2回目に理解した ②
2回目の最期に触れたもの。あれって、マジなんだったんだろ。
飲み干した紅茶のカップに着いた紅を拭うついでに自分の唇に触れてみる。
「ん? 何か用か?」
知っているとすれば近くにいたエリオリスだが、今、隣にいる小さなエリオリスが知るはずはなく、私は首を傾げた。
「いいえ、何でもありませんわ」
何の気なしに言って、カップをテーブルに置く。
エリオリスに呼び戻された後、私たちは別々にお互いの親戚縁者に挨拶をしていたが、結局「子供がそんなに気を使うな」という大人たちの一言で一緒のテーブルで菓子を摘むことになった。
言った大人たちはバルコニーにいた時と同じく遠巻きに私とエリオリスを見ている。なんか披露宴みたいで居心地が悪い。
エリオリスも同じ心情なのかそわそわと落ち着きなく頭を掻いたり、下唇を噛んだりしている。
下唇を噛む癖。
また、今回もあるのね。
癖は1回目でも2回目でも、その後の3回目も……4回目は確認していないが、どのエリオリスにもあった。
1回目はヤンデレ、2回目は俺様とエリオリスの性格に違いはあったが本質は変わらないのかもしれない。3回目と4回目もやはり性格がちょっとずつ違っていたがどのエリオリスも直上型、思い込んだら一直線、何があっても自分を曲げない傾向にあった。
癖も本質に繋がった彼の特性の一つなのだろう。
彼は自分の意に沿わないことがあるとストレスでか下唇を噛む癖が出る。
5回目の今回もそれは健在らしい。
今もぎゅっと、血が出るんじゃないかと心配になるほど噛み締めてる……って、ちょっと!
「殿下、大変申し上げにくいのですが、少し唇を噛みすぎですわ」
「ん?」
よく見るとエリオリスの唇は、今だけでなくずっと噛んでいたのか下唇だけガサガサに荒れていた。
本人はそれを気にも留めず平然としている。
今回だけでなく、前の婚約の儀でもそうだったのかしら。今までは自分に余裕がなかったので覚えていない。
王城の美容部隊は何やってるのよ! こんな美麗な顔に非が一つでもあるなんて国の損害よ?!
ロイヤルファミリーが魅力的であればあるほど、その身につけているものを欲しいと思う貴族や裕福な商家がどれだけ出てくるか、分かっているのかしら。経済効果がそれだけで変わるのよ?!
「殿下、ちょっとこちらに」
「え?」
戸惑うエリオリスに構わず、私は彼の手を引いた。
「噛みすぎて唇が荒れてるじゃないですか!」
「そうなのか?」
エリオリスが私の掴んでいる手とは反対の手で唇を触る。
「俺は気にならないが」
「貴方は気にならなくても周りは気にしますわ。見た目は貴方の数少ない長所なんですから大事になさってください」
「何っ!?」
おっと、まだ今回のエリオリスが残念な王太子に育つかは決まってない。口が滑った。
私は自分のいるテーブルを見回し、目当てのものがないと分かると、エリオリスを引っ張って隣のテーブルに移動した。
あ、あった!
私は目当てのものを見つけ駆け寄った。エリオリスも躓きながらついてくる。
山積みになったパン籠の横にあった、パン用のオリーブオイルとハチミツ。
私はその二つを取り分け用の小皿に垂らし薬指で混ぜ合わせた。
「こちらをお向きになって?」
「は?」
現状を飲み込めてないエリオリスに、私は混ぜ合わせたハチミツオリーブを薬指で彼の唇に塗ろうとした。
「何だ! 一体!!」
「動かないでくださいませ。うまく塗れません」
真っ赤になって、私から離れようとするエリオリスを強引に引き寄せる。
これから生まれる力の差も8歳の少年少女の間にはまだ無い。
身長もまた同じで、近づけば目線の高さはほぼ同じだ。
下唇と、ついでに上唇にもハチミツオリーブを塗り、ハンカチで薬指を拭う。エリオリスを掴んでいた手も離す。
「なんか、ぬるぬるして気持ち悪い」
手の甲で擦ろうとするエリオリス。
「ダメですよ。折角塗ったのに」
「だが、気持ち悪い」
「ハチミツとオリーブは唇の荒れと保湿に効くんです。しばらくそのままでお願いします」
私は拭い取ろうとするエリオリスの両手を封じるように握った。
必然的に私とエリオリスが向かい合わせで見つめ合うことになる。
「…………」
「…………」
お互い無言になる。
あれ? なんだろう、この既視感。前世でも似たようなことをやったことがあるような……。
えーと、オクラホマミキサーじゃなくて、あー、マイムマイムでもなくて……えーとぉ……そうだ!
「エリオリス様ってアルプス一万尺とか知ってます?」
「なんだそれ」
「ですよねー」
それはまさしく、手遊びの体勢だった。
両手を繋ぎ、せっせっせーのよいよいよい、と始められる体勢。
ここは日本人が作った世界だ。
住人の容姿は日本人ではないが日本語が通じ、日本の食べ物や植物の名前は全く同じ。
ニンジンはキャロットとは言わずにニンジンだし、ジャガイモもジャガイモであってポテトではない。私の好きなアップルパイも同じ味で存在する。
残念ながら醤油味のもの、和風の食べ物は世界観が違うのか見たことないが洋風であれば大体が存在した。
だからアルプス一万尺も伝わっているかと思ったが、さすがにそれはないらしい。醤油同様、世界観が違うか、やっぱり。
「では、手遊びとか知りませんか? 私はあまり知らなくて」
「手遊び?」
「お友達同士でやるお遊びですわ。歌に乗せて手を叩き合ったり握手しあったりする」
ちなみに私は1回目、2回目は知識の詰め込みと婚活に追われ友達を作る暇がなかった。3回目は、友達はいたが学園に入ってからだったし、4回目に至ってはそもそも人にほとんど会っていない。
なので、こちらの世界の子供の遊びというものを全く知らなかった。
急に黙ってしまったエリオリス。
友達がいないわけではないはずだ。
後々気をつけないと裏切ることもあるが、今の段階ではまだ親友と呼べる者がいたはずだし、他にも何人か同じ歳くらいの子たちと剣術の稽古をしているのを見たことがある。
男の子は手遊びをしないのかな。
私は質問を変えてみた。
「ではいつもご友人方とどんな遊びをしていらっしゃるのですか?」
「王太子は遊ばない。遊ぶ暇があったら一つでも多くのことを学べと、言われている」
そう言ってエリオリスは少し寂しそうに笑った。その子供らしからぬ笑いに、私の中の大人魂に火がついた。
子供なら子供らしく遊べやっ!
だからあんな情緒不安定なヤンデレや空気読めない俺様になるんじゃあああっ!!
「ならば私と一緒に今、遊びましょう」
「は? しかし今は儀式の途中で」
「正確には儀式は終わりました。今はお互いの家の交流を深めるための軽い懇親会中です。だから遊ぶ! 走り回ったりしない限り、私とエリオリス様が何かやってても、周りは『仲良くて結構』としか思いませんわ」
「そ、そうかもしれないが」
「はい! 文句言わない! てか、私がやりたいのっ! まずはアルプス一万尺からねっ!」
グダグタ面倒くさくごねる王太子様を黙らせ、私は手遊びを始めた。
「まずは、せっせっせーで繋いだ手を上下に3回降る! で、よいよいよいっで手を交差させて上下に3回!」
「せっせっせっー? のぉ? よいよいよい?」
「声が小さいっ! 子供は全力で遊ぶものよ?!」
「せっせっせっーのよいよいよいっ!」
「よし! 次は……」
こうして私とエリオリスは時間が許す限り手遊びに興じた。
しばらくすると物覚えの良い王太子様はアルプス一万尺をマスターし、高速で繰り出す私の手技にも付いて来れるようになった。
「あるぷす踊りとやらがどういうものか知らないが、案外面白いものだな。あるぷすいちまんじゃくとやらは」
先ほどとは違い、笑いが堪えられないという程で、エリオリスが言った。
お気に召したらしい。
他にもっとないのか、とせがむので私が知っている手遊びをどんどん教えてあげる。
『線路は続くよどこまでも』や『茶摘み』。
『おちゃらかほい』ではじゃんけんも教えた。なんとこの王太子様、じゃんけんも知らなかったのだ。
さらにしつこく教えろ、と言うので難易度を上げてやる。
『めだかの兄妹』と『みかんの花咲く丘』を披露したのだ。
この曲は今までの曲とは違い3拍子とリズムが取り辛く、手の動きも複雑だ。私も母から教えてもらった時になかなかうまく出来ず、遊びなのに半泣きになった。恥ずかしくも懐かしい思い出だ。
案の定、エリオリスは「何だそれは」と目を丸くしていた。
どうだ、出来ないだろう。ふふん、と鼻で笑ってやる。
けれど、そんな余裕はすぐに打ち砕かれる。
エリオリスは、この3拍子の曲たちも習得し私を奔走するまでに上達したのだ。
考えてみれば、ここは乙女ゲームとはいえ日常にワルツが存在する国である。
すぐに、めだかも泳ぎ疲れてくたばりそうな勢い、みかんの花も咲いたと思ったら散る勢いの高速手遊びが開始される。
日本人が作った世界で、でも日本人のいない世界。
価値観は日本だけど日本じゃない文化の、日本じゃない国で、日本の童謡とエリオリスの王太子らしからぬ、うひゃひゃという笑い声が響く。
次期国王としてその笑いはどうかと思います。
と注意しようとした時、何故か私の頰を涙が伝った。
「あれ?」
「どうした。どこか痛いのか?」
すぐさまエリオリスが心配そうに私の顔を覗いてきた。
どこも痛くない。私もエリオリスと同様、笑っていたはずだ。
なのに急に、ここが日本ではないことが寂しくなった。
私はもう、日本に、お母さんやお父さん、友達たちがいる世界に帰れないのだ。その事実が重く私の身体にのしかかる。
ループはしているものの累計すればもう、何十年もこちらの世界で生活しているのに何を今更と、自分でも思う。
日本に帰るなんてとっくに諦めていたはずだった。
私が童謡を覚えていても前世の自分の名前を忘れたのは、日本にいた時の私は死んだという自覚があり、もう帰れないと分かっていたから。早くこの世界に慣れようと思ったから、自分の名前を忘れるよう努力した。
なのに、無邪気にも童謡は私の心の奥底から故郷の記憶を引き摺り出した。
私が知る故郷、その帰り道などどこにも無いのに。
一度溢れ出した涙は止まることはない。
ああ、しまった。油断した。早く泣き止まないと、エリオリスが困ってるよ。
そう思うも、涙は滂沱と流れる。
何でよりにもよって、私、めだかとみかんの手遊び歌なんか選んじゃうかな。
歌詞が頭の中で繰り返し鳴っている。
「やっぱり、俺と一緒では不安か?」
「ふあん?」
見当違いのエリオリスの問いに私は問いで返した。
「その、俺が伴侶ではリディシアは不服か?」
今日は私とエリオリスの婚約の儀であったことを私は思い出した。そうか、婚約の儀で突然泣き出したら相手に不安や不服があると取られても仕方ないよね。
不安……今の私は不安、何だろうか。
4回も殺され、死亡フラグを回避するのに思いつく手段がない。5回目はどうすればいいのか分からない。
「……不安、とは違うのかもしれません」
「何?」
こんなことをエリオリスに言っても意味がないことは分かっている。毎回私を殺すことになるエリオリスに。
「私には夢がありません」
18歳で死ぬ私には将来の夢がない。
めだかだって夢をみるのに、私は何者にもなれぬまま、生涯を閉じる。
「私には帰る場所がありません」
日本には帰れない。この世界にもお母様やお父様、妹がいるけれど前世の記憶が邪魔をして、私にはここが帰る場所だという確信が持てなかった。
「私にはもう、どうすればいいのか分かりません」
考えられる手は尽くした。なのに死亡フラグは折れない。
「だから多分困ってるんだと思います」
困ってる、途方に暮れている、それが今の私の心情に最も近いのだろう。
希望に満ちた1回目から3回目とも、諦めて自暴自棄になった4回目とも違う。
誰も手を引いてくれない迷子だ。
「ふん。お前の言っていることは俺には意味が分からん」
「そう、でしょうね」
こっちは結構真面目に話していたのだが、鼻で一蹴された。
何だよ、そっちから聞いてきたくせにぃ。
「でも、それがお前にとっての真実なのだろう」
「え?」
「ならば俺はそれが何なのかは知らぬが、その真実ごと受け入れよう」
「え? は?」
「何を驚いているのだ。先ほど大神官様も言っていただろう。伴侶が重荷を持っていたならそれをもう片方が半分持ってやれと。そして互いを助け、国の為に為すべきことを為せと。もう忘れたのか?」
私の記憶力チートを舐めるな!
覚えてるよ!
覚えてるけど……エリオリスってこんな素直でピュアピュアな子だったっけ?
ぽかんと惚けてしまった私をエリオリスはそっと抱きしめた。
そして耳元でなおも続ける。
「覚えているのなら、リディシア、お前の背負っているものを一部だけでもいい、俺に預けろ。そして俺に守らせろ」
こんなことは5回目にして初めてだった。
毎回、婚約の儀は儀式でしかなかった。
何かの記号のように淡々と静かに進み、終わるだけ。
エリオリスとも私的な会話はしたことがない。
なのに今回は随分と色々なことがあった。
エリオリスの癖を見つけてハチミツ塗ってみたり、手遊びをしたり。私も少し喋りすぎた。
もしかしたら私は本当のエリオリスをまだ、知らないのかもしれない。
「ハチミツとジャスミンの香りがするわ……酔いそう」
私の髪に飾られたジャスミンとエリオリスの唇に塗られたハチミツの香りが混ざり合う。
「どちらもお前のせいだろ? ……すぐに慣れるさ」
「でも、酔いそう」
私はエリオリスの肩に顔を埋め、彼の背に腕を回した。
私の顔は涙と鼻水でべしょべしょになっていたはずなのに、エリオリスは受け止め、抱きしめた腕にさらに力を込めてくれる。
「だったらそのまま酔ってろ」
「うん……」
良いのだろうか。このままエリオリスの言う通り、頼ってしまって。
私のデッドエンドのシナリオの強制力は強力だ。
それはエリオリスの意に沿わなくても起こってしまうことは3回目、4回目で実証済み。
いくら小さなエリオリスが守るといってもいつか殺されてしまうかもしれない。
でも失敗しても6回目が始まるだけ、か。
5回目は何か変われば良いな。
僅かな期待と希望がまた、私の中で生まれる。
私はこの時だけでもハチミツの甘やかな夢に酔うことにした。