4.古風なまち
EMINA 10 古 風 な 街
美しかったが古風な街だった。 霧の中、ウィスワ川沿いに紅煉瓦の屋根の城が浮かび上がっていた。
ルネッサンス以来の歴代の王家の城で、二人はなだらかな石造りの登城道を腕を取り合ってゆっくり登った。
エミーナの息が白く煙った。城門をくぐると金色に輝くドームをもつ大聖堂があった。
悠は、中世からのこの国の豊かな歴史を思った。 ェミーナは悠の腕にすがり、若者の温もりを胸元で感じながら歴史の幻想の中に思いをはせていた。
いつの時代にも今の自分たちのように幸福よ、永遠たれと願う恋人達がいたんだろうと。
いつの間にか時が流れ、ほろ苦い出会いの記憶を胸にひめ、辛い慟哭の別れの運命にさいなまれながら人生のはかなさを辿っていたのだろうと・・。
ふたりは、城から広場の古くからのレンガ造りの建物の長いアーチをくぐり、中にあるかわいい置物やこの街特産のべっ甲細工の店を見て回った。やがて旧市街に戻ると、エミーナが石畳に少し歩き疲れた様子だったので、二人は石壁に踊る天使の可愛い板看板のあるレストランに入った。 腕を取り合って地下の部屋に向けて階段を下りると、店は温かな照明に照らされ、石壁とアンテイックな調度が古風な雰囲気をかもし出していた。
歩きつかれて空腹になった二人はロールキャベツとピエロギを頼んだ。そして互いの幸せを願い赤ワインで乾杯した。悠はすぐに赤くなった。 エミーナはいつまでも子供のような悠がおかしくて微笑んだ。ロールキャベツは中にお米がはいっていて悠には久しぶりの日本のごはんのようでおいしかった。
" ふふ・・。 ユウ、美味しい? お酒、そんなに強くなさそうね。
可愛くて素敵なお店でしょ。私の好きなお店よ。ここは16世紀の昔からずっと続いているの。ユウ、何だか古い時代の記憶に彷徨いこんだみたい・・。
貴方はこのお店の出来たむかしの時代に生きているの。ずっとそんな貴方のことを私は知っていて、この20世紀の現在から遠くの時代に生きる貴方を透明な窓越しに無言でこうして眺めている・・。
とても脆くて淡い、でも透明な現実のようなお話・・。
何だか淋しいわね。 ・・いつかまたこの街に来てね。
待っている。
貴方との出会いは不思議・・。 魔法のガラスの向こうに生きている貴方も今のあなた同様、素敵よ。だから、もうずっと一緒にいるみたいな気がするわ。
でも何か、・・窓の向こうの素敵で愛しいあなたに手が伸ばせないように、とても淋しい予感がする。 まだ出遭ってそんなにたっていないのに・・。”
”ねえ、悠、旅のお話して。
あの・・ナディという子、元気かしら? "
エミーナの柔らかな頬はワインでほんのり赤みがさし、綺麗な瞳がきらきらと輝いていた。
じっとそんなエミーナの瞳を見つめていた悠の眼差しが瞬間、宙をさまよった。
そして薄暗い店の白壁に蒼く揺らぐ蝋燭の灯を呆然と見つめながら悠は口を開いた。
"・・・。あれからね、
世話になったドイツ人の牧師にすぐ手紙を出したんだ。 ナディは、・・半年ほどで施設を逃げ出した。
暫く、僕のことを探し回っていたそうだよ。
僕がもう辺りにいないのをやがて理解すると、まるで無気力な定められた運命の元の自分に戻るかのように孤独な殻に一人こもり、食欲も失せ、いつの日かひとりで施設から姿を消したそうだ。
ここに来る旅の途上、牧師の元に立ち寄ってあちこち探し回ってみた。当時一緒に物乞いしていた子供達に聞いても、なぜか消息はない。
あの地域では幼い子供たちは、猫が一人静かに死に場所を選ぶようにして、どこか寂しい場所で人知れず飢えて死んだり、どこかに身売りされたりするそうだ・・。
みんな・・僕が悪かったんだ・・。 "
悠はナディが、添い寝する自分に甘えて安心して眠っていく姿を思い出していた。
ナデイは悠に抱きつくと、マシュマロのように可愛い頬を寄せつけてきた。
やっと掴んだ幸せを二度と離したくないという幼子の本能が悠の首に回した細い腕を通して伝わってきた。
ナデイの鼻汁と温かな涙が悠の頬を濡らした。 幼子にとって人の肌の温もりは何よりも心安らぐものなのだろう。
幸せそうに微笑む大きくて澄んだ無邪気な目を思い出して、悠は涙していた。
エミーナはそんな悠の傍らに座り、若者の肩を抱いた。
少女の優しい胸の温もりが伝わってきた。暖かい肌の何処か懐かしい薫りだった。
"人が生きるって、生の不条理に気づいていくことなのね。"
白い壁にかかる絵を見て何かを思い浮かべるように、早熟な大人の目で17歳のエミーナはそっと寂しく囁いた。
" 私の祖母はね、収容所から生きて戻ってきたの。
言葉を失い、抜け殻になって・・。
ゲシュタポに見つかることを恐れてパリで幼い私の母を、アトリエによく来ていたウクライナ人の医学生の青年に預けたの。
母は今もその医者の父と一緒にウクライナのキエフにいるわ。 私は大学に入るためにこの美しい街に来た。でも本当は、祖母の失われた記憶の痕を追ってきたの。 祖母は幼い時代をここですごしたの。"
“・・・。”
食事を終えると、ふたりは城の南の旧ゲットーのあった場所に向かった。
第2次大戦下に、この国には33万人のユダヤ人がおり、そのうち1万5千人がこのゲットーに収容されていた。しかしナチの侵攻によりこの人口も数年後には10分の1に減ったといわれている。
当時の悲惨な記録をとどめる記念館となっているスタラ・シナゴーグという教会をふたりは訪れた。
ほんのりと赤みをさしていたエミーナの可愛い頬も、今はもう悠の傍らで雪のように白く醒めていた。
宙を見つめる瞳は、未知の遠く悲しい過去を彷徨っていた。
悠はエミーナの腕をしっかりと抱いた。エミーナは柔らかな身体をそのまま悠の方に預けた。
その夜、恐怖と寂しさの影を互いに拭いあうようにして、ふたりはベッドで激しく愛し合った。
エミーナは次の日、悠を人気の無い不条理の場所へと誘った。
朝からエミーナは放心して、いつものような少女の輝くような明るさは無かった。
目の前の少女の優しい微笑の中に、自分には入り込めぬ深くて暗い世界があるのを悠は寂しく思った。
そのふたりの避けられぬ心の溝を、今こうして列車の座席に身を寄せ合って確かな少女の体の温もりを強く感じとることで必死に埋めようとしていた。
エミーナはそんな悠のしぐさをいとおしく思い、細く白い掌を悠の頬に当てて微笑んだ。
列車は1時間半ほどでオシフィエンチムという、うら寂しい駅にたどり着いた。
第二次大戦中にはさらにここから1キロほど先まで線路は二手に分かれて伸びていた。
右も左のどちらでも同じことであった。
そこで降り立った多くの人々には、二度とそこから折り返して戻ることの無い終着点であったとされている。
ふたりはバスに乗って、かつての長い塀のゲートのところまできた。 "ARBEIT MACHT FREI "(労働は自由へとく)・・、と粗末な鉄枠で文字どられたその門の先には、赤レンガのいくつかの棟が並んでいた。
悠は体に鋭い痛みを感じると、なぜか不思議な金属が焼けるような匂いがするような気がした。
若い悠は、ここに来るまでは、様々な憶測が歴史の裏舞台にあるのをどこからともなく聞いていた。ここで虐げられた民族の末裔が何故今、翻ってあのパレスチナの地でアラブの人々を憎悪し、蹂躙し続けなければならないのかと・・。
この収容所に言い伝えられている悲惨なできごとを正面から見据えることに躊躇し、悠はここを訪れるのをじつは最後まで躊躇っていた。 でも、そこには因果関係はなかった。
唯、当事者が入れ変わっただけであった。
虐げるものと、虐げられるもの、 殺すものと殺される者の論理のみが、今もまだ、立場と悲劇の舞台を変えて生き残っていた・・。
どうやら歴史は繰り返しているようだった。
歴史を創り出すのは全て、不完全で悲しい人間のさがであった。でもその歴史の存在に翻弄され、たった今、悠がいきるこの時代に実際に傷つき殺されていく数多くの人々がいた。
戦禍の中、いつもきまって罪も無い幼い子供達が毎日のように犠牲になっていった。
悠は、いつか聞いた武術家の老人の言葉を思い出していた。
" いいか、鶯。人を傷つければ、人はその傷を心の傷として残すことになる。お前は次にはその痛みを
いつか忘れた頃に何処かで追体験せねばならぬ。
・・人の世の争いとはその憎しみの連鎖じゃ。
その憎しみを煽って私腹を肥やす輩がおる。真の悪とは、地の底から生まれいでたそやつの無明の心性にある・・・。我々は、そやつらが作った巧妙な歴史的舞台の劇場の上で踊らされている。武術とは人を効率的にあやめるためのものではない。生死の境目で無限の宇宙の摂理を背景にして、絶対的に敵に優位に立つことで、我が愛する家族、同朋を守り、さらに本来同じ命ある人として同朋であるべき敵の争いの心をそいで、許し、互いに共存していく道を見出していくことだ。
やがておまえも様々な邂逅を経て、人としての崇高な霊性が内に目覚めはじめたとき、我々が翻弄されている悪魔の劇場が、じつは影絵にすぎぬことが見えてくる・・。"
夕暮れ時の、うら寂しい赤レンガの収容棟の前で、しばらく物思いにふけっていた少女がふと囁いた。
"私、一人で何度もここに来たわ・・。
晩年の祖母の悲しそうな目が、
この門の前にに立つと今も思い起こされる。多くの人が、神に選ばれていったのね・・。"
美しい少女のうなじの後れ毛が芳香を放っていた。
悠は門を見てそっとエミーナの肩を抱いた。
" 人って苦しんで生きる定めにあるのかしら。
シーシュポスの若者の神話、・・知ってる?
・・辛く、理不尽な生。
でも、今の私には貴方がいてくれてそれだけで幸せ。 "
ここは、エミ-ナの祖母の収容されていたナチ強制収容所だった。
祖父はここで亡くなった。 人の邪悪で冷酷なさがを廃墟の中に悠は感じ取っていた。身が凍りつく思いだった。事実は否定できなかった。
この国の石畳は、日本の若者にはやはり限りなく冷たく硬かった。
列車に乗りついで夜遅く二人は、今は愛の巣となった温もりのあるいつものアパートに戻り、ベッドの上で何度も愛し合った。
エミーナは悠をいとおしく思い、何度も燃え尽きるまで抱かれ、むせび泣いた。
自分の逃れられぬ孤独を分かち合える人ができた思いがしていた。
悠は、乱れた栗色の髪のなかで紅潮した少女の熱い涙を、唇でそっと受け止めた。
まるで時間が止まったかのような中世の鐘楼の鐘の響きのなかで、エミーナとの時の歯車はゆっくりと回っていた。
あと数日ほどでもう日本に帰らねばならなかった。
14世紀に創立されたというエミーナの通う赤レンガの大学にふたりで行くと、厳かな講義棟で並んで講義を受けてみた。
言葉は分からず、内容をエミーナに英語に要約してもらった。短くとも充実したふたりの幸せな日々だった。
EMINA 11 夜 の パ リ
暮れなずむ秋の冷たき夕陽を追う金色の渡り鳥の群れ。
開け放つ窓に遠慮がちに舞い入る枯葉。
陽光の下 美しき紅き命のかけらの舞う公園のベンチにて
肩を抱きとわの温もりを確かめあった
銀色の秋の夕暮れ。
ふたりの足元には柔らかく薫る紅き絨毯。
ちょっとした長旅から疲れてアパートに帰ったふたりは
そのままベッドで倒れこむように眠る。時間が惜しかった。
一緒にすごせる時間がもう限られていた。 最後の晩だった。
悠は、いつかこの街に留学して二人でゆっくり
心行くまで学生生活を送りたいと思った。 悠の夢が一つ出来た。
一本の蝋燭の灯にともされて、向こうからエミーナの細く美しい
からだのシルエットが近づく。女の影は熱いカップを悠に手渡した。
" いつか貴方の命を救ってくれたお茶よ。"
悠は、微笑んでカップを女の細い指から受け取ると、一口すすった。
温かい慈しみの芳香と甘酸っぱい切ない愛の味がした。
森の精が結び付けてくれたエミーナとの出会いに悠は感謝していた。
悠は、三本のマッチを出すと、音を立てて擦る毎に、最初の
一本は少女の顔、・・次の一本は瞳、・・そしてさらに一本を唇
と、ゆっくり順に照らしていった。
暗闇に煙の匂いだけが残った。
そして最後に、こう女の耳元に囁いた。
"最後に残った暗闇は、・・君の全てを思い出すため。"
女は微笑んでいった。
"・・プレベールの '夜のパリ' ね。素敵。"
"・・この腕に君を抱きしめて。"
悠はお茶を傍らに置いてそう云うと、女の身体を腕でそっと抱き寄せた。
男の温かな胸の中で、女は小さくささやく。
"ユウ、素敵な想い出ありがとう。
・・この街は美しいけど、一人の夜は嫌い。
何処までも深く暗いの・・。"
エミーナの身体はわずかに腕の中で震えていた。 悠は言った。
"いつかパリに行こう。そしてふたりきりで夜のパリをすごそう。"
"・・嬉しい。" エミーナは悠の唇にキスをした。生きた
熱い女の涙が暗闇の悠の胸に滴り落ちるのを感じていた。
エミーナは翌日、悠を空港のある駅まで見送った。
最後の数時間までふたりは電車のコンパートメントの中で寄り添って互い
の切ない温もりを一分一秒、感じあっていた。
悠は女の胸の温かみに癒され、
女の首筋の薔薇の甘い香りに酔っていた。
"悠、・・お手紙、頂戴ね。 待っている。"
"・・うん、言葉を覚えて、君のことを想って書くよ。"
エミーナは栗色の柔らかな髪を上げ、細いうなじから
金のネックレスを両手で外すと、悠の首に廻してつけて微笑んだ。
両手をそっとあげた女の脇は白く、昨夜の甘い香りがした。
・・・
瞳に映る白き雪の花舞う遠景色、
柔らかく温かな膝の上白き君の掌を握る。
細き肩で寄り添う君の香しき白き頬に一筋の涙滴る。
甘酸っぱき透明色のあの日のレモンのしずく。寂しく蘇る遠き夏の日の出会い、
薫風の如く爽やかに時は過ぎ、流れゆく汽笛の中ピンと張る雪の切なき香り。
別れの朝、淡い吐息とともに暖かき君を抱く
夜明けの車窓には、紅に染まる君の頬の涙と雪化粧。
" ・・ 悠ちゃん、何だかいい顔してたよ。
好きな女のことでも思い出してたのかい?
悠ちゃんの今の目、・・美奈も気に入るかもね。"
マスターの笑いに、悠はさび付いた切ない回想から我に返った。
店内は、静かなピアノの音が悠の幻想を猶もくすぐるように流れていた。
悠は、金属の着火音とともに、いつものラクダの煙草を一本火を灯した。
赤い光が暗い店内で悠のかすかにくぼんだ顔を浮かび上がらせた。
"・・そんなんじゃないさ。 美奈が来たら、これを渡して。
、・・今日はこれで。"
マスターは悠から受け取った文庫本のネルーダの詩集を、にやりと
悠ちゃんらしい・・といった表情で一瞥した。
そして、棚に並んだ10数種類のスペイン語表示のコーヒー豆缶の列にそっと並べた。
美奈が、自分でそれと気づいて手に取れるよう、そんなマスターふうの置き方だった。
悠はマスターに笑みを返し、氷で薄くなったコーヒーをそのままにして店を出ると、
もう空はオレンジ色の陽がビルの谷間に降りかけていた。
悠は、煙草をくわえたまま、眩しそうにしばらく夕陽を見やると
そのままコートの襟を立ててどこかへと立ち去っていった。
そんな旅慣れた悠の後姿は、どこかの異邦人のそれだった。
金色の枯葉も舞い散り、東京の秋も終わろうとしていた。
EMINA 12 悠 青 春 Ⅱ
当時年間ほんの数万ですんだ文系の国立大学の学費と家賃は父親の仕送りに頼ったが、そのほか春休みなどの長期休暇を利用して、悠は若きゲバラばりの貧乏旅行を決行する為の資金を、夜間の道路工事の肉体労働で貯めた。旅の為の体力を養うこともできて、おかげで昼間の大学の授業中はぐっすり眠れた。
"おい、そこの・・気持ちよさそうな音を立てている奴・・。外の中庭で寝てきなさい。天気もいい・・。"
かくして、時々いびきをかいては教室をつまみ出されたりもした。悠をよく知る教官はそんな若者の無邪気というか、無鉄砲さをほほえましく思い、生身の若者の旅の話を教室で話させては微笑んでいた。そして時々様々若者向けのな問題提起をしてきた。
"で、・・・君はそれを見てどう感じ、どう行動しようとした?
そのまだ未熟で風通しのよさそうな頭で、・その背景をどう君は理解している?
恵まれた学生の身分で、ただ傍で呆然とそうやって見ていただけかい・・?"
"・・・。"
問われた質問の本質もつかめずに返答できず、だだっ広い教室の真ん中で木偶の坊のように突っ立って、皆の視線の中、白髪の教官の前で只手も足も出せずにいた。
悠は関連する本を後ほど教官に教えてもらって図書館で捜し読んだ。本を買う金はあまり無かった。教官は、ああ、これあげるから大事にしなさい・・。などといって貴重な絶版本などをこともなげに、少しは純粋で見込みのありそうなこの若者に手渡してくれることがあった。
" 試験までには帰ってくるんだぞ。私の授業の単位は君の旅先でのレポートだ。何かテーマを決めてそれに沿って体験をまとめてきなさい。君のような変わり者は学校に出るより、多くの書籍を読んで、外に出て行って学んだほうがよっぽどいい。・・物になるかどうかはわからないが。ハッハッハ・・。"
若い悠には、この白髪の教授は不思議な魅力を持つ人だった。きっと彼も、自分自身の両親や、あの旅客機で出会った紳士のように若い頃、海外をひとり旅してまわり、旅先で色々とものを思い一人頭を悩ませたに違いない・・、などとかってに考えては納得した。
アルバイトの後の残りの時間はせんべい布団の中で汗と泥にまみれたまま、もらった本を読んでみようと試みてみた。感謝しながらも若者には難解な古書はいい睡眠導入剤の価値しかなく、毎晩ほんの少し読み進めれちょっとはためにもなったと思えた。深夜のバイトで銭湯にも間に合わず、大学のサークルのシャワー室で石鹸を持参して身体の汚れを落とした。そしてまた本を読んだ。
ジャンルは、経済から文学、世界史、外国のかなりきわどい恋愛小説にまで、何でも読んだ。中でも若い悠にとっては最後のがやはり必読書だった。時として高い芸術性をそこに感じ取れることもあった。
そんな盲目的なロマンテイシズムに取り付かれた、どこか純粋で孤独の影を漂わす若者の優しい瞳に思いを寄せる女子学生が周囲にちらほらと現れては消えていった。あの夏以来、悠の中には東欧に残したエミーナだけしかいなかった。 健康的な美しさを持つ理知的な日本の女子学生がそれらしい眼差しで悠に近づいてきても、傷つけない様、いまの悠にはそっとその娘の情熱の矛先をそらすしかなかった。