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言葉警察

作者: reime

 僕が言葉警察について思い出したのは、大学二年生の今にも年が暮れるという夜のことであった。


「言葉警察って何?」

と彼女が問う。当然であろう。言葉警察という行政組織は現在この世には存在しないのだから。


「言葉警察っていうのはね。……ううん、説明しにくいな。とても僕の貧相なボキャブラリでは巧く一言にまとめることができない。そうだね、それは僕が小学生のころにさかのぼる」

「さかのぼるの?」

「そうだよ。そもそも何でそんなことに興味を持つんだ? 今ここはベッドの上だし、今の今までとってもいい雰囲気だったじゃないか。『言葉警察』なんてあとで耳にタコができるくらい聞かせてあげるよ」


 すると彼女は悩ましげに斜め下あたりに視線を逸らして「ううん。今訊きたいの」と云った。

「今なの?」

「今でしょ」


 僕は深く溜め息をついて、去っていった数人の野口英世としわだらけですっかり老け込んでしまった夏目漱石のことを思った。やれやれ、ジョニー。今日も君の出番はなかったようだよ。


 ジョニーははちきれんばかりに身体を震わせて云った。「おいおいそれはないぜ。それに今このタイミングを逃してしまえば、もしかしたら永遠に童貞のままだぜ。なぁ俺は自分の能力を思う存分ふるいたいんだ。押し倒しちゃえYO」


 それは駄目だジョニー。冷静に、理性的に考えろ。今この段階で嫌われてしまえば、それこそ永遠にこんな機会はやってこないんだ。


「そこまで云うんならしょうがねぇ」そう云ってジョニーはしゅんと項垂れた。「だがな、お前のそういう態度はな、いつか取り返しのつかないことを招くぞ」

 ジョニーが云ったのは警句であった。


「ねぇ、どうしたの?」


 上目遣いで彼女が云った。濃淡の変化する光の加減で、彼女の瞳はまるで宝石のように輝いていた。


「……負けたよ。わかった。言葉警察について話そう」


 彼女はクリスマスプレゼントのおもちゃをねだる子供のように頷いた。そうして僕は語り始めた。





「おーいデブ」

と僕は数人から罵られていた。当時の僕は今では信じられないほどに太っており、しかも数人のグループからいじめを受けていた。と云っても殴る蹴るの行為を伴わない程度のものであったが、僕は言い返すほど口が達者ではなかったし、喧嘩も強いほうではなかった。教師は時々注意するのだけれども、民事不介入といった感じで、基本的には生徒同士の私的自治に委ねているといった状況であった。しかしまだ子供なので自治など出来るはずもなく、それでも子供なので大事には至らないだろうという楽観的な考えがあって、要するに無法地帯に等しいものであった。ついこの間までは。


「おいお前ら。いま何といったんだ?」

 恐ろしくドスの利いた声が辺りを支配した。「答えろ」


「こ、言葉警察だ!」

「逃げろ」

 いじめっ子たちは蜘蛛の子を散らすように駆けていった。


「どうも」

と僕が答えた先に居たのは巨漢である。六年生だろうか。高校生と云っても通りそうなくらいの体格で、身長は小学生なのに170センチは軽く超えている。針金で出来た束子たわしのように硬そうな頭髪、獅子を思わせる団子鼻、顔の肉に埋まり申し訳程度に付けましたという感じの小さな目。どう控えめに見ても美男子ではなく、ぱつぱつに張ったTシャツの中にははち切れんばかりの筋肉やら脂肪やらを蓄えている。


 当然ながら僕も怯えてしまって、身動きをとれずにいた。


「おい」

「はい」


「何か礼を云うだろう。普通」

 それもそうだ。「あ、ありがとうございます!」


 すると言葉警察は堂々と去っていった。





「ねぇ、その男の子が言葉警察なの?」

と彼女が訊いた。

「いや、言葉警察は組織なんだ。差別語だとか、悪い言葉を使う連中を片っ端から懲らしめていたんだ」

「なんでそんなことをするの?」

「さぁ? 小学生のすることだからね。皆目見当もつかない」


「まさか、話はそこで終わりってことないでしょうね」

「まさか」

と云ってみたものの、僕は終わらせたかった。「まだ続きがある」





 当時の僕の友人に中島と云う男がいた(実は現在でも交流を持っている)。

 彼は変わった男で、自分のノートの写しやテストの答えを予想して下級生に売りつけるなどして、月にもらえる小遣いの5~6倍の収入を得るなど荒稼ぎしていたが、手口を真似した同業者が現れたため競合が起こり、収益はすっかり減ってしまい落ち込んでいたところであった。


「やぁ中島」

「おお、磯野じゃないか」





「磯野?」

 彼女は何か珍しい動物でも見るような目つきで訊いた。「磯野と中島なの?」


「当時の僕の苗字は磯野だったんだ。いろいろあってね」と僕は嘘をついた。





 話は言葉警察に戻る。中島は新聞部に所属しており、言葉警察に関する記事を書いていた。

「そもそも言葉警察とは何なんだ」

といじめっ子から救われた経緯を話しつつ、僕は中島に尋ねた。


「あれは一種の自警団のようなものだ」と中島は語った。「言葉を取り締まる警察なんだ」


「どうして言葉を取り締まるのさ」

「それはね。言葉というものは危険だからだよ。あれはある種の魔法、呪いのようなものなんだ」


「呪い?」

「そう。例えばプラシーボ効果というものがある。ただのビタミン剤を末期癌の患者に特効薬だと嘘をついて処方したら完治した例があるらしい。他にも、恨みのこもった声で呪詛の言葉を吐きかければ、云われた相手は体調を崩すことがある。言葉というものは、人間に対して化学反応のように影響を与える。それを取り締まるのはみんなのためになる――言葉警察はそう主張している」


「まぁなんらかのサンクション(制裁)を設けることで『デブ』とか『ピザ』とか呼ばれなくなることはありがたいけどね。しかし彼らは暴力を用いるだろう」

「そうだ、暴力を用いる」

「そちらのほうが危ないんじゃないか。言葉は最悪無視すればいいし、呪いは信じなければいい」


 すると数瞬の沈黙を置いて、中島が問いかけた。


「なぁ、世界で一番人を殺したのは誰だと思う」


「いきなり何だよ……。そうだな、ヒトラーかスターリンかな。広島や長崎に落ちた原発も考えられるが、誰か特定の個人というと」


「それはね、イエスキリストだよ」

 中島は断言した。

「言葉の集まりが聖書という形を取ることで時間と空間を超越し、古今東西あらゆる人間を死においやったんだ。もちろん似たようなことはチャールズダーウィンもしているし、カールマルクスもしている。それは悪いことばかりではなく、むしろ言葉によって救われた人間も大勢存在するだろう。だが言葉は人間の存在を根本から揺さぶる。たとえ耳をふさいだとしても、文字を読まないように目をつむったとしても、言葉によって突き動かされる人々からの影響を完全に受けないことはできない。社会で暮らしているかぎりね」

 中島は続けた。

「言葉警察はいずれ僕の新聞を弾圧するだろう。僕の新聞もまた人を突き動かす可能性――魔力を秘めているからね。だが僕は暴力に負けるつもりはないし、言葉を駆使して戦い続けるつもりだよ。自由を守るために」


 そう締めくくるとちょうど申し合わせたかのようにチャイムが鳴り、休み時間の終わりを告げた。


 翌日彼はボロ雑巾のように打ちのめされて、体育館裏の雑木林で雨に打たれていた。すぐに保健室を経由して病院行きとなった。犯人は不明である。しばらくして新聞部は言葉警察の管轄となった。




 僕がそこまで話しているのを、彼女は頷きながら聴いていた。

「なぁ、本当にこんなこと聞いてて楽しいか?」

「かわいそうに中島君」

と彼女は僕を無視した。「 その言葉警察に対抗する勢力は現れなかったの?」

「たしか居たな。だがマッチョの集団である言葉警察に正面から挑んでも蹴散らされるだけだ。だから彼らはゲリラの戦術に出たんだ」





 言葉警察の横暴が公然化するにつれて、彼らに反対する声も出始めた――のであるが言葉警察は言葉を取り締まる警察であるため、言論の自由など許すわけがなく、そう云った声もすっかり息をひそめてしまった。中島は退院して再び新聞を執筆し始めた が、検閲により彼らの基準で問題のある箇所を墨で黒く塗りつぶされた。


 そんな中、現れたのがKKKである。「クー・クラックス・クラン」ではなく、「くたばれ・クズ・ 糞野郎」の略で主にテロを起こして言葉警察を撹乱した。体育の授業を控え着替えで混沌とした教室であるとか、ホームルーム終わりのタイミングで教室のどこかから「おし! めくら! つんぼ! びっ こ!」と声がする。言葉警察が駆けつけるとそこには誰も居ない。まるで煙のように消えてしまう。

 KKKの差別語のボキャブラリーはあまりにも豊富で感心してしまうほどだった。


 僕はKKKの頭領である「マザーファ●カー」の元へ取材に行った。僕は中島の意志を継いで小さな新聞を発行していたのだ。身の危険は承知であったが、言葉警察を告発するという思いがあまりに強かったのだ。「F●ck」とマザーフ●ッカーは云った。彼らの世界の挨拶である。「ファッ●」

「よぉデブ。俺を取材したいっていうのかい?」

「そうですね。あなた個人をというよりは組織の取材を求めています」


「組織」

 マザーファッ●ーはまるで口に入れた言葉を咀嚼するような時間を置いてから飲み込んだ。


「あのな。俺らは組織なんてもんじゃ無いぜ。緩やかなネットワークだ。『こうあるべき』を望む奴等に抗う『こうある』連中の繋がりだ。便宜上、俺がリーダーみたいになってるが、別に俺がいなくなっても構わない。そういう風に出来てるからな」


「共有している思想だとかはありますか」


「思想ねぇ……」彼は如何にも気怠そうに云った。「考えたこと無いや。やりたいことやってるだけ」



 結論からいうとマザーファッカー率いる(率いていない)KKKは名前の通りくずの集まりであった。しかし彼らは野党的な人気を誇り、支援する者も少なくなかった。小学生たちは彼らをかばい、筋骨隆々とした言葉警察に戦いを挑み、なんと勝つ者も現れた。

 こうなってしまえば、もはや学校はYOUはSHOCK世紀末である。小学校はいわゆるホッブス的な万人の万人に対する闘争の状態に陥り、強い者が弱い者を虐げ、 弱い者が強い者の寝込みを襲う混沌と化した。翌月にはついに教師たちが介入を始めた。もはや 私的自治には期待できないと判断したのだろう。





「それで?」と彼女は訊いた。「言葉警察はどうなったの?」


「言葉警察は崩壊した」

 僕は結論を云った。


「どうして言葉警察は無くなっちゃったの?」

「内部で対立が起きていたんだ。あまりにも権力を持ち過ぎたものだからね」


 ここまで長い話になっていたものだから、ジョニーは縮こまり、眠りこけていた。まぁいいやと僕 は思った。「言葉警察……あれはなんだったんだろうな」

「それ私に訊いてるの?」と彼女が云う。


「半分独り言なんだけどね」

「私思うんだけど、言葉警察は言葉から人を守る警察なんだよね。いったい誰を守っていたんだろうね」


 誰を守っていたんだろう? 彼女がそう云って僕はハッとした。

「たしかに、KKKの放った言葉は誰かにも向かっていなかった。誰も侮蔑も差別もしていなかった。けれど言葉警察はそれをシグナルとして認識して、闘争へと向かった。信号機みたいなものだ。青になれば走り、赤になれば止まる」



「ねぇ私のこと好き?」彼女は唐突に彼女が訊いた。当然僕は動揺する。ジョニーがむくりと起き上がる。

「まぁ好きさ」

「まぁ?」

「好きだよ」

「私も好き。愛してる?」


「愛してる」

 僕の放った言葉は彼女の中で化学反応を起こし、 炎色反応のようにその頬を淡く染めた。

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