春の立つ日
お題
「節分」
ひとつ、またひとつ、口へと運ぶ。
しんと静まった午前零時、咀嚼と秒針のデュエット。
無意味につけたお面をひと撫で。
ただ笑顔でいるだけなのに、なぜ怖がられてしまうのだろう。
口内が乾いていく。
瞼を閉じる。耳の裏にこびりついた、音が蘇る。
◇◆◇
いつだって、私にとっては、日常の延長線だった。
「もしかして、これ食べたのあんた?」
からになったプリンの容器を見せつけながら、聞いてくる。
いつもと同じ、平坦な声だった。
「ん? ああ、そうだけど」
「ああ、そうだけど、ですって?」
キッとした目でこちらを見つめる。
それでも声を荒げる様子はなく、ただ淡々としていた。
だから、事の重大さをわかっていなかったらしい。
「別にそれくらいいつでも買えるでしょ」
「それくらい、いつでも買える、ですって?」
「だって、ネットで売ってるじゃん」
「ネットで、売ってる、ですって?」
何度も自分の言葉を復唱されたあたりで、首を傾げた。
「何かおかしなことでも言ってるかな」
プリンだけに、と反射で思うが、プリンはお菓子ではないだろう。
などと無駄なことを考えているうちに、彼女は持っていた容器を床に叩きつけた。
パリーン。
耳をつんざく音。
ピッコロの最高音の方が痛い音かもな、片付けるの大変だな、いやシンバルの方が痛いな、割れたガラスって綺麗だよな、
脳内で誰かが永遠に囁く。
「あ、割っちゃった」
いたって冷静な、重たい声だった。
手を前で組んで、光のない目でガラスを見つめている。
「そう、だね?」
何が起きているのか飲み込みきれず、とりあえず肯定してしまう。
「……私が割ったんだ? 私が?」
目を大きく開けてこちらを見つめる。
「俺は持ってなかったからね、消去法であなたが割ったんじゃ……」
「本気?」
「……本気も何も、見ればわかることじゃん」
どうも、この言葉が悪かったらしい。
彼女は大きなため息をひとつ吐き、その辺に置いてある紙を拾い、ガラスの破片を淡々と乗せていく。
じっと見ると、その紙はこの間渡した、コンサートのチラシだった。
やがて欠片を拾い終わると、ぐしゃぐしゃに包んで燃えないゴミに捨てた。
パンパンと手を払い、汗を拭いながら、彼女はこれまでに見たこともないようなにこにこ笑顔で吐き捨てる。
「そっか、あなたはそんな人だったんだっけ」
この日を境に、妻はほとんど口を聞いてくれなくなった。
◇◆◇
妻に嫌われれば、娘に嫌われるのもすぐだった。
なんなら、娘は元々私のことを嫌っていたと思う。
「パパ、最近ママとちっともお話してないでしょ」
「……バレたか」
「バレるも何も、隠す気ちっともないじゃん」
今年で小学四年生になる彼女は、おやつの醤油せんべいをばりぼりと砕きながら喋る。
最近の子って皆こうなのか。大人びているというか、冷ややかな目をしているというか。
「あのプリン、あたしがつくったのよ」
声が脳に届いた瞬間、記憶の欠片が完全に繋がって、目眩がした。
しかも、『あの』プリンという言い方。これは確実に、娘は妻から既に話を聞いているらしい。
彼女は私が返事をせずとも、話し続ける。
「ママはね、あたしにいーっぱいお話してくれるの。パパ、昔からママが貰ってきたものなんだって食いつぶしていったらしいじゃん。ちょっとしたお菓子だって、転職祝いのケーキだってさ。『あ、ごめん、そこにあったから食べちゃった』なんて言って。ママの気持ち考えたことあるの?」
娘は、妻の淡々とした口調とは違い、抑揚の大きな口調だ。それが子どもらしくて愛らしいのだが、そんなことを前に指摘したら「キモ」の一言で一蹴されたので、言わない。
じゃあ、なんで妻のものは食べ続けたのか。振り返ると、妻のものとわからずに食べているときと、そうじゃないときがある。
魔が差したんだ。なんもかんも上手くいかないと、なんもかんも上手くいってる彼女が羨ましくて。
「パパぁ? 聞いてる?」
「うんうん、聞いてるよ」
「もうっ、そんなんだからいつまでも無職から抜け出せないんでしょ!」
机をびたーんと叩く。小さく白い手だ。
でもその手はもう、無邪気に私を追いかけて来てくれた手ではない。
「いっつもママ怒ってたんだから!『いつになったらあの人、まともな職に就くのかしら』って言ってたんだから!」
彼女の指も十本。私の指も十本。
十本あればなんだってできる。食べることも飲むことも、書くことも読むことも、作ることも、弾くことも。
なんだってできるはずなのに、なんで皆、その指一本だけで、私のことを責め立てるのだろう。
「……なんで何も言わないの、パパ」
なんでだろうね。
何を言えばいいのか、もうずっとわからない。
娘は、その日にせんべいのゴミを「捨てといて」と置いてったっきり、一言も聞いてくれなくなった。
◇◆◇
小学二年生の息子は、くもりのない眼差しで私のことを見つめてくる。
私のことを、まだ何もわかっていないらしい。
「ぼくね、かけ算できるようになったんだよ!」
九九のテストをしたのだろう、花丸の書かれているプリントを見せてくれる息子。
「ぱぱぁ、みてみて! ポケモンずかん全部うめたの!」
ゲームの画面を見せてくれる息子。
「ぱぁぱ、サイゼ連れてってぇ」
くいくいと服の裾を引っ張る息子。
「ぱぱのトロンボーン? ぼくも吹いてみたい!」
嬉々とした表情で、楽器のメンテナンスを覗いてくる息子。
「またえんそう会、連れてってね」
私と手を繋ぎながら、満面の笑みで伝えてくれる息子。
彼の言葉を聞く度、罪悪感が積もって。
彼の言葉を思い出す度、顔を顰めたくなるほど、胸が痛くなる。
「だからね、パパはできた人じゃないんだよ」
「できたひと?」
サイゼリヤに、息子だけ連れていった時に、話そうと思ったことがある。
なんでサイゼリヤか? アルバイトだから、従業員の割引券が貰えるから。
「パパはね、週五日のアルバイトで家計を支えているつもりになっていて、たくさんお金がかかるくせに楽器をやっていて、アマチュアのオーケストラに入っていて、家事も全然上手くできなくて、穀潰しどころかお前はシロアリだって、ママに言われてるんだよ」
「しろあり?」
くりくりした目で、こちらを見つめてくる。
「シロアリ。家の柱を勝手に食い荒らしちゃう虫のことだよ」
「へぇー! ぱぱはものしりさんだね!」
全然話が伝わっていない。伝わっていないどころか、彼の、私に対する印象は、本当に最悪だ。
「ぱぱは、ちゃーんとはたらいてて、トロンボーンが吹けて、ごはんもじょうず! ぼくもね、ぱぱみたいになりたいんだぁ」
頬を赤らめながら語る様子は、まさに『黒歴史』だ。
近い将来、彼は語った言葉を恥じるのだろう。ああ、自分はなんて盲目で、無知で、純粋だったのだろう、と。
◇◆◇
四十六粒、胃に入れた。それでもまだ袋の中には何十粒も余っていて、捨てるわけにいかないから、食べる。
ここにいる意味は何なのだろうか。遠い昔、子供たちを怖がらせるために被ったお面を思い出す。
鬼はなぜ、節分にやってくるのだろう。
がおー、とひとつ大声を上げれば、怖がる様子を見たかったからだろうか。そんなわけないか。
だいたい、そこにいるだけでも怖がられるのに。声なんてあげなくても、「鬼は外」なんて言われるのに。
そう、私は、この家にいるべきではない。
わかっているのに離れられないのは、甘えている証拠だ。
袋の中の豆を、口の中に全て放り込む。噛み砕いて、思い切り飲み込む。それから麦茶を飲み干し、勢いをつけて頭を机にぶつける。
アルバイト先と、オーケストラに、辞める連絡をいれよう。
それから、トロンボーンを売りに出して、どこかちょうどいい山を探そう。
手紙なんて必要ないだろう。勝手に消えた方が、むしろ清々するだろう。
もうずっと、ずっと詰んでいた。
だから、この際、きっぱりやめよう。
春の立つ日、私も絶った。