細川~ささらがわ~
昭和30年代の背景を映す。
小学生が一人の女の子に恋心を抱く、主人公の名は元太。彼は小心者で生まれも育ちも貧乏な家庭に育つ。学校へ行っても苛めに遭い、しかしその中でも元太を助ける友人もできるようになっていく。しかしあまりにも酷い苛めに元太は行き場を失う。そして運命の日、元太の家が火事に遭い泥酔した父が亡くなった。
やがて元太は友人との別れが待っていた。その時。。。
最後に彼が得たものは何か。。。
友情、苛め、初恋そして別れ。
昭和の時代を背景に美しい光景に彩られた、秀作である。
某大手出版社で3AAAの評価を得たこの作品を読み、現代の日本と昭和という時代との背景は如何なものだろうか。
この作品は現代の青少年だけでなく、大人にも是非読んで戴きたい作品である。
七月の陽光が燦々と田んぼ一面に降り注いでいた。
戸川元太はいつものように黒いランドセルを背中にしょって、畦道の真中を右手に雑草の切れ端を持ち、左右に振りながらのんびりと歩いていた。やがて畦道が途切れると幅三メートルほどの舗道に突き当たった。元太はそこで一旦立ち止まり左右を見遣ると、速やかに道の反対側へ渡った。強い日射しがアスファルトに照り返され、じりじりと元太の体に突き刺さっていた。元太の切れ長の細い眦が眩しい光の中で、すっと一本の糸を引くかのように細く流れていた。
五分刈りの坊主頭からは夥しい大粒の汗が吹き出しており、僅かに焼けた小麦色の肌に無数の雫がきらきらと輝いていた。その汗は額際から目の横を伝い、頬から顎にかけて流れ落ち、元太はその汗を薄汚れた白い綿のランニングシャツの腹の部分を両手で顔まで捲り上げ、拭っていた。
一瞬元太の出臍が恥ずかしそうに顔を出した。
やがて、目の前にコンクリートの小さな橋が見えてきた。元太はその橋を横目にその袂を左に曲がった。右眼下には濁った川が、夏の日差しを十分に浴び、緩やかに流れていた。
この川も今ではただのドブ川にすぎないが、昔は綺麗な川で魚も泳いでいた。そして地元の人達は、この川に親しみを込めて細川と呼んだ。そして今も尚この川を『ささらがわ』と呼ぶ人も少なくな
い。
元太は川の流れに逆らいながら、径さえ無い川の縁を足元を探りながらたどたどしく歩いていた。勿論学校から指定された通学路はあるのだが、元太はこの川に沿って歩くことが何故か好きだった。
川床は真っ黒な泥に覆われ、川面には洗剤の箱やビニール袋、そして空き缶などが所々に点在しており、中には錆びついて動かなくなった自転車や車のタイヤなども捨てられていた。
川の水は下水溝から流れ出す灰色の水や、時折流れてくる泡立った汚物の色が混じり合い、枯色に淀んでいた。川の周囲には常に異臭が立ち籠め、特に風のない暑い日などは、噎せ返るような悪臭を放っていた。
しかし元太にとってこの臭いは生活の一部でもあった。
元太は先程の橋の袂から十分ほどかけて、川沿いに建つトタンでできた平屋のアパートの前に辿り着いた。元太の一家はこのアパートで父と母と三人で暮らしていた。
「だだいま!」
元太は部屋の入口の戸をガラガラと大きな音をたて勢いよく開け放つと、蕭然とした部屋の中に入った。すると途端に元太はムッと顔を歪めた。部屋の空気がトタンから伝わる熱で外気より蒸し暑くなっているのである。
「こらっ!いつも言ってんだろ、もっと静かに戸を開けろって、毎日言ってもわかんねえんだな、おめえは!」
戸川佐吉はいつものように部屋の片隅で酩酊していた。そして何かにつけて怒鳴るのも彼の一種の癖でもあった。
ここには玄関らしきものは無かった。ただ入口の磨りガラスの戸を開くとすぐ左側に三段に仕切られた小さな下駄箱があった。部屋の広さは七畳程度で、六畳一間に一畳ほどの台所が付いていて、奥にはアパートの住民が使う共同便所へ伸びる細い廊下があった。部屋の中は昼でも薄暗く、曇りや雨の日などは、天井に吊るされた裸電球が一日中皓々と灯っていた。あと目に付くものといったら、中央に置かれた正方形の小さな卓袱台と、元太が生まれた時からある薄く表面が剥げた茶色の古箪笥に、煤汚れた小型の扇風機だけだった。無論電話も無い、電話をかけたい時は、わざわざアパートのすぐ裏に住んでいる大家さんの家まで行って電話を借りていた。
だがこんな薄暗い部屋にも唯一、仄かに陽射しが照り込むところがあった。元太はその薄ら日に誘われるかのように一本の細い廊下を進んでいった。元太はその廊下が途切れるまで真っ直ぐ歩き、アパートの裏手に突き当たると網戸を開け放った。薄ら日はやがて或る光景として元太の瞳に映し出された。
元太はいつものようにその場に坐り込むと、そっと瞼を閉じた。一瞬微かな涼風が元太の左頬を優しく撫でていった。寂然とした中に雀の囀りと細川のせせらぎが聞こえた。そして元太はゆっくりと瞼を開いた。
元太はふと空を見上げた。川のむこうには細川に覆い被さるように、赤く錆びついたトタンの貧居が三軒も軒を並べ、屋根と屋根の間に僅かに浮かぶ蒼天は、元太にとってあまりにも悲しすぎた。
元太は細川を見た。その目には、細川に架かる小さな橋が映っていた。橋の桁には何枚もの木の板が不規則に張りつけられており、その桁をたった四本の丸太ん棒の橋脚で支えているだけの、いかにも粗雑な造りの橋があった。無論誰がいつこの橋をここに架けたのか、元太自身知る由もなかった。
元太は今坐っている場所から少しだけ勢いをつけて、海老のように背中をくの字に曲げながら、地面にある茶色い大人用のサンダルに飛び乗った。細川の川縁には、所々雑草が生えているだけで、土壌は堅い粘土質でとても滑りやすくなっていた。大雨の日などは水嵩が増し、アパートのすぐそばまで灰色と化した泥水が奔流となり、川筋に住む人々を脅かした。元太は大きなサンダルをぺたぺたと音をたてながら橋に右足をかけ、小股で歩き出した。そして丁度橋の真中辺りで川の上流に体を向けると、その場にうずくまり川面を見た。川面は七月の陽光に日映りし、淡い光を放っていた。元太は上流から流れてくる夥しい浮遊物を橋の上から凝視していた。
今から三年前、丁度元太が小学校に入って間もない或る日のことだった。その日は麗らかな春光が降り注ぐまさに小春日和の日だった。元太は何気なく橋の上にぽつんと佇み、川面を眺めていた。川床には、水藻が川の流れに任せて細く長く棚引いていた。元太はその視線を川の上流へと移した。すると遠くのほうから何やら妖しい光を放った物体が流れて来るのが見えた。やがてその物体が目前に迫ってくると、橋の上でうつ伏せになり、上半身を精一杯乗り出し、やっとのことでそれを手中に収めた。だがその物体の正体は何の変哲もないただの赤いゴム毬であった。けれども元太にとってその時の喜悦は今でも忘れず心の隅に残っていた。元太はその日以来、暇さえあれば橋の上から細川を眺めるようになった。貧窮な生活を強いられていた元太にとって、この川自体がひとつのおもちゃ箱のような存在であった。(今日は不作だ・・・)元太は川床の泥の上で腐っている焦げ茶色の果実を眺めながら呟いた。やがて陽は落日を迎え、忽然と辺り一面が朱色に染まり、川面には無数にきらめく光の粒は消え失せ、仄かな川明かりへと変幻していった。するとその背後から、
「元太!もう中に入りなさい!」
と叫ぶ母豊子の声がした、だが元太は返事もせず、名残惜しそうにしばらくその場に立ち竦んでいた。頭上ではカラスの鳴く声が、まるで元太を嘲笑うかのように夕暮れの空いっぱいに響き渡っていた。
元太は仕方なく部屋に入った。部屋の中はもう日暮れだというのにまだ蒸し暑かった。そしてアルコールの臭気が部屋中に充満し、ツーンという鋭い臭いが元太の鼻を突いた。
「元太、お風呂へ行くよ」
豊子は忙しなさそうに古箪笥から元太と自分の着替えを取り出していた。
「うん、わかった」
元太はそう言い、何気なく部屋の片隅に居る佐吉に目を遣った。佐吉は相変らず一升瓶を傍らに沈酔していた。
元太と豊子は歩いて五分ばかりのところにある銭湯へと足を運んだ。暮色の柔らかな残照が二人を包み込み、美妙な二つの影を道筋に落としていた。
「元太、また今日学校に残されたでしょう」
豊子の唐突なこの言葉に、元太は途端に顔が俯き、銭湯に着くまでの間終始黙り込んでしまった。
(なんで知っているんだろう・・・)
元太は訝しく思いながら路傍の石の数を数えていた。
元太の父である戸川佐吉は、現在の茨城県稲敷市に二人兄弟の次男として生まれた。佐吉の父は本来大工であったが、先祖から譲り受けた田畑を守り、一家で農業も営んでいた。家族は佐吉の両親と兄と祖母の五人で、決して裕福な暮らしではなかったものの、一家を養う上では全く問題はなかった。
やがて佐吉は中学を卒業すると同時に、父親の知人である千葉県富里市に住む細田五郎という工匠の元へ修行に出された。そして佐吉は二十歳を境に実家に戻り、父親の下で働きだした。だが佐吉がこの家に留まるのも限度があった。その理由は、兄の正男の存在であった。
兄の正男は佐吉と歳こそ三つ違いだが、子供の頃から頭が良く、学業の方も常に学年の上位にいた。正男は中学を卒業後、県内の進学校へと進んだ。佐吉はてっきり兄が東京の大学へ行くものだと信じていたのだが、正男は大学へ進まず、結局父親と同じ道を歩むことになった。無論父親もそれには驚き、当初大変困惑していた様子であったが、考えあぐねた結果、今度は正男を自分が若い頃世話になった、東京大久保の小田実の元へ修行に出した。
それから八年後、正男が二十六歳の時、彼は実家に戻ってきた。そして次の年、正男は東京で出会った君子という女性と結婚し、身を固めるとともに本格的に家業を継ぐことになった。
その後佐吉が三年間世話になった実家を後にし、細田五郎の元へ再び身を寄せた。そして佐吉は自分の夢でもあった欄間職人になる為、日々修行を積んだ。
そんな暮らしの中で佐吉が二十五回目の夏を迎えた或る日、仕事の帰りにたまたま立ち寄った『純』という名のスナックで働いていた、佐吉より二つ年上の桜井豊子と知り合った。やがて豊子は佐吉のアパートで一緒に暮らし始め、出会ってから二年目の秋、細田夫妻の仲人によりささやかな身内だけの式を執り行った。結婚した当初は佐吉もよく働き、平凡ではあったが幸せな日々を送っていた。そして佐吉が三十路を迎えてまもなく、二人の間に待望の男の子が生まれた。佐吉はその子に、健康で元気に育って欲しいという願いを込め、名を元太と命名した。
豊子は夕暮れとともに降り出した雪の夜、産声を上げた。
豊子の出身は山形の蔵王で、実家は三代続いた老舗の温泉旅館を営んでいた。旅館は豊子の実兄である桜井道男が暖簾を引き継いでいた。道男は予てから豊子の身を案じ、「こっちへ帰ってこい」と何度も気遣ってはくれたが、そのたびに豊子は道男に、「ありがとう」と礼を言っては丁重に断っていた。
しかし当時ひとり身の豊子にとって、道男のその言葉は何よりの励みになっていた。
佐吉と豊子は元太が生まれたのを期に、今まで住んでいたアパートを出て、六畳二間の新居へ移り住んだ。その後も佐吉は以前よりまして仕事に打ち込み、生き生きとした日々を送っていた。豊子はそんな佐吉の姿を陰ながら見守り、そこに自分だけの喜びを感じていた。だが、そんな生活も五年と続かなかった。
元太が五歳の或る寒々とした冬の日、佐吉の師であった細田五郎が脳卒中で急死した。
それ以来佐吉の仕事がめっきり減り、酒と賭け事にのめり込むようになった。日を送るたび借金が嵩み、結局千葉県成田市にある現在住んでいるアパートへ移り住むことになった。豊子はせめて育ち盛りの元太の為、近くのスーパーでパートとして働き始めた。しかしその給与の殆どは佐吉の借金返済と酒代とともに消えていった。
元太は二学期最後の日の朝、俎を小刻みに叩く包丁の音で目が覚めた。元太はその軽やかな音が止むまで、しばらくの間そのままの格好でじっとしていた。やがて音が止むと、ゆっくり蒲団から立ち上がり、
「おはよう」
と言って豊子と挨拶を交わした。佐吉はいつものように蒲団の端で大きな鼾をかきながら仰臥していた。元太はそんな佐吉の醜態を
冷たく邪視すると、右手で目を擦りながら、和紙を透かしたような柔和で薄白な光に誘われるかのように、細い廊下を歩いていった。そして元太は網戸を開け放ち、その場で大きく背伸びをし、細川をぼんやり眺めた。透き通るようなミカン色した朝陽が、川面に眩い光を放ち、優しく元太に微笑んでいた。そのうち、
「元太、朝御飯よ!」
と言う豊子の声が台所の方から聞こえてきた。
元太はいつも通り細川の縁を歩き、コンクリートの名も無い橋の袂へ出て、それから畦道に通ずる舗道を歩いていた。その時背後から、「元太!」と叫ぶ声がして咄嗟に後ろを振り返った。すると、はるか後方で、同じクラスの山本孝一と浅田弘が元太に向かって手を振っていた。元太はその場に立ち止まり二人が来るのを待った。
「おはよう。元太!」
二人はいつもと変わらず清々しい笑顔を浮かべていた。
「おはよう」
元太は二人を見つめながら、目を糸のようにして微笑んだ。
「元太、夏休みはどこかに行くのか?」
元太よりひと回り体格が大きい孝一が、頭の上から見下ろすように訊いた。
「別にどこも・・・」
元太はいかにも気弱そうにズックの爪先を見つめながら答えた。
「そうか・・・。俺、母ちゃんの田舎へ行くんだ」
そう言いながら顔を幾分綻ばせる孝一の表情を、元太は羨ましそうに横目で眺めていた。
そして弘もまた、孝一と全く変わらぬ表情で、
「俺は家族で千倉の海へ行くんだ」
と言った。弘は体格こそ元太と殆ど変わらないが、浅黒い顔にきらりと輝く真っ白い歯が、見る人に好感を抱かせた。
三人は畦道を歩いていた。元太は四方を取り巻く青田の風情を、風が過るたびに感じていた。そして幼い童子のような二人の笑い声が、元太の背中を流れるそよ風と重なり合い、そして消えていった。
元太の通っている学校は街中から少し離れた郊外にあった。校舎は木造で、一年生から三年生までが学ぶ校舎と、四年生から六年生が学ぶ校舎と、そして講堂の三つの建物が広い校庭をぐるりと三方を囲むように建っていた。
元太達は、昇降口で上履きに履き替えると、一階にある自分たちの教室へ入っていった。元太の席はいちばん廊下側の前から五列目にあった。元太は教室の中の雰囲気がなんとなくいつもと違うような気がしてならなかった。たぶん今日で一学期も終わり、明日から夏休みに入るので、それで普段より賑やかなのだろうと元太は思った。
その時である。突然、
「おはようございます。元太様・・・」
と言ういつも聞き慣れている声が、元太のすぐ脇から聞こえてきた。だが元太は声のするほうへは振り向く仕草は全くなく、ひたすら黙って机の表面に浮かぶ木目を見ていた。
「元太様、聞こえないんですか?」
声の主はより一層大きな声で言うと、元太の坊主頭を二度、三度撫で廻した。それでも尚且つ元太は抵抗しようとはしながった。元太には、何か困ったことが起きると必ず顔を俯けて、急に黙り込んでしまう生まれきっての悪い癖があった。
「お前ん家は貧乏だから、夏休みになってもどこにも旅行なんて行けないだろう」
初めに聞いた声とは違う、また別の声がした。元太は泣きたくなるほど悲しくなってきた。
(どうして同じ人間に生まれていながら、俺だけこんな惨めで憂鬱な毎日を送らなくてはならないのだろう・・・)
元太はそう思うと悔しくて仕方がなかった。時には、
(・・・なぜ、俺のような不幸な人間がこの世に生まれてきたのだろう・・・)
などと、生きることさえ否定することもあった。すると、
「お前ら!いい加減にしろ‼」
と大声で怒鳴る声がした。元太はその時一瞬戸惑いながらも、声のするほうに恐る恐る目をむけた。するとそこには元太を見下ろすように屹立している山本孝一の姿があった。
そしてほぼ同時に、
「逃げろ!」
と喚きながら勢いよく去っていく、岡田一雄と石橋明の姿があった。
「元太、もう大丈夫だぞ」
孝一はそう言ったきり自分の席へ戻っていった。今まで硬直していた元太の体は、まるで草が萎えるように力が抜けていき、ホッとため息をひとつつくと孝一の席に目を遣った。そこには、何事もなかったように振舞う孝一の清々しい笑顔があった。そして元太はその笑顔にこくりとひとつ頭を下げた。
元太は何時しか恋をしていた。
恋といってもそんな大袈裟なものではなく、誰にでもある一種の憧れのようなものであった。勿論そのことは誰にも話してはいない。
別に意識をして秘密にしていたわけでもなく、ただ他人に話すほどの事ではないと自分ではそう思っていたにすぎなかった。しかし恋をするということは、時が経つにつれ、人の心の中にじわじわと切なさや憂いが染み込んでくるものだと、最近になって思うようになってきた。
元太は自分の席から窓際のほうを見入っていた。元太の瞳には、艶やかな長い黒髪を三つ編みに束ねている宮沢幸江の横顔が映っていた。だが窓の外からは、夏の日差しが金粉でも撒いたかのように幸江に降りかかり、その眩しさで彼女の横顔が元太の目には蒼い影にしか見えなかった。
幸江の家は町きっての豪家であり、父の宮沢靖男は市議会議員を務めていた。元太が初めて幸江と出会った時、そう、彼が小学校へ入ってまだ数日しか経っていないやたら春風の強い日の事だった。
元太はその日の授業が終え、下駄箱を開け、真新しい白いズックに履き替え校舎を出ると、校門にむかってゆっくりと校庭を歩き出した。すると突然、校庭の赤茶けた砂を空高く舞い上げ、渦を巻いたつむじ風が元太に襲いかかってきた。思わず元太はその場に立ち竦み、両手で顔を覆った。その瞬間、渦巻きとともに頭に被っていた白い野球帽が宙に舞い、どこかへ飛んでいってしまった。しばらくして風は止み、元太は右手で両目を擦りながら僅かに目を開け、帽子の行方を探した。するとさっき出てきた昇降口のほうから、
「ここにあります!」
と叫ぶ、まだあどけない甲高い少女の声がした。元太は即座にその声の行方を探した。すると昇降口のすぐ脇にある花壇の中で帽子を高々と右手に掲げ、左右に大きく振りながら立っている少女の姿が、微かな視界の中に映っていた。元太はもう一度右手で両目を擦ったが、どうしても目がはっきりと開かない。やがて涙腺からは泉のごとく涙が湧き出てきて、景色が蜃気楼のように揺らいで見えた。何処かで男子と女子の入り交じった笑い声が聞こえたが、元太は何の躊躇いもなく聞き流した。ところが少し歩くと又もや目に激痛がはしり、その場に足を止め目を瞑った。一時はあまりの痛さに地べたにしゃがみ込みもしたが、しばらくしてようやく痛みが収まり、目をゆっくり開けると、いつの間にか少女が元太のすぐ脇に立っていた。元太は突如目の前に現れた少女を見て喫驚し、思わず息を飲んだ。すると少女は、
「はい、これね」
と言いながら二、三度ポンポンと音を立て、帽子に付いた土を手で払いのけると、元太の坊主頭にそれを被せた。
「まだ痛むの?」
少女は元太の顔を下から覗き込むように顔色を窺った。元太は挙措を失い、一体どうすればよいのか分からず焦っていた。
(とにかく礼を言わなくては・・・)
元太は気まずい沈黙を破ろうとして、ぶっきらぼうに、
「あっ、ありがとう」
とひとこと言うと、校門のほうへ逃げるように走り去っていった。
元太にはもう目の痛みなど少しも感じてはいなかった。ただ走りながら、春の息吹を体全体に感じとっていた。そして元太は生まれて初めて感じたこの不思議な胸のときめきを、確実に心の中に刻み込んだ。元太はそれ以来、何故かその白い野球帽を被ろうとはしなかった。
(・・・もうあれから三年も経つのか・・・)
元太は窓際の蒼い影を眺めながら、物思いに耽っていた。
やがて一学期最後の朝礼のため、皆、講堂へむかった。元太は廊下を歩きながらざわざわと騒ぎまくっているクラスの仲間が鬱陶しかった。そして講堂に入ってもその様子は変わらなかった。しかし壇上に校長先生が立つと、その瞬間ざわめきが収まり静けさを取り戻した。講堂の中は熱気がむんむんしており、元太の背中を一筋の汗が流れ落ちた。元太は校長先生の話など全く聞いてはいなかった。それよりも明日から始まる夏休みが気になって仕方がなかった。
(四十日もの長い間、俺はアルコールの臭気が漂うトタンの箱の中で一人孤独な日々を送るのだ・・・)
元太はそう考えるだけで頭がおかしくなりそうだった。だったら毎日窓際にいる幸江の美しい横顔を眺めているほうが、ずっと幸せなようにも思えた。
(だが苛めが待っている・・・)
やり切れぬ思いが元太の心を締めつけた。
講堂の外では、蝉の鳴く声がまるで耳鳴りのように元太の耳に響き続けていた。
長かった朝礼も終わり、皆教室に戻ってきた。
「それでは一学期の級長だった山田と、副級長の宮沢、前に出てきてください」
元太のクラスの担任の先生がそう言うと、二人は級友たちの拍手とともに黒板の前に立った。元太の瞳には、幸江の着ている真っ白なワンピースの左胸に可憐に咲いている、淡い桃色の小花が映っていた。そんな幸江の姿が、元太にはやたら大人びて見えた。そう思った途端、幸江の存在が自分からどんどん遠ざかって行ってしまうような一抹の淋しさを感じた。
やがて修了式の全ての日程が終わった。しかし皆、夏休みに遊ぶ予定でも話し合っているのか、なかなか教室から出ようとしない。元太はふと思い立ったように窓際の幸江の席を見た。だがそこに幸江の姿はなかった。元太は教室内をぐるりと見廻し、幸江を捜した。すると窓際のいちばん後ろのほうで、友人二人と楽しそうに談笑している幸江を見つけた。元太の席からだと幸江の横顔しか見ることができなかったが、額から鼻へ、そして凛とした唇へと流れる線が、とても十歳の子供とは思えないほど大人びていた。すると幸江はいったん自分の席へ戻り、赤いランドセルを背負ったかと思うと、友人二人と和気藹々と教室を出て行ってしまった。そして元太もその後を追うように急いで教室を出ようとした。だがその時、「元太!」と誰かに呼び止められた。元太はその声を聞くとすぐに孝一だとわかった。
「何?」
元太は小首を少し左に傾けた。
「また明日ラジオ体操で会おうな」
「えっ・・・うん!」
元太は嬉しかった。こんな些細で何気ない言葉でも、今の元太にとっては何よりもかえがたい心の妙薬であった。
そして二人は、
「じゃーな」
とお互いに同じ言葉を浴びせ合い別れた。
その後元太は、敢えて幸江の後を追うことはせず、一人寂しく家路についた。
(・・・幸江ちゃん・・・)
元太に心の中は揺れていた。
(・・・明日からはいくら会いたくても、幸江ちゃんには会えないのだ・・・)
目に見えるもの全てが何だかとても侘しく見えた。右眼下には、狭い町中を辿る、浅く細くそして貧しい細川が、元太が抱く心情を全て窺い知るかのようにひっそりと流れていた。
その日の夕方、元太は銭湯から帰ってくると、細川に架かる橋の上で涼んでいた。そしていかにも窮屈そうな夜空を見上げた。するとそこには、深い静寂のなかで蛍光灯のように皓々と力強い光を放つ、蒼白い月が浮かんでいた。その月は鏡のような細川の川面にくっきり浮かび上がり、元太はその月に目を落とした。すると月の耀映の中に、幸江の優しさに満ちた笑顔が鮮やかに重なった。元太はその笑顔を見て、この瞬間が永遠に続いてくれたらどんなに幸せだろうかと、ふと思った。
翌朝元太は、六時に起きるとすぐさま朝食をとり、顔を洗うと、勢いよくガラス戸を開け、急いで近くにある神社へ急いだ。
神社は小高い丘陵にあり、境内に行くには三十段ほどの石段を上らなくてはならなかった。元太は苔の程よく生えた石段を一気に駆け上がった。元太が神社に着いた頃には、すでに十数人の生徒が境内に集まっており、その中には元太と同じ部落の孝一と弘の顔も見えた。元太の坊主頭からは汗が滝のように流れ落ちていたが、気にもとめず二人に歩み寄り、「おはよう」といつになく柔和な表情で声をかけた。すると二人は同時に振り向き、「おはよう、元太」といつもの笑顔で言った。
「なあ元太、ラジオ体操終わったら三人で貝ゴマやんないか?」
元太は思わず、うんと言いかけたが、
「俺、貝ゴマいっこも持ってないからできないよ」
と言い、いつもの癖で視線を自分の足元に落とした。
「いいよ、持ってなくても俺たちのコマ貸すからさ、なっ!やろうぜ元太!」
孝一がそう言うと、元太は少しだけ顔を上げ、
「本当にいいのか?」
と上目遣いで二人の顔色を窺った。
「ああ、本当さ」
孝一は笑顔でそう答えた。
「やったあ!ありがとう」
元太は思わず両手を上げ喜びを現にした。
思い起こせば、孝一や弘と仲良くなったのは四年生になってからで、それまでは家が近くでも一緒に遊ぶことなど考えもしなかった。
ただ下校のさい、途中まで帰り道が一緒だったことや、人一倍正義感の強い孝一が、クラスの仲間に苛められているところをよく助けてくれたりした。そのような訳で、孝一と弘は元太にとって初めて友人と呼べる仲間となった。
ふと気づくと部落の代表が皆の前に出て来て、「それでは始めます!」と大きな声を張り上げ、間もなく聞き慣れたラジオ体操の前奏が流れて来た。
ラジオ体操が終わると、付き添いの父母が、ラジオ体操の出席カードに一人一人捺印をしていた。元太は弘の次に押してもらった。
「よし、元太こっちへ来いよ」
孝一は他の誰にも聞こえないように、声を潜めて言った。元太は孝一と弘の後を、二度三度振り返り人気を気にしながら付いていった。三人は昼なお暗い神社の裏手へ廻った。そこには十数本の大樹が三人に覆いかぶさるように鬱蒼と生い茂っており、その巨大で暗黒の闇は、陽光の一筋さえ地面に漏らすことはなかった。元太はこの神社には何度か母に連れられて来たことはあったが、裏まで廻ったことは一度もなかった。
「ちょっとそこで待っててくれ」
孝一は弘と元太に対して掌を突き出し、動きを制止させた。元太は黙って孝一の行動を窺っていた。どうやら孝一は神社の縁の下へ潜り込んだようであった。
(まるで猫だなあ・・・)
元太は、ここに立っていても辺りが暗くて周りがよく見えないというのに、よくあんなところへ入っていけるものだとつくづく感心した。少し経つと、縁の下からむくっとした黒い影が現れ、元太と弘にむかってのしのしと歩いてきた。そして二人の目の前まで来ると、
「これ何だかわかるか?」
と言って縁の下から持ってきた物を元太のすぐ足元に置いた。元太はその場にしゃがみ込み、目をうんと近づけてじっくりそれを見つめた。
(・・・ただのバケツじゃないか・・・)
いかにも訝しい表情を浮かべている元太に、弘は、
「貝ゴマをこの上で廻すんだ」
と台の上を指差しながら言った。元太はもう一度じっくり見ると、あっ!そうだ、と心の中で叫んだ。そういえば以前、このようにバケツに厚い布を被せ、その上でコマを廻して遊んでいるのを見たことがあった。
(しかし肝心の貝ゴマは何処にあるのだろう・・・)
元太はそう訴えるかのように孝一の目を見つめた。孝一は元太の目を見てすぐに察したのか、「もう一度そこで待ってろ」と言うと、
今まではっきりと見えていた孝一の姿が又もや遠ざかり、ひとつの真っ黒な影となり闇の中へ消えていった。しばらくして今度は、小さなブリキの箱を二つ両腕に抱えて戻ってくると、その箱の蓋を開け、元太に手渡した。
小さいながらもずしりとした重量感が両手に伝わった。元太は早速首を伸ばし箱の中を覗いた。暗闇ながらも鉛色に鈍く光を放つ貝ゴマが幾重にも重なり敷き詰められていた。元太はまるで宝石箱の中を覗き込むように細い切れ長の目をあどけなく見開かせていた。
「すごいだろう、俺たち朝早くここへ来てあそこに隠しといたんだ」
孝一は箱の中を食い入るように覗き込んでいる元太の顔色を見つめた。すると元太は、
「ああすげえ、俺こんなに沢山の貝ゴマ見たことねえ・・・ちょっと触ってもいいか?」
と孝一に訊くと、
「いくらでも触っていいぞ」
と孝一は少し自慢げに答えた。
元太は待ちかねたように箱の中に右手を入れ、一番上にあったコマを一つ指でつまみ出し、大切そうに左の掌に載せ、丹念にしばしの間見つめていた。やがて元太は再度孝一の目をちらっと見遣ると、
「これどうやって廻すんだ?」
と訊いた。
「よし!じゃじっくり見てろよ」
そう言いながら孝一は箱の中から細くて白い紐を取り出し、
「ここからが大切なんだ」
と言い、元太にわかりやすいようにゆっくりと紐をコマに巻き付けていった。
「どうだ、やってみるか」
元太の呆然たる表情を見ていた孝一は、自分の持っている紐を元太に手渡した。
「俺、初めてだから少し怖いなぁ」
元太はそう言って、恐る恐るコマに紐を巻きつけていった。
「よし、その調子だ」
弘は元太の真剣な姿を見て、思わずそう口走った。元太は紐の巻きつけが終わると、ふうーっと一つ大きく息を吐いた。よく見ると元太の掌には薄く膜を張ったように汗が滲んでいた。
「それじゃ廻してみるか」
元太は孝一を真顔で見つめ頷いた。
「こうするんだ、いいか・・・」
そらっと一発気合を入れた瞬間、孝一の右手からひらりと紐がほどけ、貝ゴマは一瞬宙に浮かぶと、一気にバケツに張った布に上に華麗に舞い降りた。それは元太にとって、まるで手品でも見ているかのような摩訶不思議な心持ちであった。
「やってみろよ元太も」
弘が元太に促した。
「う、うん・・・」
自身なげに元太は頷いた。
「もっと自信持てよ、俺たちがちゃんと教えてあげるから心配ないって」
それから元太は、二人に手取り足取りコマの廻し方を教わった。三人は時の経つのも忘れて貝ゴマ廻しに熱中していた。元太はもう
数えきれないほどコマ廻しに挑戦していたが、そう簡単には廻ってくれなかった。すると突然弘が言った。
「そろそろ俺、家に帰らないとまずいから」
「そうだな、俺もだ」
孝一は空を見上げて言った。そして孝一は、
「すぐ廻せるようになるから心配すんなよ」
と元太に告げると、二人はそれぞれのコマと紐を箱の中へ仕舞い込み、「じゃ、またな」と言って、ブリキの箱とバケツを大事そうに小脇に抱え帰っていった。一人残された元太は、しばらくして急に何かを思い立ち二人の後を追いかけた。元太は神社の長い石段の上に差しかかった。すると二人はまだ石段の途中にいた。
「ねえ!」
元太の甲高い声が、静寂に包まれた神社の境内に響き渡った。孝一と弘は思わず振り返り、石段を見上げた。孝一は石段の天辺に立っている元太の姿を見つけると、
「なんだ!」
と声を張り上げた。
「またコマ貸してくれるか!」
「ああ、いつでも貸してやるよ!」
孝一はそう言うと、再び元太に背を向け弘と石段を下りていった。
元太は孝一の言葉を聞いて安堵した。そして二人が石段を下り、姿が見えなくなるまでしばらくそこで佇み、やがて二人の姿が瞳の中から消えてなくなると、石段を一歩一歩踏みしめながら下りていった。元太は石段の途中で一旦足を止め、空を仰いだ。そこにはまるで元太を睨みつけるかのようにぎらぎら輝く真夏の太陽があった。
(もうすぐ昼だな・・・)
元太はこのままアパートへ戻りたくはなかった。どうせ戻っても飲んだくれの佐吉と二人っきりだし、何をするともなくただ一日が黙って通り過ぎるだけだった。ふとその時元太の脳裏に、先程孝一と弘に見せてもらった沢山の貝ゴマが過ぎった。すると何を思い立ったのか、アパートへ帰る筈だった足は方向を変え、学校へとむかった。
元太の通っている小学校の校門の前には、文房具屋が一軒あり、その店と軒を並べるように一軒の駄菓子屋があった。その店には、何種類かの貝ゴマが売られているのを元太が思い出したのであった。
元太は小高い丘を歩き、やがて坂を下るとしばらくして校門に通ずる幅の狭い路地に出た。そこから少し歩くと右側に駄菓子屋の看板が見えてきた。店先には幾人かの小学生が溜まっていた。元太は店の前に来ると店内を一通り見渡し、店の奥に並べられた何種類かの貝ゴマを見つけると、それらをじっと見つめた。元太は駱駝色した半ズボンのポケットに手を忍ばせた。勿論お金など一銭もある筈がなかった。その時である、右脇にいた、見るからに元太より低学年と思われる少年が、
「おばさん、それとそれ下さい」
と店のおばさんに声をかけ、貝ゴマを指差した。するとおばさんは、
「これとこれかい?」
とその少年に訊くと、うんうんと二度頷き、ポケットからお金を出し、おばさんに渡すと、代わりに白い小さな袋に包まれた貝ゴマを受け取り、喜び勇んで走り去っていった。元太は店のおばさんの後ろにある大きな振り子の古時計をぼーっと眺めた。時計の針はすでに正午を十五分過ぎていた。すると、
「ボクは何がいいんだい?」
と言う少し嗄れた声がした。元太はおばさんの目を見た。確かにおばさんの目は元太に注がれていた。元太は思わず言葉を失い、ううんとかぶりを振ると、咄嗟に走って店を後にした。
元太は他に行く宛もなく、田んぼの畦道を漫ろ歩きをしていた。真夏の強烈な日差しが元太の体に容赦なく照りつけていた。元太は眩しそうに目を細め空を見上げると、青空の中に綿を溶かしたような、薄い膜を張った雲が浮かんでいた。元太はしばらくその雲を眺めていたが、あまりの眩しさに耐えられなくなり、すぐに視線を前方に戻した。すると不意にふらふらと目が眩み、その場にしゃがみ込んだ。瞼の裏には真っ黒な暗闇の中に幾つもの光の子が慌ただしく蠢いていた。元太はゆっくりと瞼を開き、目のちらつきが治まると、再び畦道を歩き出した。
元太はアパートに戻ると、酔い潰れている佐吉を尻目に台所へ行き、朝豊子が作った長ネギの味噌汁の残りを、茶色く焦げたご飯にかけて昼を済ませた。元太はアルコールと煙草の臭いの入り混じった、この狭い空間の中に入ること自体が嫌だった。元太は細い廊下を通り、網戸を開け、サンダルを履くと、橋にむかって歩き始めた。
その日の細川は流れがいつもより遅いように元太には感じた。そのせいでもあるのか、普段気にも留めていなかった川の臭いが、幾分鼻を突いた。しかし部屋の中に閉じこもっているくらいなら、ここにいたほうが元太にとって断然居心地が良かった。元太は川面を眺めているうちに、昨夜川面に映った月の中に鮮明に浮かび上がった、幸江の笑顔を思い浮かべていた。
(どうしても幸江ちゃんに会いたい・・・)
元太は川面に自分の顔を映し出すと、その表情があまりにも陰鬱なので、嫌気がさしてすぐに川面から目を逸した。すると元太はあっと小さな声を漏らすと、のそっと橋の上に立ち上がり、駆け足で部屋に戻った。元太は古箪笥の上に置かれてある、緑青が付着した合金の小さな時計に目を遣った。そしてよしっと一発活を入れると街中へ走り出した。
元太の住んでいる場所はやや窪んでおり、街中の通りに出る為には、急勾配な長い坂を二度上らなくてはならなかった。元太はいつも通っている銭湯の前を通るとそこから先は坂になっており、元太はその坂を駆け足で上りきると、すぐ目の前に鉄道の踏み切りが見えてきた。元太はその踏み切りを渡りきると、そこから真っ直ぐ続く道を進み、突き当たりのT字路を右に折れた。
元太は二つ目の坂を上り終え、ようやく街の商店街に出た。元太は大通りの途中を左折し、しばらく歩くと通りから右に折れ、細い小路へと入っていった。そしてある家の前で立ち止まった。
門の横には『鈴木ピアノ教室』と書かれてある大きな看板が掲げてあった。
(ここだ・・・)
元太はその場で左右を見遣り、人影がないことを確認すると、目をキョロキョロさせながら、その家の門から少し離れた狭い空き地に入り、敷地の境にあるブロック塀に体を凭れかけた。すると元太はその塀の影に身を忍ばせ、顔だけひょこっと出し、『鈴木ピアノ教室』の門の辺りをじっと覗き始めた。
元太は夏休み間もない或る日のこと、教室の隅で幸江と友人が二人で何をか喋っているのを、傍らで何気なく耳を澄ませて聞いていたことがあった。その時二人は確かにこう言っていた。
「私、夏休みに入ったらピアノのレッスンに励むの」
「でもレッスンなら今でも毎日やってるじゃない」
「うん、でも今は学校終わってからだから四時から六時までだけれど、休みに入ったら三時から休憩入れて六時まで三時間になるの」
「そう、それじゃ大変ね」
「ううん、それでもすぐ時間なんて経っちゃうのよ、だって楽しいもの・・・」
その会話を聞いた元太は、その日学校が終わってからずっと幸江の後をついて廻った。
そして先ほどの『鈴木ピアノ教室』の中へ入っていく幸江の姿を確認したのであった。
(今何時だろう?俺がさっき家を出たときは二時十五分だった。家からここまで十五分から二十分はかかった筈だ。そうなると今の時刻は二時半ごろ・・・)
元太は頭を捻りつつ、目だけはしっかりと『鈴木ピアノ教室』の門を凝視していた。元太はここに来るまでのあいだ坂を駆け上がったりしたせいか、今になってまるで重い荷物を両肩に載せたみたいな倦怠感が襲ってきた。その上この暑さのせいで、汗が体のあらゆるところで上から下へ奔り巡っていた。
(そろそろ来てもいい筈だが・・・)
元太の左目に汗が入り、その途端目の前が霞んだ。元太は何度も目をパチクリさせ左手で目を擦り、しばらく目を瞑った。そして幾らか痛みが治まると、再び目をピアノ教室の門にむけた。元太がここに来てからというもの人通りは全くなく、時折聞こえる鳥たちの囀りや、空き地に生えている雑草たちが通り風に揺らめくささやかな音以外は静寂そのものであった。
その時である、元太の瞳に青いワンピースを着た幸江が、足早に歩いてくる姿が映った。
空に映え渡るような真っ青なワンピースには、首の廻りと袖の端に白いフリルが眩しく光っており、右手には赤い布地の手提げバックを掲げていた。元太はできるものなら今すぐここから幸江にむかって、思いっきり走り寄っていきたい、そんな心境に駆られた。だが幸江の姿は呆気なく門の中に吸い込まれ、視界から消えた。それはまるで楽しい夢を見ているときに突然目が覚めてしまったような、中途半端な余韻が残った。すると元太の周りに乾いた風が吹き抜け、雑草たちが一斉にケタケタ笑い出し、すぐにやんだ。元太の目の奥には、幸江が着ていたワンピースの青と、右手に掲げていた布のバックの赤が、まだ尾を引いて消えずに残っていた。
しばらくして元太はふうっと大きく息を吐き街中の通りへと歩き出した。そして『鈴木ピアノ教室』の門の前で一旦立ち止まり、耳を澄まし目を閉じた。すると中からは、軽やかで流麗なピアノの音色が微かながら聞こえてきて、元太はしばし耳を傾けると再び歩き出した。街の中は思いのほか閑散としていて、元太はその町筋へと一人静かに溶け込んでいった。
元太はすぐに家には帰らず、街表の高台の通りを歩いていた。やがて通りは十字路の交差点にぶつかり、元太は迷わずそこを左に折れ、そこからまたしばらく歩くと今度は道が二股にわかれた。元太はそこを何の躊躇いもなく左へと進んだ。道は徐々に街中の通りから遠ざかっていき、道幅も狭くなる一方であった。元太は先程の三叉路から十分程歩き、傾斜の緩い坂の下に辿り着いた。元太は近くの木陰へ行き、生成りのTシャツの袖で汗を拭うと、ゆっくりと坂を上りはじめた。
坂の上に立つと、目の前にこの辺りでは珍しい白壁の大きな邸宅が建っていた。門は黒く、幅は車一台入るには十分過ぎるほど広かった。家の周りの白壁は、下三分の一が赤茶けたレンガ色のタイルが張り詰められており、そのモダンな彩りがこの館を一層美しく際立たせていた。元太はその門に一歩ずつ近づくと、門の脇に掲げてある表札を見た。その表札には『宮沢』と彫られていた。元太は改めて白い館に目を遣った。近づけば近づくほど、この館の大きさに元太は呆気に取られていた。
そして元太の目は二階にむけられた。すると二階のいちばん左の部屋に、小さなぬいぐるみが幾つか飾ってある出窓が見えた。
(・・・幸江ちゃんの部屋かな・・・)
そう思いながら、元太はしみじみとその窓を眺めていた。その時である。元太は自分の背後に目敏く人気を察したので、ひょこんと体勢を変え、何食わぬ顔で通りを歩きはじめた。
元太はこのまま家へ帰るつもりでいたのだが、何を思ってか、帰り道の途中で突然右に折れ、舗道から道幅の狭いジャリ道へと入っていった。少し歩くと緩やかな長い下り坂が続き、そのジャリ道を挟んで右側には雑木林が続き、左側には青々とした田園風景が広がっていた。しばらくするとジャリ道は平坦な小道になり、より一層道幅が狭くなり、仕舞いには田んぼの畦道となってしまった。そして間もなくその畦道も途切れた。だが元太は何の躊躇いもなく途切れた畦道の先にある鬱蒼とした藪の中へ、自分より背丈のある草を掻き分けながら、潜るように入っていった。すると元太の全身の動きがパタリと止まり、パッと視界が広がった。そこには涼しげな微風が殆ど絶え間なく流れていた。
元太はここに大きな池があることをつい最近孝一に教えてもらい知った。孝一によるとこの池は何が語源だかわからないが、皆、『バッタ池』と呼んでいることや、池の中には魚も多く棲息していて、時には四、五十センチ級の鯉も釣れるとも言っていた。楕円形をしたこの池の周囲はかなり広く、池の周りには細長い径がぐるりと囲んでおり、釣りをするには最適な場所でもあった。
今も中学生らしき少年が三人、池の中へ釣り糸を垂れていた。元太は遠くからその三人をしばしの間眺めることにした。しばらくしてその中の一人に当たりが来た。元太は細い切れ長の目を精一杯開いて凝視した。すると十五センチ程の真鮒らしき魚が糸の先で踊っているのが見えた。
(本当に魚がいるんだ・・・)
元太はその光景を羨ましそうに見つめていた。空には巨大な雲が陽光を遮りながら、悠然と流れていき、瞬く間に池は闇と化した。だがその巨大な雲が通り過ぎると、水面は再び眩いばかりの光の粒に覆われていった。元太は飽きもせず三人の釣りをずっと眺めていた。するとその中の一人が、
「そろそろ帰らないか⁉」
と叫び、その声が木々に谺した。すると他の二人も釣り竿を大きく上に振り上げて合図をし、さっさと竿をたたみ藪の中へ消えていった。元太は三人が去ったあと、なんとなく心寂しくなり、ぼんやりと水面を泳ぐアメンボを眺めていた。そのうち元太の腹がぐうーっと鳴った。ふと気がつくと、先刻まで池の水面に映っていた光の粒は消え失せ、ひっそりと静まり返った水面は、まるで墨を溶かしたようにどっぷりと黒光りしていた。その時元太の右足にチクリと尖った痛みが走った。元太は反射的にパチンと右手で脛を叩いた。元太の細い右足の脛には、虫刺されのあとが赤く腫れ上がっていた。元太はそれを見て飛ぶように藪の中へ突進していった。
元太は息を切らし畦道に出ると、時折脛を指で掻きながらもと来た道を戻っていった。そして元太は歩きながら、
(そろそろ幸江ちゃんが帰ってくるかもしれない・・・)
とふと思った。やがてジャリ道を抜け、舗道に出ると左折した。元太はアスファルトに浮かぶ自分の影が、異様に長いようなそんな気がしてならなかった。しばらくして白い館が遠く元太の視線に入ってきた。そして館まであと僅かというところで足を止め、道の脇にあるジャリを敷き詰めた駐車場らしきところへ忍び入った。
白い館は、夏の夕暮れにひっそりと佇んでいた。元太はこの場所で小一時間幸江を待った。すると元太の眉根がピクリと動き、突然瞳に青いワンピースが飛び込んで来た。幸江は白いハンカチを額に二、三度あてがい汗を拭っていた。汗が滲み、うっすらと濡れて光る白い項が、やけに色っぽく見えた。だが幸江は黒い門を開けた刹那、吸い込まれるように中へ入っていった。
元太は家に帰る途中、歩きながら今自分のしていることが一体何の為なのか考えていた。勿論それは自分に対する欲求を満たす為の行為である事はなんとなくわかる。しかし先程のようにほんの僅かでも幸江の姿を見ることができれば、それだけで本当に欲求は満たされるものなのだろうか・・・。いや、それは違う。欲求を満たすどころか、心の中にある蟠りがただ幾重にも体積されるだけのような、そんな気がしてならなかった。その上心のどこかで、自分はまるである種の罪を犯しているような気持ちさえ抱いていた。だが今後一切、塀の影から幸江の姿を恰も覗き見するような行為は絶対にしないか?と自問しても、何も答えてくれはしなかった。
元太は家のガラス戸を開けると、
「ただいま・・・」
と気の抜けた声を出し部屋に上がった。豊子は台所で夕飯の支度をしながらまったりとした口調で、
「お帰り、遅かったわね」
と言った。
佐吉は黙って卓袱台の上に出ているお新香をパリッパリッと歯切れの良い音をさせながら噛み砕いていた。元太は卓袱台の奥へと廻り込み、壁に上半身を凭れかけ坐った。すると佐吉はサッという乾いた音をさせ、マッチに火を付けた。元太にはそのマッチの火が、この薄暗い空間に、まるで羽根を広げ宙に舞う一匹の蝶のように見えた。少し経つと煙草の青白い煙が裸電球にむかって真っ直ぐに吸い込まれると、再び息を吹き返し、煙は四方八方に広がり、原爆雲の如く膨らんでいった。
元太の脳裏には、今朝孝一達に見せてもらったブリキの箱の中身や、校門の前の駄菓子屋で見かけた少年の満足そうな笑顔が鮮明に浮かび上がっていた。
(もし父ちゃんと母ちゃんに貝ゴマが欲しいと言ったら一体なんて言うかなあ?いや、そんな事俺の口から絶対に言えない。そう、言える訳がない・・・)
元太はもう一度天井に吊るしてある裸電球を見つめた。そこには一匹の小さな白い蛾が、電球の周りで絶え間なく羽ばたいていた。そして終いには、裸電球のすぐ脇に吊るしてあるハエ取り紙にぺたりと羽根が引っ付き、しばらくはパタパタとぎこちなく羽根を羽ばたかせていたが、やがてその動きも途絶えた。
(あの蛾はまるで今の俺じゃないか・・・)
元太は哀れな蛾の姿を見つめていた。
元太は夏休みに入ってからというもの、毎日殆ど代わり映えのない生活を送っていた。
朝まず、ラジオ体操をしに神社ヘ行き、体操が終わると孝一と弘と三人で午前中いっぱい貝ゴマを廻して遊んだ。元太は始めの二、三日は全くコマを廻すことができなかったが、五日ほど経ってなんとかバケツに張った布の上で廻せるようになってきた。そして午後になると、昼に一旦家に帰り、その日の有り合わせで昼食を済ますと、二時まで細川を橋の上から眺めていたり、川縁を歩いたり、時には校門の前にある駄菓子屋の店先を覗きに行ったりして暇を潰していた。そして二時過ぎになると図ったように『鈴木ピアノ教室』の門を、空き地のブロック塀の影から幸江の姿が現れるのを見続けた。元太は幸江が門の中に入っていくのを見定めると必ず門の前に立ち止まり、中から聞こえてくる心地よいピアノの音をしばらく聞き入っていた。それから元太は、毎日同じ道を辿って幸江の白い館を見遣りながらパッタ池へ行き、釣りをしている人がいるとその光景をぼーっと眺めていた。やがて辺りがうっすらと暗くなってくると、池を後にして幸江の帰りを駐車場の塀の影から待ち続けた。
元太は幸江のピアノのレッスンが休みの日曜日や、学校の行事がある日以外は毎日毎日こうした日々を送っていた。
夏休みが始まって間もない頃は、元太が夕方遅く家に帰ってくると、豊子は時折睥睨し、
「今まで何をしてたの」
と重い口調で訊いてきたが、そんな時は、
「孝一君達と遊んでた」
と言いその場を逃れていたが、夕方遅く帰る日がこう毎日続くと豊子もさすがに呆れ果てたとみえ、最近ではもう何も訊いてこなくなった。
そして尚且つ今日も元太は、幸江の姿を塀の影から覗き見している・・・
額に汗を滲ませて・・・
胸の鼓動が次第に高鳴り・・・
時は一瞬たりとも止まることなく徒らに通り過ぎ・・・
そして譬えようもない虚無感だけが元太の胸に残るのであった。
ある登校日の朝のことだった。元太は家を出て、細川の川面を眺めながら歩いていたら、川面に立つ小さな波に朝陽が反射し、朧げに光を放つ物体があった。元太は、「うむ・・・」と小声を洩らすと、波の立ったところをじっと目を凝らし見つめた。すると川面に鉛色した小さな石ころのような物が鈍く光っていた。元太は両膝を折り、上半身を伸ばし、顔が川面につきそうな体勢で右手を突き出し、それを掴んだ。その途端元太は、やった!と心の中で叫び、その場で両手を上げ何度も何度も飛び跳ねた。そして元太は薄茶色した半ズボンの右ポケットにそれを突っ込んだ。どうしてこんなところに貝コマが落ちているのか多少訝しく思ったりもしたが、それほど深く考えもせず、足早に舗道を駆け畦道を進み、校門を通り抜け教室に入っていった。元太は自分の席に着くと、右手でポケットの中にある貝コマを優しく撫で、その滑らかな感触を楽しんでいた。だが元太は触るだけでは満足できなくなり、その姿を直に見たくなった。
元太は注意深く自分の周りを見渡すと、椅子から立ち上がり教室を出て便所へ入った。元太は便所のいちばん奥の扉を開け、中に入って鍵を閉めた。そして右手をポケットに忍ばせ、貝ゴマを取り出し、右の掌に乗せ、目を皿のようにして見つめた。しばらくして元太はコマを再び半ズボンの右ポケットに仕舞い込み、笑みをたたえながら便所の鍵をはずし外へ出た。だがその瞬間、元太の顔に浮かんでいた笑みは突然消え失せ、顔がみるみるうちに歪みはじめ、体が硬直し、血の気が引いていった。
「お前、この中に入って何してたんだ」
「何って・・・」
元太は今、自分の目の前に怪訝な表情で凝立している岡山一雄の黒ずんだ上履きの爪先を、虚ろな目で見ていた。
「元太、お前何か隠してるな」
「隠すって・・・?」
元太は声もろくに出せないほど、たじろいでいた。すると元太は即座に何を思ったのか、便所の出口にむかって走り出した。がしかし、一雄の右手が元太の右腕を強く握り、胸ぐらを掴まれた。
「何で逃げようとするんだよ」
一雄はそう言うと、元太を便所の壁にへばりつけ、ズボンのポケットをまさぐった。
「なんだこりゃ、何でお前が貝ゴマなんか持ってんだよ。誰から盗んだか言え!言えよほら‼」
一雄はその貝ゴマを右手で掴み、顔のすぐ目の前でちらつかせた。
「ほら!本当のことを言え!言わないと皆にばらすぞ」
「かっ、川で拾ったんだ」
「嘘つくんじゃねえ!」
「ほっ、本当だよ・・・信じてくれよ、お願いだから・・・」
元太の瞳が次第に潤んできた。
「よくわかった。お前がその気なら俺にも考えがあるからな。今日のところはこれで勘弁してやるが、これで終わったと思うなよ。じゃーな」
一雄はそう言い捨て、元太が細川で拾った貝ゴマを両手でポンポンと交互にキャッチしながら便所を出て行った。元太はしばらくそのまま壁に凭れながら、魂が抜けたみたいにただ黙って立ち竦んでいた。元太の左の瞳から一粒の涙が頬を伝い顎の先から便所の床へ落ちた。元太はただ茫然として便所を出、教室に入り席に戻ると、ランドセルを肩に背負い誰に話しかけることもなく、黙って教室を去っていった。
元太は校門を出るとあてもなく彷徨い歩いた。すでに元太の胸中には、相手に対する敵愾心や怖気、それに自分自身に対する苦悶や自虐など一切消えてなかった。
元太はいつの間にか幸江の館の前に立っていた。そしてしばらく二階の一番左のぬいぐるみが飾ってある窓を眺めると、そのままの格好で天を仰いだ。眩しい日差しがねっとりと首筋に絡みついてきた。元太は視線を落とすと歩き出した。だがその足取りは重く、どことなく虚ろで、まるで自分の意思で動いているのではなく、全く別の何者かに翻弄されているような姿貌であった。
元太は自分の両足の成すがままに歩き続け、バッタ池の辺にやって来た。元太は依然虚ろな眼差しで水面を眺めていた。しばらくすると池の中程が次第に淡く白みはじめ、泡立ち、そして飛沫を上げながら透き通るような真っ白い手が、指先からゆっくりと片手だけ水面に浮上し、そのうち元太に優しく手招きをしだした。元太はその手招きに誘われ一歩一歩歩き出した。そしてあと一歩で右足が水面にのめり込もうとしたその時、また得体の知れない何者かに右手を掴まれ、強引に後方へ引っ張られると、その勢いで池の縁の草の上に倒れ込んでしまった。元太は暫時目を閉じたままそこに横たわっていたが、程なく目が開き、我に返った。元太はなぜ今、バッタ池の縁に自分が横たわっているのか不審に思えてならなかった。
(・・・俺は一体ここで何をしていたんだろう・・・)
元太はそんな事を考えているうちに、段々と手足の先が小刻みに震えだし、その恐怖から逃れるかのように必死で草むらに体ごと飛び込み、畦道を走り去っていった。
元太が過ぎ去ったあとのバッタ池は怖気立つ程深閑とし、不気味な笑みを浮かべていた。
八月も中程を過ぎた或る日のことであった。
元太は相変わらず塀の影から幸江がピアノ教室から帰ってくるのを待っていた。すると突然、
「元太君、こんな所でなにしてんの?」
と言う声がして、余りの驚愕に思わずあっと叫びながら思いっきり後ろに体が浮き、ジャリの上へ尻から落ちた。元太の目の前には岡山一雄と石橋明が立っていた。その時元太は、先日学校の便所で一雄が最後に吐いた言葉が頭に針をつついたようにいたく思い出された。
―これで終わったと思うなよー
元太は言葉を失い震え上がった。
「元太、まあ今からおもしろいことしてやるからよ。もうちょっと待ってろよ」
そう言う一雄の後ろで、明が不気味な笑みを浮かべていた。
「おい!」
明が一雄の肩を叩き、幸江の館の方を指差した。
「よし!」
一雄はそう言った途端、
「おーい!ゆきえー‼」
と大声を張り上げた。幸江は一体何が起こったのかわからず戸惑った様子で、門の前から三人を見ながら呆然と立ち尽くしていた。すると突然一雄と明が元太の両腕を掴み、幸江が立っているところまで引きずるように引っ張り始め、元太は渾身の力でもがきながら抵抗した。
「やめてくれ‼やめてくれ‼」
元太は半べそをかきながら何度も何度も叫び続けた。その悲鳴に近い叫び声は、幸江に近づけば近づく程大きくなっていき、夕暮れの茜色の空に悲しく響き渡った。しかし抵抗も空しく、元太は幸江のすぐ目の前まで連れて来られた。
「どうしたの⁉」
幸江の円らな瞳が一段と見開き、元太の醜状を見つめていた。
「こいつ、夏休み始まってから・・・」
「やめてくれ‼」
元太は一雄の声を揉み消すかのように大声で叫んだ。
「何なの⁉岡山君はっきり言って!」
幸江は真剣な眼差しで一雄に渇望した。
「だっ、だからその・・・」
一雄はその時、元太の哀れな姿にちらっと目を遣った。
幸江は激しく詰問した。
「だから毎日あそこの影からお前のこと覗き見してたんだ」
一雄は駐車場のブロック塀を指差した。
「きっとこいつ幸江のこと好きなんじゃないか?」
明がそう言った時、元太の体はまるで風船が縮むように力が抜けていき、地べたに跪いた。
そし幸江は言った。
「元太君、今岡山君達が言ったこと本当のことなの?」
元太は何も言わずただ項垂れていた。
「何で!何でそんなことしたのよ!」
幸江のいつも優しく涼しげな瞳はもうそこにはなく、一変して冷たい焔のようなものが点じていた。
「私、元太君みたいにはっきりしない人大嫌い!もう二度とそんなことしないでね‼」
幸江は道に跪く元太を蔑みながら、小走りで門の中へと入っていった。
「じゃ、俺達も帰ろうぜ・・・」
一雄と明は元太を置き去りにして、この場から逃げるように立ち去っていった。
いつしか空は橙色した残陽が映え渡り、美しい光を放ち、一人残された元太を包み込んでいた。
しばらくして元太は重そうな体をゆっくりと立たせ歩き出した。そしてちょうど田んぼの畦道にさしかかった時、元太の瞳からは頬に濡れて光るほどの涙が溢れ出した。先ほどまで橙色をしていた残陽は、今は田んぼ全体を見事な朱色に染め上げていた。いつもなら真っ直ぐに続く畦道もまるで蛇のように左右にくねって見えた。元太はその道を嗚咽しながら全速力で駆け抜けた。生暖かい風が元太の体を覆い、激しく通り過ぎていった。どこかでカラスの鳴き声が聞こえた。
元太はその晩豊子に、
「ちょっと涼んでくるね」
と言い、細川の橋の上で何となく川面を眺めていた。もうとっくに陽は暮れてしまい、辺り一面は静かな空気に包まれていた。
その時、ずっと先の闇の中から異様な形をした物体が流れてきた。元太はやや首を右に傾け、細長の目を一層細くしその物を見つめた。そして橋の下に着たとき、右手でいとも簡単にそれを拾い上げた。
(なあんだ、つまらん・・・)
元太は手に取ったばかりのセルロイドの着せかえ人形を見つめ、落胆した。元太はその人形をすぐに川へ投げ返そうと右腕を高く伸ばし振り下ろそうとしたが、急に躊躇い、もう一度人形の顔を見つめ直した。すると人形の円な瞳が幸江の瞳と重なり、次第に凛とした口元までもそっくりに見えてきた。元太はふと我に返り思わず左手で両目を擦って、再び人形の顔を見た。だがそこにはもう幸江の瞳も口も失せていた。
(・・・一体、どうなっているんだ!畜生‼・・・)
元太は怒りを露にし、その人形を川面に叩きつけた。人形の廻りには大きな波紋がじわじわと川辺にむかっては撓んでいき、元太はその様子をしばらく見ていた。
(畜生!)
元太は両方の掌で頭を抱えながら両目を強く瞑った。するとポツンと囁くような音を残し、川面に小さな波紋が立った。だが元太にはその小さな波紋など見える筈がなかった。
・・・ポツン・・・そしてまた一つ小さな波紋が紫色した川面にゆらゆら揺れていた。
その日は嫌に静かな朝だった。
いつもならチュンチュンと鳴きながら雀がトタン屋根の上で鬼ごっこをしているのだが、そんな音もしない。それにいつも聞き慣れている細川のせせらぎも、今朝に限ってなぜか耳に入ってこない。元太は少し不思議な念を抱いたが、そう深く考えもしないでラジオ体操に出かけた。元太は例の一件以来、幸江の後を追うことはやめた。しかし幸江を思う元太の気持ちはますます強くなるいっぽうであった。幸江を思うと胸の奥がまるで錐を刺したように傷んだ。特に夜などは、一晩中幸江の顔が頭に浮かんで消えない夜もあった。
(・・・ただ幸江ちゃんに会いたい)
たったこれだけのことなのに、なぜこれ程辛く、そして苦しい思いをしなくてはならないのか元太は悩んだ。
「元太、最近少しおかしいなあ」
孝一は元太の顔をまじまじと見つめながら言った
「よし、やった!」
元太の廻したコマが、孝一のコマをビシッと外へ弾き飛ばした。
「今、何か言ったか?」
元太はあっけらかんとした表情で孝一を見た。
「いや・・・。何でもないよ」
孝一は元太に弾き飛ばされたコマを拾うと、
「元太、今日は何か用あるか?」
と訊いた。
「別に何もないよ」
「じゃ、午後からバッタ池で釣りしないか?」
「えっ、釣り⁉でも俺竿持ってないし・・・」
そう言って俯く元太に弘は、
「父ちゃんの竿貸すよ」
と言った。
「本当か⁉」
「うん!」
「それじゃ決まった。一時半にバッタ池に集合だ。餌は俺が持ってくる。いいな!」
「うん‼}
孝一のかけ声に、弘と元太は大声で答えた。
それから元太は飛び跳ねるように家へ帰った。部屋に入ると、すぐに時計を見た。時計の針はまだ正午前を指していた。元太はふと佐吉に目をむけた。すると珍しいことに、佐吉の傍らには酒壜一つ見当たらず、ただ畳の上に寝そべってぽかーんと天井を見つめていた。
元太は昼飯を食べ終えるとまだ十分時間があるというのに、気も漫ろでバッタ池に出かけようとガラス戸に手を掛けた。だがその時であった。
「元太・・・」
元太は一瞬空耳かと思ったが、それとなく佐吉を見た。すると佐吉は憔悴しきった目で元太を見つめていた。
「なっ、何?」
元太は怪訝な目で佐吉を見つめた。
部屋の中は寂寞たる蒼い空気が立ち込め、しばらくすると佐吉は、
「いや、何でもない・・・」
と言い、元太から視線をそらすと、又寝転んだ。
元太がバッタ池に着いた時には、まだ二人の姿はなかった。
静かだった。まるで自分一人だけが現を離れ、別世界に舞い降りたような微かな幸福感を感じた。やがて繁みの中から弘の姿が現れた。
「早かったな」
弘は元太の側へ来てしゃがみ込んだ。
「ほら元太、これを使えよ」
弘は二本持っていた竿の一本を元太に差し出した。元太は弘に礼を言うと、渡された竿を沁みじみ見つめていた。すると、
「悪かった、ごめん!」
と言いながら孝一がやって来た。弘と元太はほぼ同時に後ろを振り返り、笑顔で手を振った。
「餌持ってきたか?」
弘が孝一に訊いた。
「ああ、これでいいだろう」
孝一は二人のすぐ目の前に来て、餌の入った木箱の蓋を開けた。
「すげえ!これミミズか?」
元太は目を瞬かせながら思わず叫んだ。
「じゃ、始めよう」
孝一はそう言って、あらかじめ仕掛けが作られてあった釣り針にミミズを付け、池に釣り糸を垂らした。それに続いて弘も元太もそれぞれ釣り糸を池に垂らし始めた。少しして早くも弘に当たりが来た。弘は慎重に魚を釣り上げた。十五センチ程の真鮒であった。元太はその場に竿を置き、弘の側へ駆け寄り、釣れた鮒に見入っていた。しばらくして元太は自分の釣り場に戻り竿を掴んだ。するとその直後、元太の浮きが激しく池の中へと吸い込まれた。元太は即座に竿先を持ち上げたが、なかなか魚は上がって来ない。竿は魚の進む方向に左右に振り廻されていた。そして最後に渾身の力を込め、思いっきり竿を引っ張り上げた。すると魚は空中に姿を現したと思ったらすぐに針から外れ、まるで歓びを表現するかのように二度三度体をくねらせ、再び水の中へ舞い戻っていった。いつの間にか孝一も弘も元太の後ろに立っていた。
「惜しかったなあ、ありゃ鯉だ。間違いないぞ」
首を左右に大きく振りながら孝一は言った。元太はいかにも悔しそうに両手で頭を抱え、草の上に寝転んだ。そして上体を起こし、しばらく魚の消えていった水面を虚ろな眼差しで見ていた。
やがて元太の耳に消防車のサイレンが聞こえてきた。その真っ青な空を切り裂くようなカンカンという甲高い音は、微かな余韻を元太の耳に残しつつ、次第に近づいて来て、そのうちサイレンはすぐ鳴りやんだ。
「元太ん家の方じゃないか⁉」
元太から少し遠ざかったところで釣りをしていた弘が大声で叫んだ。元太は弘の声を聞くと忽ち胸の鼓動が高鳴り、不吉な予感に駆られた。そして弘よりもっと遠くにいる孝一が、
「元太!間違えない!お前ん家の方だ!帰ったほうがいいぞ‼」
と、この静寂な空間を貫くような大声で叫んだ。突如元太の脳裏に、さっき家を出る前に見た佐吉の虚ろな眼差しが浮かんだ。元太の優しげな目元が憂鬱な表情へと変わっていき、身体中の血が逆流し始めた。
「じゃ、ちょっと見てくる‼」
元太はそう叫ぶと、竿をその場に置き去りにして、繁みの中へ消えていった。
元太は今、自分の瞳に映っている恐ろしい光景が全く信じられなかった。
トタンの屋根と壁の隙間から真っ黒な怪物のような煙が、もくもくと勢いよく吹き出していた。熱気を帯びた川風が元太の周囲に吹きすさんでいた。元太の胸は熱く、動悸は高鳴り、口からは息苦しい吐息が漏れた。消防車のホースからは絶え間なく水が噴射され、その水が霧雨のように元太の顔や肩を濡らし続けた。
(・・・父ちゃん・・・)
燃え盛る炎の中に、「元太・・・」と言って自分を見つめていた佐吉の憔悴しきった目が幻のように映った。
(父ちゃん・・・なぜ?・・・)
元太の目からは、涙とも、雨に濡れ滴り落ちる水滴ともわからぬような大粒の雫が流れ落ちていた。
(・・・母ちゃんは・・・)
元太は灰色の霧に包まれたアパートの周辺を懸命に捜した。だが豊子の姿は見当たらなかった。元太は必死の思いで、
「母ちゃん‼・・・母ちゃん‼・・・母ちゃん‼」
と何度も何度も繰り返し叫んだ。するとその瞬間、ドドドーっという轟音が元太の耳を引き裂いたかと思うと、瞬く間に狂ったような閃光が空間を錯綜し、辺りに暗雲が立ち込め、暗紅色の光が天覆に拡がり、凄烈な衝撃に包まれた。元太は後ずさりしながら両手で顔を覆った。
しばらくして元太はアパートに目を遣った。アパートは見るも無残に焼け落ちていた。焼き焦げたアパートから立ち昇る火の粉が、まるで篝火のように闇の中で美しく輝いていた。
元太はいつの間にか集まりだした野次馬の顔を一人一人眺めながら豊子を捜した。とその時、未だ灰色の煙が立ち込める焼け跡の中に豊子の姿があった。元太は豊子の傍にそっと近づき左の腕にしがみついた。豊子はごめんね、ごめんねと何度も繰り返し、優しく元太を抱きしめた。きめ細かい色白の肌の温もりのなかで、豊子の寂しげな瞳が濡れて光るのを元太はただ黙って見つめていた。そして元太は佐吉がいたと思われる焼け跡を額に皺を寄せ虎視した。
(・・・父ちゃんずるいよ、俺のことなんてどうでもいいんだ。だけど残された母ちゃんはどうするんだよ・・・)
元太は嗚咽した。
(父ちゃんと母ちゃんの人生って今まで一体なんだったんだよ!)
元太は胸中で叫んだ。それから元太は豊子の傍から離れ、波のようにうねっているトタンの壁をそっと右手の人差し指でなぞった。
元太の指先が焼け焦げたように赤褐色に染まった。
昨夜元太は、豊子のパート先の友人の家へ泊めてもらった。そしてその日の昼過ぎ、豊子の実兄である櫻井道男が山形から駆けつけてきた。
見事に焼き尽くされたアパートの残骸は、昨日皆を恐懼に陥れた事など微塵も感じさせず、ひっそりと静まり返っていた。その焼け跡に道男と豊子は立っていた。
「豊子・・・」
「なに?」
「元太と二人で山形へ帰ってこい。火事の後始末や何やらは俺が面倒見るから、なっ」
道男は豊子の横顔を見つめていた。豊子は今にも溢れんばかりの涙をじっと堪えていた。しかしとめどなくこみ上げてくる熱い胸裏の思いには、やはり堪えきれなかった。
「兄さん!」
豊子は道男の懐へ泣き叫びながら入っていった。
「ごめんね兄さん、心配ばかりさせて、ごめんね・・・」
道男は豊子のか細い体を強く抱きしめながら、
「いいんだよ豊子、いいんだよ・・・」
と何度も首を垂れながら、右手で豊子の艶のない黒髪を撫で続けた。
その翌日、近くの公民館を借りて慎ましやかに通夜が執り行われ、思いのほか多くの参列者が佐吉の遺影に焼香をしていた。その中には孝一や弘、それに元太の担任の先生の顔も見受けられた。佐吉の遺影を挟んで父方の親族が豊子の親族とむかい合う格好で坐っていた。皆突然のことだけに、悲痛な表情を浮かべていたが、特に亡くなった佐吉の兄である正男が、終始目頭に白いハンカチを押し付けて涙を拭っている姿が、元太の目に焼きついて離れなかった。元太は改めてすぐ側にある遺影を沁みじみと見つめた。するとその遺影に、元太が最後に見たあの寂しげな佐吉の顔が重なり合った。元太はなぜあの時佐吉を助けることが出来なかったのか、後悔の念で胸が張り裂ける思いであった。警察の話では、火事の原因は佐吉の寝煙草であると断定したらしい。元太はそれを聞いたとき、胸に大きな風穴が開いたような一種複雑で耐えがたい思いがした。
その翌日に行われた葬儀も無事に終わり、豊子の意向もあって、初七日を過ぎたら山形へ帰ることになった。
「元太、山形はええところだぞ。空気は旨いし、山も美しい。それに食べ物だって美味しいぞ。冬になるとな、日本中からスキーをしにやって来て、誠賑やかになる。それに田舎だから人の気持ちも皆おおらかで優しい人ばかりだ。元太にもすぐに友達が出来るから安心して山形へ来いや。いいな元太」
道男にそう言われた時、何の気なしに元太は無言のまま首を縦に振った。そんな元太の姿を黙って後ろで見ていた豊子が、急に泣き出したことを思い出していた。昨夜のことだった。
「元太!元太!」
元太は豊子の呼ぶ声で我に返った。
「なに?」
「明日、母さん学校へ挨拶に行くけどお前も行くかい?」
元太は首を横に振った。
「わかったわ。じゃ母さん一人で行って来るからね。それでいいのね」
豊子は二、三度念を押して言ったが、元太には今更学校に行くといった気は毛頭なかった。
佐吉が亡くなって一週間が過ぎた。豊子と元太は道男のお陰で、火事のあった翌日からは、駅の近くのビジネスホテルに泊まることができた。そして豊子は最後の身繕いをしていた。
「母ちゃん、お願いがあるんだけど・・・」
元太は鏡の前に坐っている豊子に言った。
「なんだい?」
「すぐ戻るから、ちょっと出かけて来ていい・・・」
豊子は黙って後ろを振りむくと、微かに口元を緩めて頷いた。
元太は生まれてから今日までお世話になったアパートの焼け跡を見つめていた。そして真っ黒に焦げた残骸の上を歩き、焼け跡の真ん中に立ってぐるりと周りを見廻した。すると元太の視線があるところでピタッと止まった。その視線の先には、半分焼け焦げてはいるが、確かに幸江と始めて出会った時に被っていた白い野球帽であった。元太はそっとその帽子を右手で拾い上げ、力一杯握り締め、目を閉じた。すると瞼の裏に、あの時のまだあどけない幸江の姿が浮かび上がり、胸に熱いものが込み上げてきた。
(・・・さようなら、幸江ちゃん・・・)
元太は胸の奥から込み上げてくる、切なさややるせない気持ちを自制する力を失っていた。元太は帽子を強く握ったまま、細川に架かる橋にむかって歩き出した。元太はいつものように橋の中程で立ち止まり川面を眺めた。
八月の陽光に照らされた細川が、元太の目にはなぜか淋しげに映った。
(もうお前ともお別れだな。沢山の思い出をありがとう・・・)
そう心の中で呟く元太の瞳からは、自然と大粒の涙が溢れ出した。こうして何度となく流した涙を、この川はいつも優しく受けとめてくれた。でもこれが最後だった。細川が蜃気楼のようにゆらゆら揺れて、元太にはそれが別れの挨拶のように思えた。そして元太は橋の上に正坐をし、自分の頬を木の板にあてがうと、頬擦りをし、両手で頭を抱え嗚咽した。
しばらくして元太はその場から立ち上がり、握っていた帽子をそっと川面に投げ込んだ。元太のふっと寂しげな憂いに満ちた瞳は、段々と下流へ流されていく帽子を、視界から消えてなくなるまでずっとずっと追い続けていた。すると、
「元太・・・」
と呼ぶ小さな声で、はっと我に返った。そして何気なくアパートの焼け跡に目を遣った。
そこには孝一と弘、それに元太のことを腹散々苛め続けてきた岡山一雄と石橋明も、孝一の大きな体躯の影に隠れるように立っていた。すると突然、一雄が、
「元太、悪かったな。ごめんな元太・・・」
と顔を歪めながら言うと、その場に跪き泣き出した。そして、
「おっ、俺も悪かった。今まで本当に悪かったな。元気でな元太・・・」
と言って明も項垂れ、目を強く瞑った。
元太はそんな二人の姿をまるで夢でも見ているかのような目つきで見ていた。
「元太、これ俺たちからのプレゼントだ」
元太は唖然とした表情を顔に浮かべながら、黙って孝一の側に歩み寄り、大きなブリキの箱を受け取った。すると元太はその箱が思った以上に重かった為、小さな体が左右によろけた。元太はひとまずその箱を地面に置き、蓋を開けた。だが元太は箱の中身をほんの僅か見ただけで、すぐさま蓋を閉めてしまい、箱から顔を背けると目頭を手で拭った。
「どうしたんだ、気に入らなかったのか?」
明は元太の様子を見て思わず口走った。元太は両手を目にあてがいながら首を横に振った。そして元太は、
「あっ、ありがとうみんな、・・・おっ、俺こんなことしてもらったこと、今まで一度もなかったから・・・嬉しくて嬉しくて・・・」
と言った。
「元太・・・」
孝一は感極まり、元太の肩を後ろからそっと抱きしめ、目から溢れ出す涙を手の甲で拭った。だが泣いているのは孝一だけではなかった。弘も一雄も、そして明も皆元太の傍へ来て別れを惜しみ、すすり泣いた。
その様子はまるで可憐な花のように美しく、子供たちの元太へ寄せる思いは、その限りない純粋無垢な心だけに宿っていた。
「おっ、俺そろそろ行かないと・・・」
元太は四人のくしゃくしゃになった顔を上目遣いで見つめた。
「俺たち送るよ」
孝一がそう言うと他の三人も頷いた。
元太はうんと言って、ブリキの箱を両腕で大事そうに抱きかかえ、川の縁を歩き出した。
元太は川縁を歩きながら細川の川面に目を遣った。不思議なことに先程元太の瞳に映った淋しげな細川が、今見ると生き生きとした表情に変わっていた。元太は目を細め川から視線を逸した。五人は間もなく名も無いコンクリートの橋の袂に差しかかろうとしていた。だがその時である。元太は何気なく川縁から橋の上を見上げると、突然歩を止めた。橋の上には、八月の陽光を背にした蒼白い瘦身が、青空に浮かび上がるように立っていた。元太は魂が抜けたように、一歩一歩その痩身に吸い込まれるかのように歩き出した。そして橋の上で向かい合うとそこで足を止めた。
「どっ、どうしてここに?」
元太はやや顔を紅潮させながら言った。
「昨日、岡山君と石橋君が私の家へ来て、明日元太君が山形へ行っちゃうから、どうしても最後にもう一度顔を見せてやってくれって・・・」
元太は橋の袂に立っている一雄と明に目を遣った。二人とも照れくさそうに下をむいていた。
「でも聞いて、私嫌々でここにいる訳じゃないの。どうしてもこの前のお詫びもしたかったし、それに・・・それにこれ渡そうと思って・・・」
元太は抱きかかえているブリキの箱をコンクリートの上に置き、幸江から真っ白な封筒を受け取った。
「これ・・・何?」
「夕べ必死に書いたの。後で読んで」
幸江の頬が少し赤らみ、そして目を伏せた。
愛おしかった。
幸江のその表情をじっと見つめていた元太の心に、切なさが込み上げてきた。
(もうこれで二度と会えなくなるのだ。澄んだ瞳にも優しげな笑顔にも、そして幸江ちゃんのすべてが自分の前から消えてなくなるのだ。もう会えないのだ・・・)
「手紙?」
「そう、手紙」
元太は真っ白な封筒を見つめると、幸江に礼を言い、耳を赤くさせながらぺこりと小首を下げた。
「じゃ、元気でね」
「幸江ちゃんも元気で・・・」
すると橋の袂に立っていた四人も橋の上に上がってきた。
「皆もありがとう。これ大切にするよ」
元太は地面に置いてあったブリキの箱を抱え上げた。
「それから俺、皆のこと一生忘れないよ」
元太は熱く込み上げてくるものを必死で堪え、顔を引きつらせながらも笑みをつくった。皆も泣いているのがよくわかった。幸江の大きな瞳がガラス細工のように光輝いていた。
「じゃ、ここでいいから」
元太はそう言って、後ずさりしながら皆に手を振った。そして皆に背をむけようとしたその時、元太の瞳に眩いばかりの細川が映った。すると一陣の風が川面を吹き抜け、まるで別れを惜しむかのように川面に光の襞を走らせていた。元太はその光景を見て思わず微笑み、さようならと心の中で呟き、背を向けた。元太は時折後ろを振り返り、皆に手を振りながら、お互いに姿が見えなくなるまで繰り返した。やがて皆の姿が視界から消えると、足早に道男と豊子が待つビジネスホテルへ急いだ。
「さあ、そろそろ行くわよ」
豊子の声がした。
「うん」
元太は返事をし、ブリキの箱を抱きかかえた。
三人はしんと静まった駅のホームに立っていた。しばらくして電車がホームに入ってくると、元太はしっかり豊子の右手を握り締め電車に乗った。
元太は電車の中で孝一達に貰ったブリキの箱を開けてみた。箱の中には沢山の貝ゴマやメンコが溢れんばかりに詰め込まれていた。「ほーうっ、凄いなこりゃ」
道男が箱の中を覗き込み、素っ頓狂な声を上げた。元太は箱の中の物を一つずつ取り出しては眺めていた。やがて電車に乗って数時間が経ち、気がつくと車窓は茜色に染まり、映画のスクリーンのように次々と流れゆく景色が、次第に黄昏してゆくのをぼんやりと眺めていた。通路側に坐っている豊子と道男は疲れのせいか、深い眠りに入っていた。そして思い立ったように元太は、自分の小さなバックの中から幸江に貰った真っ白い封筒を取り出し、中に入っている手紙を読み始めた。
元太君へ
元太君は今どこでこの手紙を読んでいるのでしょう。電車の中ですか?それとも遠い北の空の下でしょうか?
私はまず元太君に先日のことをあやまらなくてはいけません。あまりにもとつぜんのことでしたので、つい元太君をきずつけることを言ってしまいました。ほんとうにすみませんでした。
私、あの日の夜、自分の部屋に入ってゆっくり考えてみました。どうして元太君が私の目のとどかないところであのようなことをしていたのかと、考えているうちに以前母から聞かされた言葉を思い出したのです。
人はたくさんの出会いや別れをかさねながら、人を愛し、人をうやまい、人をいつくしむためにこの世に生まれてくるのです。と、 私はこの言葉を思い浮かべているうちに、私にとって元太君はとても大切な人であることに気づきました、ほんとうにふしぎなものですね。こんなに広い世の中で、たとえ一人でも私のことをたいせつに思ってくださる人がいるということが、なんてすばらしいことであり、なんて私はしあわせな人間なのでしょうかと。
私、そのうちなみだが出てきてとまらなくなってしまったの。私、泣きながらふと思ったのです。たとえばピアノって人間のように
心を持たないただ音を出すだけの楽器にすぎないのに、自分がさび
しい心でひくとさびしい音になって返ってくるの。もちろんうれし
い時も、そしておこっている時もやっぱりその時の感情をピアノの音は、びんかんにはんのうしてくるの。ね、ふしぎでしょう。たと
えば私が元太君に愛情をこめてせっすれば、きっと元太君は心の中
で愛を感じるはず、私が元太君になみだながらにかなしみをうった
えたら、きっと元太君の心もかなしくなると思うの。そう思うと人
間の心ってまるでかがみのようだと思いませんか。少なくとも私は
心の中で元太君の愛を感じます。それもとってもあたたかい愛を。
私ね、人に愛されることがこんなにしあわせなことだと思いません
でした。それをおしえてくれたのは元太君なのです。ありがとう。
最後になりますが、元太君がこれからくらすところはきっと寒い
ところなのでしょうね。くれぐれも体に気をつけてください。私、
元太君のいる遠い北の空にむかって祈ります。
元太君の幸せを。
ほんとうにいい思い出をありがとう。
さようなら
宮沢 幸江
元太は夕陽の沈む西の空を見つめていた。
旅立ちというには程遠い幼き心の中に、まだ未来という言葉はな
かった。
無論彼の失ったものは大きい、だがかけがえのないものも手に入
れた。
確かに彼は幼くして父親を亡くし、生まれ故郷を今去ろうとして
いる。しかし真心の通じ合う数少ない親友との出会いや人を恋する
心、そして幼き日に楽しい思い出も、この先長い人生を歩む上でか
けがえのない財産と成りうるで有ろう。
たとえそれらが憂愁に満ちた別れの数々であろうとも、きっとい
つか遠い夢の中の灯であると思える日が必ずや訪れ、時の流れは彼
の元へ新しき運命を運んでくることだろう。
そう思える日まで、頑張れ元太!




