優しかったあなたへ
陽川姫花が自殺した。
私がそれを知ったのは、火曜の夜だった。
LINEで送られてきたメッセージを、自宅のどこで確認したのか、私は覚えていない。
鮮明に覚えているのはたった一つ。
初めに浮かんだ思いが、『どうして』ではなく『やっぱりか』だったこと。
元同僚は、陽川と比較的仲の良かった私に気を回して、連絡を入れてくれたのだろう。だけど、私にはそれが、これ以上ないくらい残忍な行為に思えた。
知らなければ知らないままで、私は生きていけた。時折、元いた会社であんな子がいたな、と思うくらいで、記憶に影を落とす必要もなかった。
「…………っっ」
込み上げてきた吐き気を抑えるように、私は粘ついた唾を飲み込んだ。
自殺という文字が、私を昔へ引き戻す。
力なくだらりと下がった肢体。鬱血で真っ黒になった顔面。見開かれた瞳と飛び出した舌。
思考に混ざり始めたノイズは、私の視界を揺らがせる。
これ以上はダメだ。考えることそれ自体が、私の全身を蝕んでいく。
土日に行われる葬儀に参加しない旨の連絡を入れてから、私は半時間も経たぬうちにベッドへ飛び込んだ。シャワーを浴びて、寝間着に着替えて、簡単な食事を取る。まるでそれ以外の行動を挟むことを忌避するように。
何かを考えるのは今じゃなくていい。彼女が死んだことに思いを巡らせるのは、きっと明日からのことだ。
そう自分に言い聞かせるようにして、私は眠った。
翌日の朝は、最悪の朝だった。
自分で出した叫び声に、何度も起こされた。真っ暗な部屋は私をどうしようもなく不安にさせ、しまいには照明をつけたまま横になった。
疲れは、取れるどころか昨夜より増していた。鏡で見た自分の顔はひどく憔悴し切っている。目の下にできたクマはメイクでは誤魔化せないほどで、落ちくぼんだ眼窩の奥は暗く淀んでいた。
一瞬、会社を休んだ方がいいのかもしれないという考えがよぎった。だけど、時を置かずして、私はその案を否定する。何かをしていなければ、私は終わりのない思考に呑まれてしまう。
腹の底に力を入れて、私は出社の準備をした。せわしく動き回ることで、足元から迫ってくる暗闇から逃れられるのなら、それに越したことはない。
陽川姫花は、私が以前勤めていた会社の同僚だった。
当時二十二歳の私にとって、彼女は二歳下の先輩だった。高卒ですぐに入社した陽川姫花は、もうその会社で四年も働いていた。
旧態依然とした考えの蔓延る、ブラックな会社。
私は結局、半年でそこを辞めた。これ以上ここに居れば、自分が壊されると思ったから。
『お前みたいな使えないやつ、ウチじゃねぇと雇わねぇから』
入社一週間で、何度同じ内容の言葉をぶつけられただろう。新入社員研修の一環で行われた合宿では、声が枯れるまで社訓を唱えさせられた。
一つ、会社に貢献できる社員になること。一つ、自分の仕事に責任を持つこと。一つ、自ら進んで動ける人間になること。一つ、想像し創造しながら仕事をすること。
まだ十数個あるそれらを、退社して一年経った今でも簡単に諳んじることができる。頭の隅々まで刷り込まれた文言は、そう簡単に洗い落とせない。
『どうして続けるの』
退職願を出した日、私は姫川に問うた。
『会社に必要だ、って言われたから』
あのとき、困ったように笑う彼女の頬を叩いていれば、何かが変わったのだろうか。飲みにでも誘って、根気強く説得していれば、彼女は死ななかったのだろうか。
浮かんだ仮定は、意味のないものだった。
『自己満足だよ、そんなの』
吐き捨てるように、私は言った。
彼女とはそれから数日ほど仕事をし、いくつかの言葉も交わした。だけど私の中では、あれが陽川姫花にかけた最後の言葉だった。
――変わらない。私じゃ、彼女を変えられない。
そう判断したからこそ、私は何もしなかった。そして、今の私は当時の私と地続きだった。
だから、私に許されるのは、煩悶とした思いを抱えることと、彼女の死を悼むことだけ。後悔も懺悔も、私がしていい行為ではない。
『あいつさぁ、ほんとバカだよね』
『誰よ』
『わかんだろ、お姫様だよ、お・ひ・め・さ・ま』
『ぁぁ、あの高卒女』
『ウチの会社、学歴偏重するから出世ないってわかってんのに、よくあんなペコペコできるわ』
『別にいいだろ。俺らからすりゃ使い潰せるコマがいるわけだし』
『姫は姫でも、灰かぶり姫ってか』
『違いねぇ』
あの会社にいた頃、喫煙所の側を通りかかった私は、偶然そんな会話を耳にした。陽川姫花を貶める、下卑た笑い。直接言葉にされずとも、彼女に対するそういう空気は、いつだって職場にあったはずだった。
『…………ッッッ』
なのに、視界が真っ赤に染まった。腹の奥底から湧いてきた憤りは、私の体を指先まで震わせる。
彼女のために怒ったのではなかった。この環境において、陽川姫花のような人間が搾取されるのは至極当然のことだ。それを全てが全て、彼女以外の人間が悪いと断ずるほど、私は善人ではなかった。
怒りを覚えたのは、そんな理不尽がまかり通る、この世界への不条理のようなものに対してだった。あんな下賤な人間たちが、当たり前のような顔をしてそれを行う日常。吐き気がするほど歪んだその構図は、私に義憤とも言える熱を帯びさせた。
彼らを殴ってしまえば、あるいは気は済んだのかもしれない。一時的な激情に身を委ねてしまえば、私は苛立ちに燻られずに済んだのかもしれない。
だけど、それで一体どうなるというのだろう。
私がそれをしたところで、陽川姫花を取り巻く状況は変わらない。むしろ悪化するだろう。ただでさえ酷い彼女への扱いが、弾圧めいたものに変貌するのは目に見えていた。
砕けるほど奥歯を噛んだ。自分の体を焼くこの感情は、てんで筋違いなものなのだと納得しようとした。
――愚かなお人好しほど馬鹿を見る。
かつて父の言っていた言葉が、私の脳裏をよぎった。
妻を自殺で亡くし、自身もその後を追うように交通事故で他界した父。
当時は意味のわからなかったその言葉も、今の私にははっきりと理解することができた。
陽川姫花は愚かな人間だ。向かうべき困難や、耐えるべき辛苦をはき違えている、救いようのない愚者。
(……いや)
本当はわかっている。
彼女はただ、善い人なだけなんだ。誰かの役に立ちたい、何かのためになりたい。反射的にそう思ってしまえるくらいの、お人好しなだけ。
それを知っているからこそ、私は彼女から目を背けたかった。
日中は、自分でも驚くほど普通に仕事ができた。
睡眠を満足に取れなかったため、いつもより疲れはあった。そのせいで幾分かパフォーマンスは落ちてしまったが、それも普段通りの範疇だった。
思考が何かに集中すれば、余計なことを考えなくても済む。体がそこに引っ張られれば、私はちゃんといつもの自分になれる。
仕事ができる自分。冷静に周りを見られる自分。あの会社を辞め、きちんと生活できている自分。
それでいい。それでよかった。
なのに、退社してからしばらくすると、陽川姫花の影が私にまとわりつく。彼女の死が、どうしようもなく脳裏にちらつく。
『立花さんは、かっこいいですね』
入社して二ヶ月が経ったある土曜日、私は陽川姫花に誘われて食事に行った。
休日という概念がないに等しいあの会社で、夜の九時にあがれる日はとても貴重だった。そんな『休める日』を割いて、彼女は擦り切れていた私を慮ってくれた。
『かっこいい? 私が?』
笑みを浮かべることなくそう問うと、彼女は戸惑ったように微笑んだ。
『あの、何というか、毅然としてるというか、芯があるというか』
陽川姫花は目線を下げて、自信なさげにそう言った。
毅然。芯。
目の前の彼女とは対極にある言葉。
『そんなことないよ。私はワガママなだけ』
プライベートでは、私は敬語を使わなかった。仕事では私の方が先輩だけど、私生活では立花さんの方が先輩ですから。頑なにそう言う陽川姫花に、私は折れた。
私が押し黙ると、彼女は見ているこちらが軽く苛立つほどおろおろし始めた。それを悟らせまいとして、余計その態度が裏目に出ているのが痛々しい。
この世には、『上手くやれない』人間がいる。陽川姫花はその典型だった。
その日、私はもともと心中穏やかではなかった。上司に、人間性を否定するような暴言を馬鹿みたいに叩きつけられ、ひどく気が立っていた。
私のミスではない。上司の言う通りに仕事をこなしたのに、彼の指示が間違っていたことが途中で発覚したのだった。
『少しは考えて仕事しろよ! お前の頭は何のためについてるんだよ!』
まだ入社一ヶ月にも満たない新入社員に、彼は何を求めていたのだろう。己の無能さをカバーできるだけの、恐ろしく機転の利く有能さ? そんな人材は、そもそもこんな会社には留まらない。
反論は全て、口答えと見なされた。それが正しく筋の通った言葉だとしても、彼の気に食わないものは失言となった。
ああ、無駄だ。
私は、話をすることを諦めた。そんな建設的な行為は、ここでは通じない。
『仕事、辛くない?』
問うた私に、陽川姫花はやはり困ったように言葉を考え始めた。
その質問は、しかし同時に、私自らへ向けたものでもあった。
四月が始まってから二週間で、五十人いた同期は四十人になった。一年もすれば、その数はさらに半分になるらしい。
どういう人種が残るのか。
傲慢な人間、人を人と見ない人間、何も気にしない図太い人間。
そして。
『……たぶん、仕事ってそういうものですから』
浮かんだ疑問を、止まない違和感を、無理やりに飲み込んでしまう人間。
きっと、初めの二週間で辞めた彼らが最善解だったのだと、あの会社を辞めた今なら思う。
だけど、そのときの私には自信がなかった。
社会とは、仕事とは、こういうものなのではないか。もしも他へ移れたとしても、また同じことが繰り返されるのではないか。
巡る疑問に、答えは出せなかった。
行動に踏み出せないなら、できるのは現状に適応しようと努力することだけだ。疲れを取るために眠り、満足に動かない体と頭を引きずって出社する。
そんな生活を続けていれば、思考は停滞し、感覚は鈍麻する。次第に、今の状況を変えることを考えなくなる。
だけどふと、我に返ることがある。こんな日々に耐え抜いたところで、私に何か残るものはあるのだろうかと。
生きるために仕事をする。仕事をしなければ生きていけない。
じゃあ。
――どうして、生きなければいけない?
意味を考えるのを辞めた。理由を考えるのを辞めた。それはおそらく本能的な制止で、私はその内なる声に従った。
陽川姫花の中にも私の抱えるような煩悶があるのだろうか。もしあるのだとすれば、彼女はどうやって、その果てのない汚泥のような思考と折り合いをつけているのだろうか。
洗いざらいぶちまけてしまってもよかった。陽川姫花はチクらずに話を聞いてくれる。私の言葉を、きちんと聞いて反応してくれる。
でも、彼女の出す答えは目に見えていた。
角の立たない、当たり障りのない助言。薬にも毒にもならない、ただただ濃度を薄めるだけの水のような言葉。
それを耳にしてしまえば、私はさらに苛立ってしまうだろう。そんな返答を期待して、私は自分の内側をさらけ出したわけじゃない。いなされるために、本音をぶつけたわけじゃない、と。
だから、私は全く関係のない話題を持ち出した。陽川姫花とも楽しめる、何の役にも立たない話をした。日々が苦痛な私にとって、そんな些細なことが気を紛らわせる緩衝剤になった。
そして半年を経て、私は生き地獄のようなそこから抜け出した。ずっと残っていた陽川姫花は、一昨日自殺した。
『じゃあ、りっちゃん来れないんだぁ』
金曜日の夜、私は篠田三枝からの電話を受けていた。
彼女は、私と一緒にあの会社に入社した、かつての同期だった。篠田は今もあそこに勤めているけれど、その声に陰鬱な疲れは微塵も滲んでいない。
「うん、申し訳ないんだけど」
『まあしょうがないよねぇ。りっちゃんにも、今のりっちゃんの生活があるんだし』
関係が浅ければ、時として誰かの死よりも仕事の都合やプライベートが優先されることもある。
だけど、今回の話はそうではなかった。
(……話したくない)
私の中で渦巻く終わりのない思考を、彼女に悟らせるわけにはいかない。あるいはもう知られているのかもしれないが、それがどれだけ私を蝕んでいるか、私は篠田に見せたくない。
『残念だよねぇ。あの子、善い子だったのに。ちょっと暗くてトロかったけど』
「……そうだね」
『改めて思うんだけど、陽川ちゃんって名前と本人のキャラ合ってないよねー。陽でも姫でもないのにねぇ』
まるで世間話でもするかのような軽快な口調で、篠田は陽川姫花を語る。彼女はすでに自殺していて、その原因はほとんど自分の会社にあるというのに、留学していった友人を懐かしむように陽川姫花について語る。
並べた言葉が不謹慎であるということは、篠田もよくわかっているはずだった。だけど、彼女は自重しない。
それをしたところで、何か変わるの?
まるでそう言わんばかりの彼女の口調に、私は強い嫌悪感を覚える。
自分ができた人間だと言う気はない。だけど、弁えようと日々意識はしている。
なのに、篠田はそれを是としない。そうしている方が楽なときは余計な口を叩かないけれど、我慢する必要がないと判断すれば簡単にその常識を投げ捨てる。
『そういえば陽川ちゃんってさー』
押し黙っている私に気づかずに――あるいは気づいているのかもしれないが――彼女は喋り続ける。
研修が終わり、一通り仕事を覚えてから、篠田は陽川姫花を「陽川ちゃん」と呼ぶようになった。陽川姫花が自分とそう大差のない平社員であるということ、自分は社長と同じ大学を出ているため、いずれ彼女が部下になるということ。それらを計算に入れていたのかどうかは知らないが、篠田が陽川姫花に接する態度は、四年先輩の社会人に対するものではなかった。そして、陽川姫花も周りの人間も、そんな彼女を咎めなかった。
――好きとか嫌いとかじゃなくて、興味がないんだぁ。
以前、篠田はそう言っていた。自分は、陽川姫花という人間に対して、まるで関心が湧かないのだと。
意地が悪いわけでも生意気なわけでもなく、篠田は陽川姫花に対してただただ冷たかった。それは表面的な態度ではなく、人がもっと奥底に抱えている心象のようなものに表れていた。
――心の底からどうでもいい、かなぁ。
飲みに行ったときにそう語った篠田の顔は、ゾッとするほど普通に見えた。週末の予定を話すように、彼女は微かな笑みさえ浮かべて言ってみせた。
『ちょっとぉ、りっちゃん、聞いてる?』
電話口の向こうから、おどけたような声が聞こえてくる。
それから五分くらい篠田の話に付き合ってから、私は電話を切った。
母が首を吊ったとき、私は八歳だった。
友達の家から帰ってきたとき、ウチの鍵は開いていなかった。両親が共働きだった我が家において、それは特に珍しいことではなく、私は普段通り合鍵を使って玄関に入った。
そして、異臭を感じた。
廊下とリビングを隔てるドアに、母がぶら下がっていた。上方のフックからかけられた丈夫な紐と、母の少し前方に転がった椅子。浮いている母の足元には、黄色いおしっこが溜まっていた。
何が起きているのか、わからなかった。
私は飛ぶように家を出て、先刻までいた友達の家まで走っていった。多少の付き合いがあったお隣さんや、もっと近くに位置する友人宅は意識に浮かばなかった。パニックになっていた私は、さっき通った道を戻ることだけしか考えられなかった。
そこからの記憶は曖昧だ。警察がウチに来ていたこと。父が今まで見たことがないくらい大きな声を出していたこと。友達の母が強く私を抱きしめ、なかなか離してくれなかったこと。
わかったのは、母は死んでしまったのだということくらいだった。自殺という言葉を正しく理解していなかった幼い私にも、それくらいのことは見て取れた。
――愚かなお人好しほど馬鹿を見る。
父は、母の葬儀でぽつりと言った。静かに涙を流し、やりきれなさに顔を歪めて。
その後、父も交通事故で死に――今思えば、あれは哀しみに暮れた父の後追いだったのかもしれない――私は独りになった。
残ったのは、両親が貯めていた遺産と、父の言葉だけ。
私は、そのお金と叔父たちの助力によって大学を卒業し、今日まで生きてきた。
『葬儀が終わったら、どっか食事でも行かない?』
電話の終わりに聞いてきた篠田に、私は何と返せばよかったのだろう。
『どうせ会社の人たちで集まるだろうし、そういうの面倒だからさ』
飲み会を抜け出すような気軽さで、篠田はそう言った。
私は何か暗くて息苦しいものに押されるようにして、彼女の誘いにイエスと答えた。篠田は短く喜びの声をあげると、『じゃあ、テキトーにこっちから連絡するから』とだけ言い残して通話を切った。
それから五分も経たないうちに、篠田からLINEのメッセージが入った。
――そういえば、陽川ちゃんの家に、遺書みたいなのがあったらしいんだけど。
――りっちゃん、見る?
通知欄へ表示されたメッセージに、心臓が強く鼓動を打った。
篠田は、わかっていて後からLINEを寄越した。私が言葉に詰まるのを、陽川姫花が遺書を残したことに動揺するのを全て見透かした上で、メッセージという形を取った。
スマートフォンを持つ手が震えた。既読をつけるまでのこの時間を、篠田が画面の向こうでつまらなさそうに待っている様子が、ありありと目に浮かんだ。
答えは決まっていた。だけどそれを現実のものにする覚悟が果たして自分にはあるのか、私には自信が持てなかった。
見た、とまで入力して、そこから先の言葉を続けられなかった。既読をつけたため、篠田にも私の逡巡が伝わっているはず。だけどそんなことも気にならないほど、私は心身ともに固まってしまっていた。
ここが分水嶺だ、と思った。
陽川姫花の遺書を読んでしまえば、私はもう引き戻せなくなる。はっきりと、そんな予感がした。
唾を飲み込もうとして、私はそれに失敗した。口の中はもう渇き切っていて、少しの潤いも私にもたらしてはくれなかった。
動揺のままに、見たい、と打ち込んでメッセージを送信した。ほとんど間を置かずしてついた既読が、篠田がずっと待っていたことを私に教えた。
篠田は、遺書の内容をコピー&ペーストした。
まるで連絡事項のようなその無機質さに、私はあの会社での彼女の遺書の扱いを想像しかけ、その考えを振り払った。
電子の画面に表示された、固い文字たちに目を落とす。
――ごめんなさい。
――私は誰の役にも立てない、要らない人間だった。
ぐちゃぐちゃな文章の中で、陽川姫花は何度も同じ内容の文言を繰り返していた。
私はそこで初めて、彼女が幼くして両親を亡くしていることを知った。
何の事件性もない、交通事故。
直接的には書かれていなかったが、彼女の内面には、何か強迫観念のようなものが深く根付いていたように見えた。常に誰かに必要とされたいという、ある種の怯えにも似た強迫観念。
『立花さんは、かっこいいですね』
『あの、何というか、毅然としてるというか、芯があるというか』
かつて私に投げた言葉を、陽川姫花はどんな思いで口にしていたのだろう。
そして、私は陽川姫花の遺書の中に、決定的な文章を見つけた。
――退職してほしいと、言われました。
会社の人事整理の一環で、いわゆる首切りが各部署で行われた。そこで真っ先にやり玉にあがるのは、個人で業績を上げていない人間だ。
陽川姫花は、他の社員からくだらない業務を押し付けられることが多かった。それが意味するのは、彼女は自身の業務に全ての出勤時間をつぎ込むことができなかったということ。
であれば、特別優秀でもなかった彼女が、他の人間に後れを取るのは当然の摂理だ。
(彼女は)
ボロ雑巾のように使い潰され、挙句の果てに捨てられた。
両親に先立たれた彼女が求めていたのは、自分が誰かに必要とされること。たとえどんなに歪んだ形だったとしても、彼女はそれを頼りに生きていられた。
だけど、会社からの退職勧告が、その全てをぶち壊した。
彼女をすんでのところで繋ぎ留めていた存在理由を、無残にも切り落とした。
だとすれば、陽川姫花は。
「………………ぁぁ」
涙は出なかった。思考が空白になり、全身からすとんと力が抜けた。
読まなければよかった。そうすれば、私はまだ私のままでいられた。
陽川姫花は自殺した。それは私にはどうしようもなかったことで、悔しさや怒りにも似たやりきれなさを抱えたまま、私は生きていく。彼女は遺書に何を書いたのか、あのとき見ておけばよかったなと、少しの後悔を引きずりながら日々をこなしていく。
その段階で、私は止まっておけばよかった。
「…………ぁぁ」
喉の奥から、低い声が漏れた。
空っぽになった体に、自分のものとは思えないどす黒い血が巡っていくのがわかった。
「……ぁぁぁぁ」
身を焼く瞋恚は、私の思考を根こそぎ焼き切った。叫び出したいほどの激情を有したまま、私は両手で頭を抱え、その手で引きちぎらんばかりに髪を握った。
もう、何もかも取り返しがつかない。
陽川姫花は死んだ。あの会社に、そこにいた彼らに、殺された。
日曜日の夜。私は個室の居酒屋で、篠田三枝と机を挟んで座っていた。
「りっちゃん、久しぶりぃ」
喪服を着て、おとなしめなメイクをした彼女は、しかしいつもとあまり変わらない感じがした。
彼女の微かな香水の匂いと、煩雑とした飲食店特有の食べ物の匂いが混じる。ガヤガヤとうるさい他の客の声も気にせず、篠田は私に喋りかけてくる。
薄暗い店内で、彼女はとても綺麗に見えた。私が最後に会ったときに比べ、確実に垢抜けている。
すごいな、と素直に思った。あんな会社で余裕を持って生きるなんて真似、私にはできない。
「――相談があるんだけど」
意識して抑えた声調で、私は切り出した。
それまで楽しそうにお喋りをしていた篠田は、不意を突かれたようにきょとんとした。
私は、あらかじめ準備していた言葉を、簡潔に彼女に伝えた。
――職場の人間の住所、私に教えてくれない。
篠田は、どうして、とは聞いてこなかった。代わりに、私の意図を掴もうとするように、私の目を真正面から見つめてきた。
「ちょっとできないかなぁ。今は個人情報とか色々うるさいし」
そう言った後、彼女が口の端に微かな笑みを浮かべたのを、私は見逃さなかった。
「でも、特定の社員の帰社時間なら、だいたい教えてあげられるよ。もしもりっちゃんが、『陽川姫花に、一際理不尽に当たっていた社員』について、知りたいなら」
「……やっぱり、あんたは話が早い」
言うと、篠田は「よく言われる~」とおどけて見せた。
実際のところ、彼女がどこまでこちらの考えを見通しているのか、私にはわからない。だけど、私を値踏みするような篠田の瞳には、信頼に足る何かが映っているように見えた。
醜くもおぞましい信頼。彼女はきっと、今の私に『興味』がある。
私は、篠田からすっと目を逸らした。
陽川姫花の生き方はどこまでも独善的で、自罰的で、そして脆かった。上手くやれない彼女には、自分を削るような不器用なやり方しかできなかった。
『自己満足だよ、そんなの』
そんな生き方しかできなかった彼女に、私の声はどう響いたのか。かつて陽川姫花にぶつけたその言葉を、私はきっといつまでも忘れることができない。
――自己満足ですよ、そんなの。
これから自分が為そうとしていることに、陽川姫花がそう言うところを想像しようとしたが、できなかった。私はもう、彼女の声さえ思い出せなかったが、たぶん原因はそこではなかった。
想像の中でもやっぱり、陽川姫花は、あの困ったような顔で笑っていた。