覚ましを止めて時間を確認すると5時30分を示していた。思わず大きな溜息をつく。
「夢、か」
再度仰向けに寝転がり、目をつむる。あの日から白石さんに会わなくなって、一週間が経とうとしていた。
だからと言って夢にまで見るとか、どうした俺という感じである。そこまで会いたいわけではないはずなのに、夢に見るだなんて恥ずかしすぎる。これは今世では絶対誰にも言わないでおこう、絶対に揶揄われる。
「那津ー!遅刻するよー!」
「はーい」
一階から姉の大声が飛んできた為、二度寝を諦めて起き上がり、ベッド横に置いてあった松葉杖を手に取った。
一階へと下りて扉を開ければ、広いリビングには古びたソファーと、向かい側には何もない白い壁と、ソファーの後ろにはキッチンがあるため、四人掛けのテーブルが置いてあるのが目に入る。その隣にある和室の襖は閉められていた。見慣れた光景に、実家に帰って来たことを再認識させられる。
一か月帰ってなかっただけで、こんなに懐かしく思うものなんだな。
「遅い」
当たり前のように寛いでいた良樹がソファーの蔭から顔を覗かせる。一体いつからいたのか分からないが、まだ6時前だという事を分かっているのだろうか。
チラリとキッチンの方を見れば、エプロン姿の姉が忙しなく朝食を準備しており、テーブルの上にはすでにご飯が3人分準備されていた。
「お前暇なら手伝えばいいのに」
「それ器に盛りつけて並べたの俺なんだけど」
「ごめんなさいなんでもないです」
手伝ってすらいない上に今起きてきたやつが何を言っているんだと思うだろうが、俺もそう思う。俺だって怪我がなければ手伝っているし、いつもなら交代制で朝の準備やら家事をしているのだ。しかし退院したばかりだからと言って姉さんは何も手伝わせてくれないのだ。
リハビリのお陰で大分動けるようにはなっているのだが、心配性なこの姉は完治するまでは俺に何もさせない気でいるらしい。逆に考えれば今何にもしていない分がまとめて降りかかってくるということでもあるのだが、そんなことは別にどうでもよくて、今は早く治すことだけど考えなければいけない。
そのままテーブルの横へ松葉杖を立てかけて、定位置に腰を下ろす。それを確認してから良樹もソファーからこちらへと場所を移った。
「良樹くんは、ご飯大盛りだよね」
「うん」
当たり前のように、姉さんから御飯が山盛りに盛られた茶碗を受け取る彼の姿もいつものことだ。言ってしまえば彼とは小学生の頃からの付き合いで、ほぼ家族みたいなものなのだ。だからと言って彼に家族がいないと言うわけではない。
「お前自分家でも食ってきてんのに、よく食えるな」
彼の家は父親が忙しく、ほぼ家にはいない。だから、いつも近くに住んでいるおばあちゃんがご飯を作りにきている。そしてそれは、少なくはないはずだが。
「育ち盛りなんだよ」
「それ以上育つな」
フンと鼻で笑いこちらを見た良樹を一発殴っても許されるような気がしたのは気のせいではないはず。
身長175㎝、体重59㎏の細い体にはある程度鍛えられた筋肉がついており、マッチョとまでは言わないが喧嘩が強いくらいには筋肉がある。その上頭もよくて顔もいい。これは本当に殴っても許されるスペックだ。ちなみに俺は164㎝の50㎏ですが何か。
「雪那さんの飯は別腹だしな」
「姉さんの御飯はデザートか」
姉は自分の御飯と俺の御飯をよそいで、席に着いた。今日のメニューは具沢山の味噌汁と玉子焼きと納豆、そしてホウレン草のお浸しだ。豪華ではないが、どれも美味しい。特にだし巻き卵、これは俺の大好物である。
「やっぱ卵はだし巻きだよなぁ」
「わかる」
卵焼きを噛みしめる俺と、言葉をかぶせるように同意してくる良樹に姉さんは照れ臭そうに笑みを零した。1週間、自宅に帰ってきてから、この瞬間が一番幸せだと感じる。
◇◇◇
「じゃあ今日は定期健診の日だから」
「うん、終わったら連絡する。気を付けてね」
朝ご飯を食べ終え、3人一緒に家を出る。時間は6時半、辺りは未だ静寂に包まれており、少し冷え込んだ空気が流れていた。この時間に家を出ることは今までなく、中学までは騒がしい登下校を経験してきたのだが、一週間も続けていると慣れてくるもので今では静かな登校も割と好きになりつつある。まぁ、良樹の場合は静かな方がいいのだろうけど。
「那津と良樹くんもね」
姉はそそくさと車に乗り込み、走り去っていってしまった。落ち着きのない姿を見ていると、どうか安全運転でと願わずにはいられない。
「じゃあ行くか」
良樹は家のそばに止めていた自転車カゴに荷物を押し込み、当たり前のように俺の荷物も詰めてから、歩きだした。そして俺も彼の横を一緒に歩き出す。すると横から大きな欠伸が聞こえてきた。
彼は特別朝が弱いわけではないが、今日は一段と眠そうであることから、恐らく遅くまでゲームをしていたのだと推察できる。
「昨日何時までゲームしてたんだよ」
「あー、日付は変わってた気がするわ」
父親があまり帰ってこないからといって自由度が高すぎではないかと思う。俺の場合は常に姉の目があるため、隠れてゲームなんてほぼ無理げーと言うもの。とは言っても、早起きが得意ではないため、遅くに寝たら寝た分だけ朝は起きられない。自慢じゃないが梃子でも起きない。
しかしそんな俺がこんな早朝から登校している原因としては、この怪我だ。登下校中が心配だと言う姉が送り迎えすることを提案してきたわけだが、流石に仕事も家事も忙しいのに、そこまでしてもらうわけにはいかない。そんなとき、良樹が自分が付いていると言ってくれたのだ。
「てかごめん、家逆方向なのに」
「もういいって。つーか那津だって俺に合わせて早起きしてんだし」
「あぁ、まさか良樹が部活に入るなんてな」
小中とクラブにも部活にも入らず、ゲーム中心で生きてきた俺たちだったのだが、まさか俺がいない間に裏切られているとは思わなかった。良樹は絶対ゲームのために部活には入らない、もしくはゲーム関係の部活があればそれになら入ると信じて疑っていなかった入院中の自分に教えてやりたい。
「しかも演劇部とかウケるわ」
「自分で言うな、自分で」
ハハッと笑い声をあげる彼を横目に、俺は少し拗ねる。友達の多くない俺にとって良樹は唯一の親友だし、高校に入ればそれなりに友達もできるだろうと思っていたのに、まさかの登校初日で事故して一か月以上休むと言う失態を冒したわけだ。そして一週間、俺には男友達はできていない。
「誰とゲームすればいいんだ」
「委員長とか」
「女子だけど?しかも委員長だけど!」
カラカラと自転車の車輪が回る音だけが響いていたが、大通りに出るとチラホラ車が走り始めたため、エンジン音が騒がしくなってきた。早朝に走っているトラックを見るのはさすがに少し怖さを感じる。
ちなみに友達獲得数がゼロというわけではない。登校初日に俺の周りの世話をしてくれた委員長こと佐々木さんと、その友達の中原さんとは割と話すようにはなっていた。
「まぁ、お前ゲーム没収されてるけどな」
「あー言わないで、もうしんどい」
学校が始まって2日目、さすがに朝早くから教室ですることもないため暇つぶしのゲームをもってきていたら運悪く生徒指導の先生に見つかったのだ。それも電源を入れた瞬間。あの時の絶望と言ったら……せめて少しでもプレイさせてほしかったと思わずにはいられない出来事であった。それから数日たつが、いまだに俺のゲーム機は帰ってこない。
「桑田に目付けられるとか、ドンマイとしか言いようがないわ」
「あ、澤北君に黒岩くん!おはよー!」
「2人とも、おはよう」
校門前に着くと言うところで、後ろから聞きなれた声が聞こえたため振り返ると、まさに今話題に上がっていた委員長が手を振って近づいてきていた。その後ろには中原さんもいる。
「おはよ、ちょうどよかった。俺こっちだからこいつのこと教室まで任せていい?」
「任せて、澤北君も部活頑張ってね」
自転車に乗せられていた鞄は委員長へと手渡され、良樹は駐輪場へと姿を消していった。委員長は眼鏡をくいっとあげて、少し釣りあがった目で俺を見据える。肩に付かないくらいの髪はとても涼し気だ。
「さて行きましょう!」
「黒岩くんの靴箱って何番だっけ?」
「いいよいいよ、靴くらいとれるし」
委員長の後ろから自然に表れた彼女のポニーテールはユラユラと揺れている。にこやかに笑みを浮かべる彼女は、笑ったときにキュッと細くなる目が印象的だ。
中原さんはじゃあ、と脱いだ俺の靴を靴箱に入れてくれた。一連の動作に隙がなさ過ぎて遠慮することすら間に合わなかった。恐るべき気遣い女子2人組。しかし女子に鞄を持ってもらって、靴まで片付けてもらってって、ってあまりにも申し訳ない気がするのだが、気のせいだろうか。
「それにしても澤北君も毎朝部活とか大変だよね」
「本当だよ。あんま早起き得意じゃないんだけどね」
「でも明日から部活停止期間になるし、黒岩くんもゆっくり寝られるね」
階段を上ろうとする二人を無視して俺の動きは一時停止する。と同時に思考回路も止まった。
部活動停止期間とはなんぞや?中学校の時の知識を総動員して考えるに、何かしら重要なイベントがあるときは必ず部活は停止していた。となると何かしらの行事が近づいているに違いない。この時期にする行事と言えば。
「そっか、文化祭か」
「黒岩くんテストだよ、現実見て」
天井を見上げる俺に委員長は容赦なく言葉をかぶせて来る。一瞬だけ脳裏をよぎった気がしたが、テストではないと信じたかった。中原さんは苦笑しながらも松葉杖を一本だけ持ってくれた。俺は手すりに掴まり階段を上り始める。
「忘れてたの?」
横で首を傾げる中原さんに俺は小さく頷く。
「というか、それどころじゃなかったと言うか」
「今から追いつくのが大変だもんね」
それもあるのだが、怪我の事やら家のことを考えてたりしていたらテストのことは頭から消えていたのだ。そう言えば先週もらった行事一覧に中間テストって書いてあったような気はするし、先生に念押しされた気はするのだが、良樹からは何も聞いていないので全部良樹が悪い。
それに白石さんのことを考えていた。
――今日は晴れてるし、薄めの青だから水色かな。
階段を上り切った前にあった窓からは淡い光が降り注いでおり、空は薄い雲が流れていた。
彼女にはお見舞いに行くとは言っていたが、距離的にも時間的にも難しいことに気づいたのはつい最近の事。定期健診以外でも来れるんじゃないかと思っていた俺が浅はかだった。
「そうだ、放課後にみんなで勉強会しよっか?」
「あー、有難いんだけどごめん。今日は病院なんだよね」
「そうなの?それじゃあまた明日かな」
教室のドアを開けながら残念そうに言う委員長は、とてもいい人なのだろう。今までの授業のノートを見せてくれたり、隣の席だからと言って分からない問題があればすぐ教えてくれたり。本当にこの一週間は助かっていた。
俺の席まで鞄を持ってきてくれた委員長と、手伝ってくれた中原さんにお礼を言って、窓の外を眺めた。部活動生が活気良く走り回っている向こうには大きな青が広がっている。
こうやって普通に喋れる友人がいて、毎日学校に通っている中でも、空の青を気にしてしまったり、少し不自由な会話を懐かしく思ったりしてしまう。なぜだか無性に白石さんに会いたくなった。
自由さに物足りなさを感じるなんて、不思議な話だ