表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
色彩ーremakeー  作者: 蒼依ゆき
病院編
1/79

1.白色

雨だ。

 暗雲とした雲に覆われた空、薄暗い住宅街に降り注ぐ大きな雨粒は地面に激しく打ち付ける。


 そして、なぜかそこで立ち尽くす自分を、自分が俯瞰するように見つめている。


 雨と泥か、それとも汗か。その両方か。張り付く洋服は気分のいいものではなかった。

 ――ここはどこだろう。

 よく周りを見渡してみる。そこは一戸建てが立ち並び、さして大きなビルもなければ店もない。コンビニが十数mおきに立ち並ぶ、そんな、見覚えのある町並み。自分の暮らしている街だった。


 なぜ自分がこんなところにいるのか、ここに来る前の記憶が全くない。不思議に思いつつも帰ろうと一歩踏み出したとき、何かを蹴る。不意に下を見ると、目の前に一人、蹲る人がいた。こんな近くにいてなぜ、気づかなかったのが不思議なくらいなのに、男なのかも女なのかも分からない。


 声をかけようとするも、自分の声が出ないことに気づいた。違う、出ないのではなく雨にかき消されているのだ。しかし、またも不思議なことに土砂降りの雨の中で、かすかに泣き声だけが聞こえた。

 ――どうして泣いているの?悲しいことがあった?また叩かれたりしたの?

俺は声の出ない声で、届かない声で問いかけた。雨はさらに激しくなる、重くなる体とうるさい雨の音で自分の言葉すら聞こえない。次第に立ち尽くすことすら難しくなった。

 ――だから雨なんて嫌いなんだ。



 一瞬の浮遊感のあと、スっとあたりが明るくなる。重いまぶたを開けると、真っ白な天井が見えた。そんな小説のテンプレみたいな言葉が真っ先に浮かんでしまったのは本当に真っ白しかなかったからだ。ふと、目元に濡れた気配を感じ、拭おうと腕を動かす。


 ――動かない、なぜ。

 なぞにダル重い自身の体と、見渡す限り白の個室。全く有意義な情報が視界に入ってきていないことに気づき絶望する。


 視界に頼るのをやめ、耳を澄ましてみると、同じテンポで鳴い続ける電子音と遠くに聞こえる人々の話し声が聞こえた。人がいるのであれば話が早い、誰かを呼んでこの状況を聞くのが一番いいだろう。しかし


「っぁ、」


 ――え、声が出ないんだが。


 声が出ないんだが。大事なことだから二度も言ってしまった。いやだからなんで。なにこれ拉致監禁なの。こんな拉致監禁とは無縁そうな殺風景の白い部屋で。いや、殺風景で真っ白だったら今からバトルロワイアル始まる可能性ワンチャンあり寄りのあり?あれ、この言葉古い?


 状況が全く整理できない。体は動かない上に、何か喉に詰まっているかのように声は出ないのだ。しかも自身の意思では治りそうにもないときた。あれだな、ここまでかすれた感じだと良樹と一緒に行ったカラオケで分かりもしないロックをノリと勢いだけで(俺だけが)歌いまくってた時のあれを思い出すな。あれよりも酷いけど。


 俺は心の中でため息を吐きつつ、何があったのか思い出してみる。間違っていなければ俺の最後の記憶は学校だ。


 1年ほど勉強をサボっていたツケがここで来るかと痛感した高校受験を死ぬ思いでクリアして、入学を果たした北高校。偏差値が高いわけではないが、低くもないこの高校に入学するのは大変だった。如何せん倍率が高かったのだ。人気高校恐ろしい、と心底思った。そんな高校に小学校からの腐れ縁である良樹と入学。入学式も一緒に行って、クラスも同じになったはずだ。


 そして、そうちょうど放課後、良樹(よしき)と下校していた時だ。帰ると言っても、ちょっと歩いたらお互いの家が真逆の方向だから、学校の前で別れるようなものなのだが。


 それで?それからのことが思い出せなかった。記憶に新しい校舎、校庭、体育館、教室。霧がかかった記憶の中を必死に駆け巡ってみるが、寝起きのせいか、はたまた別の理由からか、頭がボーっとして思うように働かない。


見知った風景ばかりが頭をかすめて肝心の部分が思い出せない。毎日同じ風景ばかりを見ていたからどの時間軸の記憶かも曖昧すぎるのだ。


 確か学校前にある『必要性があるのかこの信号機』で有名な信号前で良樹と別れて、帰ったらモン○トしようか、それともモン○ンしようかなんて考えながら信号待ちをしていたような気がする。


 なんだったか。信号機の故障、違う。猫が塀を歩いて、るのはいつものことだしな。下校のおばちゃんが黄色い旗振り回してた?違うよな。変なことしか思い出さないな俺。自分の日常が平和過ぎて怖いわ。


 いつから開いていたか分からない窓から、まだ少し冷たい風が吹き込んできた。風で揺れたカーテンの隙間から陽の光が差し込み、俺の顔を直撃する。正直とても眩しいし、目がチカチカする。あと寒い。自分では閉められないのだから勘弁してほしい。


 ――そうだ、あの時確か。


 耳に残る、激しいブレーキ音と、人々の悲鳴を思い出す。俺が振り返ると同時に目に入る何かの光、あれも眩しいなと思った記憶がある。


 よしよし、少しづつ思い出してきたぞ。あと少しのはずだ、頑張れ俺。


 眩しい日差しに温かさを感じ始めた頃、俺の逆の耳にガラガラという音が届く。その音と同時に、吹き込む風は少し強くなり、カーテンは激しく揺れた。木々のざわめきと一緒に室内全体を明るく照らし始めるそれは、白い空間を際立たせるように俺に浴びせられ、そして、何か大きな物が落ちたような音と同時に震えた声と激痛が俺を襲い、声にならない悲鳴を上げる。


那津(なつ)那津(なつ)……っ」


 聞き覚えのある声と、聞き覚えのある名前。痛みで動かない首を必死の思いで動かし、痛みの原因を確認する。短く切りそろえられた髪は寝ぐせ一つない綺麗な黒色で、はっきりと見える首にはいつもつけている母親からもらったネックレスとチェーンが光を反射し、自己主張をしていた。なんだかすごく懐かしい匂いがした。姉さんに抱きしめられるなんていつぶりだろうか。暢気にそんなことを考える。


那津(なつ)、よかった、よかっ…」


 しかし、それどころではないほどの痛みが少しずつ俺を蝕んでいく。ひとえに、この姉の力が強すぎるということなのだが。いやいやそれどころではなかった。


「い、痛、ね、」


「うるさい!」


「……」


 理不尽な一言を放った姉は小さく肩を震わせていた。理不尽なのはいつものことだし、それは別にいいのだ。しかし、俺を逃がさないように強く抱きしめる姉は、なぜ泣いているのか。そしてなぜ、こんなにも体中痛いのか。思い出せそうで思い出せないこの状況が腹立たしいわけで。腹を立てても仕方がないことも分かっているのだが、だからこその状況の説明というか、補足と言うのが欲しいわけで。これでは読者は置いてきぼりである。読者俺、みたいな。


 あれ、なんだか痛みがなくなってきたぞ。これ、俺そろそろ死ぬかな。


 そのまま俺は、ゆっくりと目を閉じた。



 どれくらいの時間が経ったか分からないが、姉は落ち着いたようで俺を離した。やっと解放された痛みから安堵したのも束の間、泣きはらしたように目元が赤く泣ている姉を見て状況の深刻さを理解する。


 俺はもしかして、あんなにも気の強い姉さんを心配させる事態を起こしてしまっていたのだろうか。絶対にもう心配させないんだと誓ったはずなのに。


「ほんと、心配ばかりかけて」


「ごめ」


「喋れないの?」


 俺は小さく頷く。姉は少し思案して、何かに気づいたのか慌てて顔を逸らす。その耳は徐々に赤く染まっていった。


「あんた目、開けるんじゃないわよ。刺されたいの?」


「へ?ぃや、」


「は?」


「うぃっす」


 俺は再度目を閉じる。先ほどまで閉じていたのに、このままでは本格的に眠くなってしまいそうだ。理不尽すぎる姉の言動だが、こんな態度になる理由を俺は分かっていた為、素直に従った。


 姉さんが泣き顔を見せたのは、何年前だったか。随分昔なような気がする。


「多分なにが起こってるのか分かってないと思うから、そのまま聞いて」


 まるで何かの物語でも読み聞かせられているような、そんな感覚だった。実際記憶も曖昧だし、全く現実味のない内容。正直話を聞かされてなお、自分が交通事故に遭って2週間も昏睡状態だったなんて信じられない。事故当時の詳しいことは分かっていないが、トラックが突っ込んできたらしい。俺は頭を強く打っていたため意識が戻るのに時間がかかったようだ。幸いにも全身打撲、片足片腕骨折程度で済んだとのこと。

 ――トラックに引かれたとか、あの時の罰が帰って来たのかもな。


 死んでしまえたら、罪を償うことができたのだろうか。なんて馬鹿なことを考えてみる。そんな事になってしまったら、一体誰がこの姉を守るのだというのか。俺にはもうこの姉しかいないのだというのに。


黒岩(くろいわ)さん、入りますね」


「先生、那津が目を覚ましたんです」


「それは大変だ、中島さんあれ持ってきて」


 ノック後、入ってきたのは白衣を着た男性と、女性看護師だった。姉は思い出したかのように先生に俺の状態を報告する。まぁ、先生に報告に行くなんて考えられる余裕なかったんだろうけど。


 中島と呼ばれた看護師は急いで病院でよく見るライトやら、なんやらの道具を取りに行った。


 姉はというと、来た時に投げ散らかした荷物を慌てて拾っている。先生は状況を察したのか苦笑して一緒に荷物を拾ってくれていた。



「うん、大丈夫そうですね。幸いにも大きな怪我はありませんでしたが、一か月はリハビリをしながら様子を見ていきましょうか」


「分かりました、それで声の方なんですけど」


「2週間も眠っていましたからね、声帯が弱っているのでしょう。徐々に戻ていきますよ」


 俺の担当医だという先生は、それだけ言って部屋を出て行った。声が出ないことが、本当に自分が2週間も眠っていたのだと実感させてくれる。そしてこの全身の痛みが事故の事実を痛感させた。ここは病院で、自分は入院している。その現実をやっと受け入れることができた。


 というか、現実味が帯びてきたというか。夢じゃなかったんだなって感じだ。さっきまでふわふわした感じで、夢の中にいるんじゃないかとも思っていたから。


「じゃあ、私はもう帰るけど」


 姉さんは俺のために持ってきていた着替えや日用品の片付けを終わらせたのか、帰り支度を始めていた。俺は何も言えないし、動けないため軽く頷くだけしかできないが、それだけで十分伝わったのか姉さんは優しく微笑んだ。その笑顔に罪悪感が生まれる。


 俺は本当に何をやっているのだろうと、情けなくなった。心配をかけてしまったこと、姉さんを守ると誓ったこと、それを全部捨てて、終いには姉さんが最も傷つきそうな方法で俺まで死にそうになっていたのだから、もし自分が同じ立場なら笑えない話である。


 姉さんは開けっ放しになっていた窓を閉めた。日が暮れ始めた外の世界は、冷たく薄暗い。


「あんたまで居なくならないでよ」


「ごめ、」


「何も言わなくていいから」


 ――ごめんなさい。


 病室から出て行く姉さんの背中に向けて、俺は心の中でそう呟いた。俺の命は俺だけの問題ではない。あの日、良樹に言われた。姉さんを悲しませるなと。思い出したくないあの日、あまり考えないようにしているあの日のこと。でも忘れてはいけない、父さんと母さんが事故で死んだ日のことは。



◇◇◇



 更に2週間が経った。俺が目覚めて1週間はゆっくりできたのだが、その後から始まったリハビリが、それはもう大変だった。

 骨折していたことももちろんだが、こちらはリハビリ云々ではなく時間に任せるしかない。問題は骨折のしていない方の手足である。寝たきりになっていたせいか筋肉が凝り固まっており、上手く動かせない状態だったのだ。それでもリハビリのお兄さんが根気強く手伝ってくれたお陰で、今はしっかり動くようになった。声の方は以外にも回復が早く、一週間もしないうちに出るようにはなっていた。若者の回復力に姉さんが絶句していたのも記憶に新しい。


 だからと言って完全回復とはいっていない為、車椅子は未だに必須なのである。現在リハビリ帰りの廊下を車椅子に乗る俺は、姉さんに押してもらって病室に向かっているところだ。廊下には、パソコンを台車にのせて他の患者さんと話をしている看護師さんが、たくさん目に入る。遠くにあるナースステーションからも、電話のような電子音が引っ切り無しに聞こえてきて、とても忙しそうだ。すると、後ろから大きなため息を吐かれる。


「大体寝すぎなのよ」


「全くその通りです」


「注意力散漫だし」


「はい」


「クロの面倒も私1人で見てるんだからね?」


「クロはそんなに手がかからないじゃん」


「まぁ、那津よりかはねぇ」


「猫に負ける俺って」


「知らなかったの?」


 最近はやっと姉さんも落ち着いてきたようで、姉さんらしさを取り戻してきつつあった。まぁそのせいで毎度の如くお小言をもらうわけだが、それは生きていたからこそ、なわけで。おかしそうに笑う姉さんを見て、なんだかんだ俺も嬉しくなった。


「でもさ、俺の生命力やばくない?」


「そうね、まるで黒光りしてるヤツみたい」


「やめて、その例えやめて」


 生命力と(おぞ)ましさに定評のあるヤツを思い浮かべて、一瞬で消し去る。これ以上考えると鳥肌が立ってしまいそうだ。俺が(かぶり)を振って思考を切り替えていると、落ち着きなくあたりを見渡している姉が目に入った。まるで何かを探しているようだが、何か落とし物でもしたのだろうか。


「姉さん、なんか落としたの?」


「へ?」


「何その驚き方」


「な、なんでもないのよ」


「何それ、めっちゃ怪しいじゃん」


 明後日の方向を見る姉に俺は、訝しげな視線を送るが、一切目を合わせようとしない。この姉は本当に隠し事がド下手であり、すぐ顔に出るのだ。嬉しいことも悲しいことも全部、それはもう正直に。だからこそ、この誤魔化し方は怪しさ満点なのだ。


「あ、ごめん。ちょっと電話」


 ポケットの中で姉さんのスマホが振動する。姉さんは電話相手を確認すると、慌てて電話OKの場所までかけていった。上手いこと逃げられたなと思いつつ、廊下の片隅で放置された俺は、近くにあった窓ガラスの方へと自力で近づく。さすが6階というだけあって、景色が綺麗である。やはり鹿児島は桜島先輩が雄大で美しい。


 景色を横目に姉の方へ視線を移せばスマホを持ちながらヘコヘコしている。家では見ない外向きの姉の姿だ。自分勝手で気の強い姿からは考えられないものだ。それにしても電話の相手は誰だろうか。


 この姉相手に電話する相手は限られており、いたとしても大概女性である。しかしこの夕方、普段であれば未だ仕事中のはずである姉に対して親しい友人たちが連絡してくるとは考えにくい。必然的に導き出される今の電話相手の答えは、職場の人間!


 まぁ考えなくても分かることなんだけど。


 毎日仕事で忙しいはずの姉さんは、俺が目を覚ましてからというものの毎日のようにお見舞いに来てくれるのだ。今日だってスーツのまま来てくれている。仕事の方は大丈夫か一度聞いてはみたが大丈夫の1点張りで、どうにも姉さんは変な所が頑固で困りものだ。


「那津、ごめんなんだけど今から」


「仕事でしょ、無理しないでね」


「分かってる。それで明日は来るの難しそうなのよ」


「うん、大丈夫だよ」


 荷物を持ち直し、慌ててエレベーターの方へとかけていく姉を見送り、俺は自分の病室へと戻ろうと車椅子のブレーキを解除する。痛み止めが切れてきたのか、骨折した手足がズクズクと脈打っているのを感じる。早くご飯食べて薬もらおう。まぁまだご飯まで1時間くらいあるんだけど。


 大きく溜息を吐いて、もう片方の手で車輪を回し、病室へと進む。車椅子に乗るのも慣れたものだ。今どきの車椅子は片腕でも動かせる仕様らしく、俺が小学校で初めて乗った車椅子体験の時の車椅子とはスペックが雲泥の差だった。だからというわけでは、あるのだが、車椅子が楽しすぎる。是非ともこれからの日常に導入させてほしい。


「ま、姉さんに怒られるだろうけどー」


 そんな馬鹿な独り言を呟きながら『那津』と表示されている病室の扉を開ける。今どきの病院は名前表示もデジタルなんだよ、ハイテクなものだ。しみじみ世の中の発展の速さを感じていると、春にしては冷たい風が頬を撫でた。


 ――あれ、窓なんて開けてたっけ。


 病室の中心にあるベッドには1人の女性が座っており、ただ、静かに外を眺めていた。小さく開かれた窓からは相変わらず風が吹き込み、部屋の中を駆け巡り、腰まで伸びる長い黒髪も、なんの抵抗もなく風に揺れていた。


 俺は一度後ろに下がり、表札を確認する。


 『白石那津(しらいしなのつ)


 ――誰……いや、俺が誰。


 思わず心の中で自分に突っ込む。調子に乗りすぎたようで、きちんと表札を確認しなかった自分が悪いのは十分理解はしてはいるのだが、これだけは言わせてほしい。名前が一緒とか何事。


 いやいや、それどろこではないのだった。白石と思われる彼女からしたら、いきなり知らない男が部屋に入ってきて、しかも盛大に大きい独り言をかましているのだから困惑この上ないはずだ。気まずさで言ったら俺の人生で上位3つには入るレベル。これは早いところ謝るに限ると思い、部屋の主、白石さんを見据える。


 しかし彼女は、そこからピクリとも動かず、窓の外を見つめたままだった。もしかしたら気づかない振りをしてくれているのだろうか。いや、そんな様子は感じられない。俺は無意識に再び部屋の中へと入った。




 静かに締まった扉。静かにと言っても無音というわけではないため、こちらの状況に気づいてもいいようなものだが、彼女はやはり一切の動きをみせようとはしない。まるでそこに飾られる人形のように、そこにあるためだけにいるかのように、座っていた。


 一体何をしているんだと正直思った。面白半分で中に入ってきたわけではないが、好奇心で入ってしまったことは認める。もしかしたら本当に人形で、病院の七不思議的な何かだったら面白いなと思ったのだ。しかしそんな希望が打ち砕かれた。


「うぇっ!?……え?」


 窓の外を見ていた白石さんと目が合ったのだ。この世界の汚いものを何も映していなかのような瞳に目が奪われた。不思議と俺自身すらも彼女に映されず、存在していないような、そんな感覚に陥る。


 風に揺れる髪は彼女の頬を擽る。真っ直ぐに見据えられた瞳は確かに俺を見ているはずなのに、俺はそこにはいなかった。感情のこもっていない、ただの視線。


 そう、俺は綺麗な人間ではない。汚い人間なのだ。今さらその事実に何を思う必要があるというのか。だからこそ、彼女の瞳に目を奪われてしまったのだろうか。手先の感覚がなくなり、真っ白な世界が暗く沈んでいくような気がした。


 「山田さーん!危ないから歩き回らないでくださいねー!」


 病室の外から聞こえた看護師さんのものであろう声に、沈んでいた意識が一気に浮上する。冷たい風が頬を撫でるのを感じた。この部屋はこんなにも寒かったのかと、思わず手に息を吹きかける。


 危うくまた考えすぎるところだった。そうじゃない、いつもの俺はどこへ行ったのだ。怪我をして落ち込む気持ちはよく分かるぞ、今はそれどころじゃないけど。


「あの、」


 悩んだ末、ずっとこちらを見ている白石さんに声をかけてみると、視線は逸らされ、彼女は何も言わずにそのまま膝を抱え込み顔を埋めてしまった。一体どういうことなのか、理解が追い付かない。まぁ、確かに俺は不審者だ、それは認めよう。だったらそれ相応の対応というものがあるのではなかろうか。いや別に通報されたいわけじゃないけど。


 無視するのであれば、こちらを向く必要はなかったわけだし、こっち見てから更に無視をするとか、俺ちょっとよく分からない。誰か助けて。自業自得?知ってる。


「あの、黒岩と言います」


「……」


「黒岩、です」


「……」


「こ、こんにちは」


「……」


 全然めげてなんていませんよ、ええ。別に返事がないことくらい慣れっこですから。明らかな無視はいっそ清々しいですよ。


 彼女は所謂、体育座わりの状態から今度は動かなくなった。少し寒いのか手を袖の中に引っ込めて強く握りしめている。そこで俺は閃いた。とりあえず窓を閉めてあげようと。姉さんは言っていた、女の子には優しくしなさいと。ならば今、それを発動させ、好感度を上げるしかあるまいと。


 俺は窓の方へ向かいながら笑みを崩さずに声をかけ続ける。


「突然入ってきてごめんなさい、これには深いわけがあってですね。あ、窓閉めますね」


 窓を閉めると、部屋には静寂だけが残った。外では淡い日の光に照らされた木々が音もなく揺れている。一層強調された静は彼女の孤独を酷く増長させるものに感じられた。

手を伸ばせば届く距離。ここまで近づいてもなお、一切の反応を示さない彼女に、いくら俺でも違和感を感じる。耳が遠いのかとも思った、目が悪いのかななんて。実際、小学校で分厚い眼鏡かけてた同級生は、眼鏡を取ったとたんに歩くことすらままならくなっていたし。


 しかし、それとはどこか違う。彼女はやはり動こうとはしない。こんなに広い空間で、そこだけが居場所だと言うように。


 少し考えて、俺は肩を叩いてみた。まるで、今気づいたみたいに大きく揺れる肩。恐る恐る上げられた顔には困惑したような表情が見受けられた。


 まぁ、いきなり肩を叩かれれば驚くよな。普通は部屋に入った時点で驚くけど。ここまで近づかれた時点で、怖いけど。


「誰か、いるんですか?」


 目の前にいる俺を無視して辺りを見渡す白石さんに、さすがの俺も怪訝そうな表情を浮かべることを止められなかった。自然と眉間にシワが寄る。これは俺に喧嘩を売っているのか、はたまた別の理由か。


 しかし徐々に不安そうな顔を浮かべ始める彼女に、俺は一つの可能性を薄々感じていた。


「もしかして松川先生ですか?」


 彼女は耳が遠いわけでも、目が悪いわけでもない。寧ろ、全く聞こえないし見えないのではないのではないか。でなければ今の状況に説明がつかないのだ。俺は名探偵、真実はいつも一つ。


「あの……せ、先生?」


 なぜか話しかけても黙っている松川先生、みたいなにんしきが彼女の中で出来上がろうとしているが、俺は松川先生ではない。しかし説明をするにしても、一体どうやって彼女と会話をすればいいのだろうか。そうこうしているうちに彼女の表情は不安から恐怖の色に染まろうとしている。これはやばい。ここまできたら黙って出て行くわけにもいかないし、本格的に通報される前に誤解を解いていかないといけないだろう。


 明らかに自業自得な状況の中、俺はあたふたすることしか出来ない。もどかしい、人と会話をするだけなのに、こんなにも難しいものなのかと改めて感じる。うちのクロですら、目を見れば何となく何考えてるのか分かるのに。


 毎日当たり前のようにしていた"言葉をかわす"とういう事。その方法なんて考えたことすらない。俺は大きく溜息を吐いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ