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EMINA   作者: リュウザキ ユウ
1/4

1.美 奈

あるフリーのフォトジャーナリストの写真展が、銀座のギャラリーで催される。女は、意を決して最終日に作者不在のその会場へと向かう。そこで、女は、自分が愛したその男の人生の物語を、作品の中から詩の隠喩を読み解くように、深い悲しみを伴って感じ取っていく。

E M I N A



EMINA  時を越えた4つの絵物語  


Prologue


Mina' 2004  秋



艶やかに舞う白い陶器の欠けら

ゆっくりと砕け散る時のはざま

曲がりくねった狭い石畳

周囲を閉ざす壁に

夏の鋭利な陽光と漆黒の闇が

溶け込むように交錯する

あたりに反響する軽いエナメルのハイヒールの足音

宙を潤す女の吐息


Paris 午後2時22分、乾ききった白い翳

風に舞う汗と香水

時が凍りついた銀の懐中時計


石造りの建物の影に覗く異邦人の男の目

レモンの一しづくに込められたミューズの薫り

そして遡りゆく時と、 神々の悪戯・・




黄金色の秋も終わりに近づく或る日の夕刻、

枯れ葉舞う公園の遊歩道。女は暮れ行く夕陽に照らされ、

柔らかなベージュのウールのコートに身を包み、

銀座の小さなフォト・ギャラリーに向かっていた。

女の中で様々な想いが巡っている。

ある男の個展の最終日だった。

自分の青春に温かな彩を添えてくれた

ただ二度とはそこに戻ることの出来ない

そんな大切な日々の記憶であった。


銀座の大通りを一歩入ったギャラリーの1階は広い窓の落ち着いた喫茶室になっていた。 若い学生風の男女が窓際で楽しそうに談話している。

背後に微かな人の気配を感じ取って若者が振り向くと、辺りには誰の姿もない。一瞬、薫るような妖艶な女の余韻を感じ取りながら、再び連れの女性と話を始めた。


女は一人エレベーターをあがり、暖かなホールに入った。

ギャラリーは少し薄暗く落ち着いたクラッシックの音楽が流れている。

受付でペンをとると女は、どこか異邦人の震えた筆跡でkunzと記された次の行に、


 尾関 美奈と署名した。



若い受付嬢は、不思議な巡りあわせを感じ取ってか、一瞬はっとその女の瞳を見つめたが、

そのまま何も言わず優しく会釈した。

 

美奈はそっと微笑んだ。

この個展の主が遠く待ち望んだ客であり、彼の描く真実の絵物語の大切なヒロインの一人でもあった。


語りつくせぬ深い物語を内に秘める美しい女の素顔だった。

ウールのコートを脱ぐと黒のシルクのミニのドレスだった。

薔薇の香りが漂った。すらりと伸びた美しい素脚は

薄いブラウンの網デザインに覆われている。

しっとりと落ち着いたホールに、人の心の琴線に触れさせる様な

一筋の神秘的で清楚な花香を添えているようだった。


美奈は淡い照明に照らし出された男のプロフィールと写真の前に進んだ。そしてしばらく写真の中の男の目を見つめ、バッグから薄いピンクの絹のハンカチを取り出すと小さな形のいい鼻元に添えた。

細い指で女はブラウンのサングラスを外した。

茶色の大きな美しい瞳は潤んでいた。

充血した目でもう一度、放心するようにして男の瞳の奥を探った。



ホールにはカッチー二の“アベ・マリア”が静かにながれている。

やがて女はゆっくりと歩きだし、壁に貼られた作品の

写真のパネルに次々と吸い寄せられるようにして

エナメルのハイヒールの細い足を進めていった。


寂しそうな目で微笑む一枚の少女の写真があった。

 “ 1988 'Sueno ;Salvador ” とある。 

見覚えのある写真だった。忘れもしないあの日、

女には入り込めぬ孤独な男だけの空間。夢幻の物語の中に

哀しげな表情で彷徨する男の横顔。空しく宙を揺れる蒼色の煙・・。

一本の煙草の火の残る灰皿の傍らに、その少女の写真はあった。

Sueno・・スペイン語で夢。

少女がその小さな微笑の先に想い描いていた夢。

男の目はその少女のいたいけな思いをその笑顔の中に追っているようだった。

やり場のない無力感に打ちひしがれ、男は眉を寄せ、背を丸めていた。

もう若くもない男の銀色の髪がうつぶせた額からこぼれ落ちていた。

写真を大切そうに挟むのは、小麦色の細い角ばった指だった。

テーブルにそっと少女の写真を置くと、男は一人ため息をついた。

原稿を手にした男の日焼けして締まった腕には一筋の古い傷跡がある。

美奈は男には気づかれぬよう その淋しげな横顔を瞳を潤ませ

切ない思いでじっと見つめていた。


男の撮った戦禍の村の貧しい人々の表情は、どれも何故か生き生きとしていた。


 苦しみの表情の中にも眩いばかりの命の光が燦然と輝いていた。身なりが貧しいが故にその瞳の輝きは一層輝いていた。或るとき

は辛く鋭く、或るときは土中に眩く宝石のように美しかった。

その光は今生きる人の現実のありのままを語っていた。 

美奈には、ファインダーを覗く作者の瞳の奥にある苦悩が、

今も痛いばかりに胸に伝わってきていた。

男の目のとらえた写真の一枚一枚には、

男の描く‘真実’という名の鋭い写実性と物語性があった。


金髪の美しい白人女性が、片腕をなくした現地の女の子を

手当てしている写真。後ろで束ねた金髪が、眉を結ぶ額の上に数本こぼれ落ちている。女の優しい眼差しに少女は少しはにかんでいた。

 女は白いブラウスを汗で濡らしていた。孤高な使命感に燃える女の、飾り無い綺麗なエロテイシズムが

一枚の写真の中に醸し出されていた。


その同じ女性が、硬く緊張した表情で、整然とビルの立ち並ぶどこか人工的な清潔さの感じられる前世紀風の異国の街並みを、場に不釣合いな端正な身なりで歩いている。 張りつめた空気の中、女の青白い横顔の奥に隠された義憤とある種決意の表情を写真はとらえている。 

1989' Maria  Santyago   とあった。


醜悪な目の警察部隊の男が振り下ろす警棒を、素手で防ごうとする

若い学生。 顔は恐怖に歪んでいた。雨に濡れた石畳の匂い・・。


カービン銃の銃口をこちらに向け、口元には不敵な笑みを浮かべ、引き金に指を入れる瞬間の氷のように冷たい警官の目をズームで捉えた一枚。


プラカードを腕に抱き、前方を見据えるジーンズ姿の長髪の女子学生。

力強い捨て身の意志を感じさせる静かに固く結んだ唇。

放水車に追いまくられ、警棒に殴りつけられ、傷つき検挙される大勢の群集・・。 写真のピントは逃げ惑う人々を追って所々ぼやけている。

混乱の地獄絵の中に、先ほどの金髪の白人女性の姿が微かに小さく光るように捉えられていた。


・・そして何故か写真はそこで途切れていた。



 灰色の空を背に浮かび上がるチェルノブイリの原子力発電所。

修復された4号炉のセメントの外壁のモノトーンの大きな写真に続き、どこかの病院の子供たちが何枚かに映し出されていた。

冷えた病室のモノクロの光景にどの目も寂しげで、哀しいまでに肌は無垢に白く透き通っていた。

幼い手に抱かれた子馬のぬいぐるみの目が寂しい。

女の子たちの多くは首筋に同じ一本の手術の跡が痛々しく残されている。

花咲かんとする若く美しき樹に、黒く錆び付いた運命のくさびを打ち込まれるかの様にその後の辛い未来を予感させていた。

髪の毛の無い小さな男の子が、一生懸命に青白い頬でカメラに笑顔を作ろうとしていた。


白い雲の映る民家の窓から、呆然とした目で遠くを見つめる女の

印象的な写真があった。柔らかに風になびく草原と一軒の家。

“ 1987' 無題 kiev ” とある。


 その同じ家の中には一枚の女の青色の肖像画と

若い女性の写真が額に入れ白い壁に並べて貼ってある。




砂漠に咲く一輪の花。

冷たき11月の風の吹きすさぶ最果ての村。

先頃迄の人肌の温もりの残る 今は主人の居ない家。

窓際に取り残され 全てを知り尽くす子馬の縫いぐるみの悲しげな眼差し。

灰色の砂塵と伴に消え去る人の愛の絆。

廃墟の村に残る寂しき一輪の花・・。

炎に燃え紅き血の色に染まったあの夜の白き無垢の花。

嵐と伴に去りゆく君の熱き涙の面影



絵の中の女の瞳は、先ほどの白人女性の眼差しに漂う、今壊れ散らんとする青磁の薄い陶器の様な不安定で可憐な美しさと、どこか重なるものがあった・・。


 黒のスーツ姿でサングラスの異国人の老人がソファに座っていた。そこには女の肖像画を中に映し出した大きなパネルが二枚並んでいる。 皴にまみれた額にかすかな傷のある白髪の老人で、厳かでもあり石と化した亡霊のような冷たい存在感をその絵の前で漂わせていた。


 


 写真パネルの中の一つの絵は、背景は煙草の煙のくゆるパリのしゃれたカフェ。

そしてもう一つは、何処か血のように紅いラテンの花咲き乱れる屋敷.パテイオに向け窓を開け放たれた寝室のようだった。


順に並べられた写真パネルの中の女の肖像画は、同一の人物像ながら

‘青’、’緑’、’紫’と基調の色使いがそれぞれ異なっていた。


妖精のように澄んだ瞳は天を仰ぎ、生きているかのように今跳びたたんとする裸婦像。

背景には薄っすらと螺旋に渦巻く黄金の炎が女を取り巻いている。


それぞれに異なった背景を伴って並行する数奇で宿命的な物語の予感をその黄金螺旋は漂わせていた。



 作者は何故、この3つの絵の入った大きな写真パネルをここに並べるよう指示したのかはもはや謎だった。


 その刹那、先ほどの石のような異邦人の老人の光る視線の気配を、美奈は背後に感じ取った気がした。


 


 美奈の心の中に、男の人生を賭した永く辛い伝言が、白豹の姿となった男の咆哮で、雪崩のように氷解しはじめた様な気がして、胸が熱くうち震えていた。自分に宛て時間をかけ一枚ずつ手渡されてきたハメ絵の絵札を、全て結びつける秘密の鍵を、天界に彷徨う豹の姿を借りて目の前に突然投げ与えられた様な、そんな鳥肌立つ瞬間であった。男の小さな囁きが、美奈の白い耳元に何処からか聞こえてくる気がしていた・・。

  


" 貴方の為に一輪の’希望’という名の白き花を

窓際に飾りましょう。

時々、思い出してくれたのなら

温かな心の目でそっと窓を見上げてみてください。

あの日々の偽りなき愛の証、明日の貴方の幸福への祈りを

その一輪の小さく白き契りに込めましょう。

姿は見えずとも思いは貴方の為の真っ白き一輪の花・・。

貴方と伴に過ごしたあの聖夜

暗闇に静かに降りしきる雪を待たずして

この窓から花が消えたとき、

それは仄かな薄紅色の魂の灯が

真っ白き貴方の為のこの体と伴に消えるとき・・。”




" ・・それならば、僕は紫の可憐な忘れな草をこの便りに添えましょう。

瞬く星の輝きに包まれて、とわの愛を契った

異郷の地の、懐かしきセピア色の夕暮れ。

遠くより打ち寄せる静かな波の音と薄紅色の小さな貝殻。

海辺の白い砂をゆっくりと踏む二人の裸足の指の温もりの記憶。


僕は海辺で涙ににじんだ君の命の手紙を読んでます。

一輪の可憐な紫色の花と、遠き星と輝く君の面影・・。”


どこか東欧の街の、枯葉を敷きつめた石畳の街路樹。

時の止まったかの様な厳かな風情の大学のキャンパスの中庭。

楽しそうに会話して歩く若い男女の学生達の艶やかな表情。

 

 そして、それとは対照的に、冬の郊外 沼林の濃い霧に浮かび上がる錆付いた鉄柵。それは重々しい煉瓦造りの建物を遠くまで取り囲んでおり、その先に硬い鉄門がある・・。薄っすらと遠くの煙突に煙の上がる影が見える。夜の霧の中、温もりの無い人いきれのする灰色の廃墟。


生の不条理を象徴したかの様に

無機質で濃淡の激しいモノクロの写真だった。




 先ほどの黒の老人の姿はもうなかった。



 美奈はため息をついた。写真の一つ一つに、苦悩と愛、

そして真摯な命の通った男の熱い視線を感じ取っていた。

しばらくそうやって立ち止まっては身を震わせ、

写真の前に吸い込まれるように、眉を細め作品に見入った。

パネルにはどれも題名のみで何故かコメントは記されてなかった。


夕陽に照らし出された赤い橋の欄干に

一羽の鳥が止まり

じっと遠く高く煙る山々を見ている。

その橋のたもとには白い可憐な花々が咲き乱れている。

どこか、エキゾチックな心休まる風情を感じさせる写真・・。



女の熱い息づかいを感じさせるハイヒールの足音が、

一歩一歩、人のまばらになったホールに静かにこだましていた。


 美奈は一枚のパネルの下でしばらく立ち止まると、

目頭をシルクのハンカチでそっと拭った。  


“ 1999' Mina  ‘ 透明 ’ Rio ” とあった。


 そこには肌の色のまちまちな子供達と一緒に幸せそうな笑顔を送る

一人の小麦色の肌の若い女の姿が映しだされていた。

温かき青春の日々。若く麗しき美奈だった。

幸せな美奈の笑顔の向かいには

あの日の優しい男の眼差しがあったはずだった。


 

そしてパネルはやがてアフリカの赤い大地の難民の写真へとつづいた。

それと少し距離を置いて 黒人の子供達が身の丈あまりの自動小銃を背負って歩いている。

一人の少年が悲しみと絶望の入り混じった身震いさせんばかりの

怜たい視線をこちらに送ってくる。この世のあらゆる悲惨を一身に抱かえるとこんな目になるのだろうか・・。

 

中東の戦災で破壊されたビルの瓦礫で茫然と頭を抱えている男の像。


バグダッドの小児病院に収容される髪の毛の無い幼い子供達の、言葉にならぬ何かを訴えかける目。 罪の無い透き通った無垢な瞳の中に、人はどう振り払っても拭い去ることの出来ぬ哀しみ、人の世の底知れぬ不条理の陰を見る。 その虐げられた幼い姿を見守る母親の苦しげな表情。 その横には、モノクロでどこかのキリスト聖堂と、朽ちた聖母マリアの像の写真・・。 美奈は、しばらくそこで足をとどめハンカチで目頭を押さえた。


そのままゆっくりと足を運ぶと、そこには、一人の粗末な身なりの東洋人の男が、静かに印象的な瞳で遠くを見据え、小さな傷ついた幼な子を腕に抱いている写真がぽつんとあった。

 世界中の何処にも共通する、人間同士の争いによって生まれる生の不条理と悲惨を伝える写真で長いパネルは終わっていた。


"Fin de la guerr"  とあった。"争いの終末”

・・とわに見果てぬ夢。

作者はこの言葉の中に何を伝えたかったのだろうか。


美奈は、ホールの窓から、夜の銀座のネオンの

街並みを、少し頬を紅潮させ、潤んだ目で眺めていた。

楽しそうに若い恋人達が、腕を組んでどこかに向かう姿に、

この国の見せかけの平和を思った。でも、ここには彼らの関わり知らぬ

真実の真っ白な画布に揺らぐ、淡い‘命’の色をした絵物語があった。

 

 ギャラリーはいつか、聴き覚えのあるしっとりとした

ブラジルのショーロの曲が流れていた。

男の優しい影が自分を迎えてくれているような気がして

美奈の目に思わず涙が溢れた。


 美奈はここに来るのを、今日まで躊躇っていた。

主人の不在のままの個展の最終日であった。

でも、美奈は来てよかったと思った。 しばらくは眠れぬ夜が続き、

辛く切ない回想の夢に苦しむことになったとしても・・。





男の奥深くに暗き銀色の琴線を求め、爪弾く女の白き指。

空白の記憶の波間に熱海の嵐のうねりが注ぎこむ。

怒涛の如く飛散し、虹と消える熱き時の滴。

幻にたゆたう黄金色の調べは、ひととき、

青銅の戦士を永遠の憎しみの宿命から解き放つ。

血と哀しみと命と引き換えに 鎧の下に息づく空しき傷の勲章。





   1 美奈 ’1999


 

 美奈23歳。 龍崎 悠が始めて彼女を見たのは、

都内の或るジャズのライブハウスだった。恵比寿の

悠がいつも原稿を届ける出版社の社屋の裏手にあった。

ツタの絡まる煉瓦造りの古い洋館風の店が

緑の多い公園の前にひっそりと佇んでいた。


東欧のある古い大学街で悠は若い頃を過ごしたことがあった。

街外れの森に入る道脇に、今は廃屋になった古びた小さなホテルが一軒ぽつんとあった。

悠は、そこを通りかかると不思議な懐かしさに誘われた。窓からは温かな薄明かりが漏れるようで、今はセピア色になった切なくて美しい、かつてそこで過ごした人々の大切な物語を語りかけてくる。

昔から何一つ変わらず、静かに柱時計が時を刻み続ける。愛すべき人々の語らいを記憶するように・・。


悠は、煉瓦造りの店の前に立つと、若い日に出会ったその街道の廃屋の幻をいつも重ね見ていた。


ビル・エバンズの落ち着いたピアノの音が

オレンジ色の暖かい灯と一緒に窓から漏れ出ている。ふと夢から目覚める。

悠はここのマスターの気取らない気安さがよくて、

タバコを吸い、原稿を眺めて、半日も片隅の席で過ごすことがあった。

  

暑い夏の昼下がり、海外から久しぶりに日本に戻った悠は、紺の麻のジャケットを腕に掛けて、精悍に日焼けした顔でいつもの様にオレンジの灯の漏れる店に入った。黒い髪には銀色の筋が所々混じっていた。悠は東京にいても異邦人のような落ち着きの無さを覚えていた。40も過ぎて、その男の表情には、ある種の諦念の暗い影がしみつき、いっぱしのボヘミアンを名乗っても今はもう恥かしくは無かった。跡形も無い旅の空白の彼方に、人知れず唯一人の男の真実の時間が過ぎ去ろうとしていた・・。


 入口の黒塗りの木戸には、どこか南洋の綺麗なピンクの貝殻の装飾が掛けてあった。その涼しげな音色を放つドアをくぐり、マスターの笑顔に迎えられると、久しぶりに悠はほっとした。


"いらっしゃい。"  少しかすれた若い女の声だった。

初めてみる美しい笑顔だった。

アルバイトらしい。優しく微笑みかけた女の

その彫りの深い顔の瞳の奥に、悠は何か懐かしいものを感じていた。

女はどこか端正で気品ある日本の女の顔立ちだった。


翳りのあるその表情には、危険で脆いどこか官能的な趣すら感じられ、透き通る白磁の陶片の様に危うげな艶やかさを漂わせていた。

悠は澄んだ女の茶の瞳の奥深くに、ほんの二十代か三十の始め頃、放浪先の東欧か中米で見た少女の消え入りそうに悲しい瞳の輝きを重ね見ていた・・。時を越えて重なり合う蒼い棘をもつ痛ましい紅い薔薇のあの芳醇な香り・・。香りは辛い記憶を瞬時に鮮明なまでに立体像へと結晶化させる。

 

映像は突如フラッシュバックのように時空を超えて襲ってくる。

こんな鮮明なデジャ・ビュの経験は久しぶりだった。

悠は女の顔にじっと見入ったまま、その微笑の奥にある

深い憂いの匂いを、さび付いた記憶のガラクタの中に求めていた。


あの頃は俺も若かった・・。 とんだ怪物を相手にして、世間知らずの蒼い正義感で、ドンキホーテよろしく果敢にも驢馬のロシナンテの背に乗って、ひとり巨悪に立ち向かっているつもりでいた。襤褸布ぼろぞうきん

の様に無様な今の自分の風体からはお笑いぐさだが・・。


無鉄砲さは若者の特権である・・、とは誰の言葉だったろうか。

その極みにまで当時の若い自分は浸りきれていたような気がする。

いつの間にか歳ばかり重ねてきてしまった。

筋骨の衰えた老馬が蒼い奇声を発して

無鉄砲に・・戦火の野山を走り回る図は、どう見ても絵になりそうもない。


あのころの自分の蒼い純粋さが、今の悠には何故かいとおしく、懐かしかった。陽に焼けた悠の頬を撫でるように

何処からともなく流れ込む片隅の席の隙間風が無性に淋しかった。背後にはマイルス・デイビスの曲 ‘ My Old Flame’ が流れていた。

ジャズの名盤は不思議なものである。何度も聴き返すうち演奏者の魂の息吹が聴く者の琴線に深く触れてくる。時を超え、温もりのあるその調べは、孤独な今の悠の感性に共鳴し、深い心の傷痕を癒してくれているようだった。 

 痛み疲れた背筋に、通りすがりの女の温かな吐息がそっと一筋こぼれ落ちるような、そんな中途半端な心地よさに悠は一人酔っていた。 現実世界でない、いつか何処かでともに過ごした女の 仄かな愛しく切ない印象だった。

 

今にして想う・・、我が過ぎ去りし 時の香り・・。


悠は日焼けした腕に浮き出た幾筋かの切り傷の痕をもう片方の指でなぞってみた。遠き昔に残してきた男の身を賭した戦いの炎の翳。その鍛えた小麦色の腕も、愛する大切なものを最後まで繋ぎとめておくことは出来なかった。そのたびに又一筋、忘れがたき灰色の傷跡が男のその腕には刻まれていった・・。

 

 

悠が旅先での護身術代わりに、学生時代こっそり始めた

日本の伝統武術は、途中で途切れることもなく

その修行はもう二十数年にも及ぼうとしていた。

 まだまだ未熟だった。身を切るような孤独な緊迫感の中に

自己を追いやることで、一筋の霊的直感を生死を超越した所でうる

事をその本来の武術修行の旨としていた。 ひとり山に入り、悠は、風に溶け、木となり、そして霊気と化した透明な自己と対峙した。


実を捕らえ虚に入ること無風の音の如し・・。

 

現実の世界の自分と、霊気の中に生きるもうひとつの自分・・。今という現実を、心に生きる時空を超えるもうひとつの世界の自分が

静かに眺めることで、この世という仮の姿形を留めたまま、そこに大切な存在の意味を知ることができる・・。

ちょうど、過去に起きた出来事の数々が、今になってどれ一つとして無駄のない、自分にとっての大切な意味の鎖として繋がっていくように。


多世界解釈と言う考え方がある。

数限りない無数の可能な世界のうちの一つに、

自己の意識をフィルターにして、今現在

こうして自分自身が存在するというものだ。

別の世界には、別の自分が、別のやり方で

別の可能性を生きている。


自己の存在の可能性は、過去にも未来にも無限に広がっていく。

ただ、悠は長年の孤独な修行の中から、

そして過去の全ての縁ある不思議な出会いの中から、

ひとつの確信をえていた。


どんな可能性も、たった一つの自己の意識を通じて

時空間を越え、今ここに呼び寄せることが出来る。

そのために過去の出来事と縁が準備されてきた。

過去は今の為、今は過去を知る為に用意され、

自己の霊的感性の高まりに呼応するかのように、

今もなお、その縁を呼び寄せ、花開かせている。


今ここで展開している現実への自己の想いが過去の縁を作り未来の縁を導いていくんだと。


一つの世界の中で意識は多くの世界を同時に共有することが可能なんだと・・、悠はよくそんな風に夢想した。


自己のこころを軸にした”絶対現在”の時の流れの中で

悠には過去と未来が融通無碍につながっていた。

悠の今のこの孤独は、その不思議な時の縁を招く為には

いつの”今”にも必要とされているものかもしれなかった・・。


悠にとり武術とは、大いなる自然が教えを授けてくれる為の云わば"花の形”であった。

その形にあわせ自然は共鳴して、新たな花の美しさを目の前に顕わしてくれた。

新しく加えられた形がまたより深い自然の美しさの造形への悠自身の内での洞察となった。そしてそれは、悠の内面の変化を映し出し、様々な彩と香りを放ち始めていった。 大自然は多様性の中の一つ一つの生きた姿の中に、愛しく共通するひとつの何ものかを映し出していた。


風のそよぎの中で悠は無となり微細な風の呼吸となり、

夜の月明りの中で透明な翳となって大地の静寂に溶け込んだ。

澄み切った月の怜悧な光の中で、永遠に消えることの無い悠の心の翳が氷の青い鏡のうえに映し出されているようだった。

光と翳、この世の全ての出来事はこの陰陽のうちから始まり、そしてやがて様々な心の明暗を描きつつも、いつかは人の心の暗闇の中に収束していくように思われた。



悠は深山幽谷にたった一人で瞑想し、風のそよぎに耳を傾け、己の技を練り、永遠に変わることも無い、そして一瞬たりとも留まることの無い自然の営みのなかに、小さく浮かび流されるようにして、大いなる宇宙の創造主の掌の中で何かを聴き取ったように感じた・・。



無となした相手に対峙する己れを同じく無として相互の実を抜けきるという、無住心剣の“相抜け”の秘技・・。

悠は、武術の理想は、宇宙の像を自己と相手の枠を超えて瞬時に双方のこころに反映するこの‘相抜け’にあると思った。


やがて、悠は或る老人と出会うことになる。


その白髪の老人の技は、対峙した瞬間にもはや敵ではなくなっている。

たとえ若い悠が命を賭して挑みかかっていっても、既に身体が当たった感触すら無く、まるで虚空に吸収されるように投げ出されている。


気がつくと傷一つ作ることも無く、でも身動きすらできない形で老人の下で地に伏せられている。しかしその伏せられた自分に何の屈辱感も覚えることもなく、むしろ宇宙の大いなる何かを老人を通して垣間見たような不思議な至福感に満たされ、喜びすらこみ上げてくる。

神技だ、見事だと・・。


                  ・・・



 ライブハウスの中は薄暗かった。窓から差し込む光が、タバコの青い煙を通して男のシルエットをいぶし銀のように浮かび上がらせていた。足を組み、角ばった小麦色の細い指で燃えかけの煙草を挟み、もう一方の手には数枚のモノクロの写真を挟み持っていた。首を微かに傾け、写真に見入る男の瞳は外の光を吸うようにして孤高に、情熱的に、ブラウンにひっそりと輝いていた。

男は煙草の煙に目を細め、ふと自分の前にたたずむ女の姿に気づいた。まるで自分の淋しい夢の中で度々出会う人のように思えた。視線を見覚えのある女の棲んだ瞳の、その奥深くに暫く注いでみた。


美奈は、一瞬、悠の瞳の中に深い夢幻の世界を覗き見た気がした。

何か忘れていた大切なものに出会ったかのような、愛しさと懐かしさに我を忘れた。頬を紅く染め、小さく会釈すると逃げるように男の前から離れていった。流れるような細く綺麗な女の脚のラインだった。

何故か悠には女が他人でないような気がしていた。


 美奈は誰にも知られるはずの無い心の奥底を染入るようにして

男に見られてしまったかの様に感じていた。

でもその視線の何処か懐かしい温もりの中に、

まだ美奈の知らぬ男の、大人の嘘のない優しさを感じ取っていた。


美奈は商社マンの父親と二人っきりで、幼い頃から

ラテンアメリカを転々とした。行く先々で出会う、

汚ない身なりをした親も誰だか分からない子供達の、飢えた、でも穢れの

無い澄んだその瞳に美奈はいつも魅かれていた。

母方の資産家の一族の子供達には無い、透き通った

素直で曇りの無い目だった。美奈の母親はブラジルでも有名な

地元資産家の娘だった。大きなプロジェクトを進める日本人の父に

地元の名士とのパーテイーで紹介され、恋愛して結ばれた。

しかし、美奈を生み、やがて美奈が小学校に上がる頃にはその母親は亡くなっていた。それから父娘二人はブラジルを後にした。

美奈は日本人離れした美しい容姿と、外国人には無い、

そして今の若者にも失われてしまった、かつての日本女性の繊細な感性

に恵まれた。何故か女は何処の国に行っても他とは違っていた。

特に父親の母国日本では、好奇の目で見られることが多かった。


"美奈、お疲れさま。・・今日は本業の方だったね。

もうあがっていいよ。気をつけてね。"


"ええ。 ありがとう、マスター。"


マスターの声に、女はさわやかな笑顔で会釈して店を出て行った。



"あの子・・、いつから?" 

悠は女の後姿を最後にそっと見やると、尋ねた。


"最近だよ。

ユウちゃんも、・・惚れたかい?

あの綺麗な顔立ちは日本人だけど、実は南の情熱の大陸とのハーフだよ。

近頃の女の子には珍しい気の利くいい子だよ。

男は皆、彼女を見ている・・。

でも、何かを知り尽くした穢れ無き女の気高さがあって、

男の軽い邪心はいつも見事に打ち砕かれる。 

・・日本の男は情けないね。〝


マスターの表情はいつも屈託が無い。

ボヘミアンのように流浪する国籍不明のこの男には疎遠な話のようだった。


悠は氷だけになったモスキートのグラスをテーブルに置くと

腕を軽く上げて会釈し、席を立った。

マスターが無言で軽くウィンクする。


ドアを開けるとまとわりつくような熱気が悠を包んだ。

悠は一瞬、眩暈を覚え、遠くに何か見覚えのある不思議な映像がよぎる気がした。

街はもう陽が降りて、淀んだ都会の夜の匂いがあたりを漂い始めていた・・。


  

  


   2.美奈 “恋”




足下に残る柔らかき熱き砂の感触。

遠くに揺らぐハーレムの蜃気楼の影。

白い夢幻の空白を彷徨う小さな妖精の微えみ。

心にすさぶ砂漠の嵐に妖精の髪は波うち

オアシスの湿りへの道しるべを漂わす

彼方からの妖精のもたらす熱き命のひとしずくは、

牡豹の乾いた心と肉体を潤す。

孤独な咆哮に揺らぐ麗しき天の陽炎・・




今日は出版社の翻訳の仕事の打ち合わせがあり,

美奈は早番で店を出ねばならなかった。男のことが気になっていた。


夏の夕陽の強い日差しが急ぐ女の小麦色の素脚を斜めから熱く照りつけた。表情のない都会のビルの人ごみの中を潜り抜けるようにして電車に飛び乗った。 所々で執拗に自分に注がれる、日本の男の粘液質な視線にも随分なれてきた頃だった。


 吊り皮に両手でぶら下がる様にもたれかかり、目を閉じてイヤフォンを白い貝殻のような小さな耳にそっとあてた。

 チェット・ベイカーの"Someone to watch over me "が流れてきた。

ストリングスをバックに中性的な声が妖艶に切ない恋を詩う。


美奈はこのアンニュイな雰囲気を持つ悲劇のトランペッターの奏でる

曲のその深い暗闇に身をたゆたわせるのが好きだった。

瞼を閉じる美奈の恍惚とした表情は誰の目にも美しかった。


時々,その綺麗な長いまつげに、ひと滴の涙が伝わるのが見えた。

人は皆その涙に何かの哀切な、時を越えた彼女だけの物語を感じ取っていた・・。


私の待ち望んだひと、あるとき私は時の偶然から、

その見知らぬひとを見つめている。これまでも,

きっとこれからも、この心ときめく瞬間は二度と再びは訪れはしまい。

貴方の投げ返すその優しい眼差しは、私が待ち望んだそれ・・。

深い悲しみと愛の記憶があふれ出る時の泉。

貴方とともに愛し合ったとわの幸福の湧き出る

紫の花咲くあたたかな泉・・・。

 

 美奈は、先ほど初めて出会った男の、

情熱的な瞳の奥にいる自分自身を想い描いていた。

何処からともなく、浮かんでは消えていく詩を

トランペットのメロデーにあわせ口ずさんでいた。


翻訳した原稿の入った紙袋を、柔らかな腕にそっと挟み、

滑らかに波打つ黒髪からは、金のピアスの似合う白い耳が覗く。

イヤフォンに片手を添え、瞼を開き、そのまま原書をパラパラとめくってみた。でも美奈の目には、あの男の面影が現れては消えるばかりだった。




愛は暮れ行く秋空に消えいらんとする一筋の雲。

夕暮れ時の淡い木立の影に寄り添うように

公園のベンチに座るもう一つの残影。

そう、朽ちかけた椅子を覆う孤独な小さな影。

遠く銀色の星をみつめ、幾世代も前の

この日この時のデジャビュの記憶に浸る

一人の女のいのちの温もりのあと。そして

そこには・・もう一人の僕がいた。



その夜遅く、出版社の仕事から戻った美奈は,

部屋に入ると、汗に濡れ体に張り付いたピンクの薄いシャツと

白のミニスカートを脱ぎ、黒のシルクの下着だけになって

冷たいソファにもたれかかった。目の前に等身大のミラーが置いてあった。美奈は目の前に映し出される裸の自分と、こうして無言でよく対話をした。


"・・貴方は、ほんとうは誰?

何処から来て、私と一緒にこれから何処に行こうとしているの?

あなたのその身体は私のもの?心はずっと昔のままのあなた・・。

そう、幾世代も前のあなたが、まだこの私の体の中に眠っているわ。

どう・・、今日はあの日と同じ出会いの予感がした・・?"


そこにあるのは、小振りながらよくひき締まった腰の曲線、小麦色の流れるように

艶やかで豊かなラテンの女の身体だった。美奈はそんな借り物のような神の造形物を他人ごとのように見つめてみた。


銀のシガレットケースから細長いブラウンの煙草を一本抜き出し、

柔らかなルージュの唇にそっと刺しこむ。小さな丸い額を下げ眉を細め、細い指で口元のライターの火をつける。乾いた着火音が広い部屋に染み入るように響きわたる。緑色の落ち着いた厚めのカーペットに下ろす裸足の指先が心地よい。

レースのカーテンからは、夜霧の中

遠く都会の摩天楼のランプが薄っすらと点滅する。


淡くシックな間接照明に部屋は照らされ、

本棚の愛蔵の文学作品の背表紙の金文字が

薄っすらと光に浮かび上がる。

アンプのオレンジ色の光が動き、スピーカーから

コルトレーンのサックスの"バラード"が静かに流れ出て、美奈の疲れた身体をそっと優しく包み込む。


青色の煙が一筋、女の熱い吐息とともに口元から

ゆっくりと宙に舞い上がる。

バラードは、美奈を甘く切ない一人の孤独な女の心にする。


微光の散乱する暗闇に、恍惚とした自分の裸の身体から、

金色の霧が渦となり天井めがけ昇っていくのが見える。


黄金の命の息吹だ、と美奈は思う。


魔の使いメフィストが、哀しみの香りする震える君の唇にそっと口づけし、

氷の舌を差し込む。気高き獅子が森で咆哮し、

君の中で氷は解け、熱き愛の潤いの予感に

その白き肌は紅に染まる。

風は時を超え南から吹いてくる・・。 



小さくなった煙草を細い指で灰皿にこすり、

豊かな体の曲線をただ強調するだけにあるかの様な

黒いシルクの下着を鏡の前でゆっくりと脱ぎ捨てる。

裸のまま、ひんやりと冷えた部屋を音も無く通り抜け、浴室に入る。

熱い霧が柔らかな身体を包む。シャワーの細い湯束が髪を濡らし、

湯滴は徐々に重なり大きくなって遠慮するように細いうなじを降りていく。

 

美奈は一瞬目が眩むと、裸のままそこにひざまずいた。徐々に

シャワーの音が遠くなっていき、熱い湯霧の中で茫然と,不協和音を伴ういつものあの哀しい記憶が蘇ってくるのに、身を任せていた・・。



  







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