1回目は困惑した
「……シア、……ディ……リディシア=グランベルノ!」
それは私の名前ではない。
けれど本当の名前よりも多く、何万回、何億回と呼ばれ私のものとなってしまった名前だ。
とうに忘れてしまった本当の名前よりも身に馴染んだ名前を大人たちに呼ばれ、私の意識はまた覚醒する。
目の前には不機嫌そうにそっぽを向いた美しい男の子。
窓から差し込む柔らかな春の陽光に照らされて、黄金を溶かしたかのような金髪がキラキラと輝き、伏し目がちなその瞳は初夏の湖を思わせる澄んだ青色。
まだ幼いながらも整った顔立ちは将来、周囲の少女たちを魅了する美形に育つだろう。
いや、誰をも魅了する美形に育つことを私は知っている。
そんな彼と向き合った私もいつもと同じならそこそこの美少女のはずだ。
両肩に降ろされたストロベリーブロンドの髪には所々白いジャスミンの花が飾られ、少しつり目の瞳は若草色。天使のように美麗な彼の隣に肩を並べても遜色ない容姿をしている、と思う。
「さぁ、エリオリス=シュテインガルド殿下、リディシア=グランベルノ嬢、二人ともこちらに」
エリオリス=シュテインガルドとは向かいの金髪天使のことだ。殿下と呼ばれたように彼はこのシュテインガルド王国の王太子である。
私とエリオリスはお互いの従者に羽ペンを渡され、一枚の羊皮紙の前に立たされていた。
あーあ、もう、大きなあくびなんかしちゃって。
退屈なのは分かるけれど、少しは我慢しなさいよ。こっちなんてこのイベントもう5回目なんだから。退屈なんてものじゃないわ。うんざりよ。
白いローブを纏った大神官に促されエリオリスが紙にサインをする。
「リディシア嬢、貴方も」
やっぱりサインしなきゃダメ? したくないんだけど、ダメ?
縋るような目で周りの大人たちを見るが、私を助けてくれる者は誰一人としていなかった。皆、特に私の親族連中は期待の眼差しで私のことを見ている。
逃れられない。
私は観念して、羽ペンを紙に走らせる。綴りは手が覚えていた。一番最初の時と同様に。
名前を書き終え、彼にとっては初めての、私にとっては5回目の誓約が為される。
私の首にカチリと、見えない死という首輪が嵌まったような気がした。
私の心情とは裏腹に周囲から投げかけられる祝福の言葉たち。
「エリオリス様、リディシア様。ご婚約おめでとうございます」
覚醒はいつも必ずこの8歳の婚約の儀から始まる。
婚約者の名はエリオリス=シュテインガルド。
目の前の男の子。
聡明で美しく誰からも好かれるこの国の王太子という設定の、私を殺す男。
そして私はリディシア=グランベルノ。
私が日本人の少女だった頃やっていた乙女ゲームの悪役令嬢。
そう、私はいわゆる転生者だ。
それもただの転生悪役令嬢ではない。かれこれ5回も同じキャラに転生している古参の悪役令嬢だった。
◇◆◇
今でこそ、この8歳の婚約の儀にうんざりしてあくびを噛み殺すのに必死な私だが、一番最初の転生のときはわけも分からず周りについて行くので精一杯だった。
なんせ乙女ゲームはヒロイン視点で描かれるのだ。ゲーム開始前の悪役令嬢と攻略対象者の婚約の儀などスチルはおろか会話にだって出てこない。それがいきなり日本で死んだと思ったら大勢の大人に囲まれて金髪天使が目の前にいるのだ。ここは何処? 誰だお前状態である。
ここが乙女ゲームの世界だと気がついたのは儀式が終わった後、別室に通され気分転換にとバルコニーに出た時だった。
眼下に見える赤い屋根と白壁で統一された街並み。一際高く聳える時計塔。見覚えのある光景が広がっていた。
そこでやっと私は全て理解した。
乙女ゲームに出てきた街の背景と目の前の街が全く同じだということを。そして、金髪天使の正体と私が悪役令嬢になってしまったということを。
だけどよりによって悪役令嬢が最後死ぬ乙女ゲームに転生するとはねぇ。
そうなのだ。私は乙女ゲームが大好きで死ぬ前にも何本か並行してゲームをやっていた。その中には悪役が死なないものもあったのに……。
ゲームのシナリオはこうである。
市井で暮らすヒロインが実はとある伯爵家の落とし胤であることが発覚し貴族の子女たちが通う学園に入学する。そこで王太子を始め貴族や騎士のイケメン達と謀略もありつつ恋愛を繰り広げるという超王道ファンタジーだ。
私のキャラクターはそのヒロインを庶民と蔑みいじめ、最後は暗殺まで企てるというテンプレ公爵令嬢だ。
もちろん悪の限りを尽くしたキャラは古今東西成敗される運命だが、この世界では暗殺がばれて婚約者の王太子に剣で切られて死ぬという末路だった。今は可愛らしい金髪天使はシナリオでは正義感溢れる熱い男に成長するのだ。
そんな人生になってたまるか。
幸いゲームが始まるのは学園入学の16歳からだったので、私は覚醒した後、死に物狂いで知識と教養、貴族のマナーを勉強し、非の打ちどころのない令嬢になった。もちろんヒロインをいじめなんかしません。
疑われる隙すら与えない完璧な淑女の見本、それが1回目の私だった。
それなのに……。
◇◆◇
「エリオリス様、リディシア様。お疲れでしょう。あちらにお飲み物をご用意いたしました」
たくさんの人々に囲まれお祝いの言葉を浴びせられていたところに、休憩の声がかかった。
私とエリオリスはそれぞれの一族と共に翠玉の間を出て、天雲の間へと移動する。
天雲の間は外に面した壁すべてが天井から床までバルコニーへと繋がるガラス窓になっていて、部屋自体も儀式を行っていた翠玉の間より遥かに広く、開放的な空間に設計されていた。
広間にはテーブルが幾つか島のように配置されており、その上にはサンドイッチやクッキーなど軽くつまめるものや飲み物が置いてある。
私はそれらには手をつけず、バルコニーへと出た。
清々しい風が一陣、私の頰を撫でながら通り過ぎた。
うーむ、今回はどうしようかなぁ。
転生5回目にもなると、やることが少なくなってくる。死亡フラグを折るにも、どうしたらいいかネタが尽きてきた。
晴れ渡った空、赤い屋根と白壁で統一された街並み、高く聳える時計塔。
手摺から乗り出すと下は白い石畳が敷き詰められた広場だ。行進の練習をしている兵士たちの頭が小さく見える。
私が初めて世界を知った場所だ。
ここには初めての覚醒ともう一つ嫌な思い出がある。
1回目の私はこのバルコニーから身を投げて死んだ。合掌。
自殺ではない。私の人生は完璧だった。
問題だったのは私の婚約者殿だ。
ゲームの売りの一つに謀略、というのがあったのだが、エリオリスはその謀略の餌食となり孤立した。
本来ならそこでヒロインが王太子を支え見事国王となりハッピーエンドとなるルートだった。
しかし彼は精神的支柱をヒロインではなく婚約者で完璧な私に求めたのだ。
どうやら、好きですアピールもしていたらしい。
気づけるかっ! そんなもんっ!
こっちは社交界の猛者ども相手に癒しの女神と称されるまで笑顔を振り撒きつつ、裏では鬼の形相で貴族名鑑覚えるのに必死だったつーの!
そうでなくてもヒロインと王太子の間に割って入ったら死亡なのだ。婚約者として参加せざるを得ない催し以外はなるべく接点を持たないよう避けるのは当然でしょう!
かくしてエリオリスの孤独は精神を蝕み、崇拝に近い依存で私を束縛していく。立派なヤンデレの完成だ。
そして、遂にヤンデレが切れた。
ある日の夕刻、天雲の間に呼ばれた私はエリオリスに詰め寄られた。
どうして俺の気持ちに答えてくれないのか、と。
今思えばあの時の私は馬鹿だった。
ヤンデレ相手に正直に言ってしまったのだ。
貴方の相手は他にいる、と。
言った瞬間の彼の顔は輪廻の輪を超えて5回目の私の胸にも刻み込まれている。
その美しい柳眉は歪み、唇は苦渋にきゅっと噛み締められ、面差しには絶望が滲んでいた。
泣きそうで泣かない夜の闇に陰った青色の瞳が間近に迫り、首を絞めらた。
意識が朦朧とする中、耳元で囁かれる。
「ならばいっそ」
いっそ、て! 冗談でしょ!
しかし震える声は冗談じゃないことを告げていた。
足掻こうとしても力が入らない。
手摺まで詰め寄られ、上半身が仰け反る。そのまま強引に押され、二人共々、宙に投げ出された。
落下する浮遊感を感じ、強く抱きすくめられたと思った途端、意識が途絶えた。
次に目を覚ました時にはまた儀式の間で、小さなエリオリスがいた。
首を絞められる前と同じ色の瞳に見つめられ思わず号泣し、嫌な顔をされた。
まさかの悪役令嬢2回目の始まりである。
令嬢パラメーター、周囲好感度を上げなければ疑われ、攻略しない攻略対象のSAN値管理までしなきゃならないとかどこの無理ゲーだよ。と泣きながらツッコミを入れたのは言うまでもない。
1回目のあの時、正直にヒロインの存在を示唆せずに相手に合わせていたら私は無理心中しなかったのかなー。まぁ遅かれ早かれ殺されてたか。エリオリスの目、座っちゃってたもんなー。
ぼんやりと1回目の生涯を反芻しながらバルコニーからの景色を眺めていたら、後ろから声をかけられた。
「おい……」
「ヒッ!」
振り向きざま、あの青い目と合い、引き攣れた声が出る。
落ち着け! 今はまだ殺されない! まだっ!
怯える私をエリオリスは睨みつける。
「連中の相手を全て俺に押しつけるつもりか」
言ってから、まだ8歳の子供とは思えないような疲れた顔でため息をついた。
エリオリスの背後、ガラス窓の中では老若男女問わず、私とエリオリスの親戚一同がこちらを見ながら、時折笑い合いながら、ひそひそと会話をしているのが見える。
「……申し訳ありません」
スカートを少し摘まんで頭を下げ謝罪した後、私はエリオリスの顔に視線を移した。
そのままじっと数秒見つめ続ける。
「……何だ? 俺の顔に何かついているか?」
私の転生ライフも始まったけど、エリオリスの王太子としての重圧もこの歳ですでに始まっているのよね。
理不尽にも無理心中させられた私だが、どうしてもエリオリスを嫌いにはなれなかった。
親友に裏切られ、国王である父親を暗殺され、王妃の母親は毒を盛られて昏睡。心が壊れてしまう要因はいくらでもあった。責められはしない。
「私も大変だけどあんたも大変なのよね」
「あ? …………っ! ちょっ!」
小さく呟いてエリオリスのその柔らかそうな髪に触れ頭を撫でた。
案の定、さらさらとした心地良い手触りに自然と笑みが溢れる。
「なっ! ぶっ、無礼者!」
勢い良く手を振り払われた。強引に払われたため少し手首を痛める。
そうだった。エリオリスは幼い頃から気位が高かった。
王太子という立場なら当然かもしれない。
しかし、その気位の高さ、高慢さが2回目の私を殺した。
「婚約者になったからと言って王太子の頭を撫でるなど無礼であろう!」
「あら。申し訳ありません、殿下。殿下の御髪に花がついていたものですから」
「何?」
「私が髪に飾っていたジャスミンの花が殿下についてしまわれたみたいですわ」
嘘である。花などついていない。
あまりに綺麗な髪だったから触りたくなっただけだ。それから、何も知らないでため息をついた顔が恨めしくてちょっと意地悪をしたくなっただけ。
そうとも知らずにエリオリスは存在しない花を取ろうと頭を振ったり髪の毛を触ったりしている。
「大丈夫ですわ。私がお取りしましたから」
「そ、それを早く言え!」
顔を真っ赤にして怒るエリオリス。ちょっとだけ溜飲が下がった。