Best wishes for Christmas
Best wishes for Christmas
I hope your Christmas is filled with love and joy ………
雪が降ってきた―――。
肩にふわりと舞い降りた質量のないそれは、目に留めることで初めて認識できる。
わき目も振らずに駆けてきた都は、白い綿ぼこが草に覆われた地面に吸い込まれるように溶け消えるのを見てようやく足を止めた。足元がアスファルトではなくなったことで、自分が何時の間に公園に入り込んでいることに気づいたのだ。下ばかり見ていた顔を上げる。
音ひとつなく――でも、映像にはない確かな質感をもって空から降りてくる白いそれは、公園内のひょろ長い木の枝や、汚れたベンチに舞い降りて、ほんのりと発光している。すす呆けた都会の明るい夜でさえ、幻想的な闇夜に変えてしまう効果があるのだろう、この天からの贈り物というヤツには。特に、今夜のような日には絶好の、浪漫的情緒演出物――――。
「―――――」
のろのろと首を巡らせて、木々の向こうに広がる、まるで真昼のように明るい空を見やった。目が痛くなる程の華やかなネオンの明り……。眠らない大都市の夜が、そこにはある。楽しげに浮かれる街の喧騒が思い出される気がして、都は顔を歪めて背けた。
――――見たくない。
本当は自分も、あの明るい渦のなかで、幸せいっぱいに笑っている筈だったのだと思うと、たまらなかった。
『なによ、馬鹿ー!あんたなんて、大っ嫌い!』
握り締めた掌がヒリヒリと痛んだ。思いっきりぶったから、きっと真っ赤になっている筈。この掌と――――それから、あいつの左頬………。
「知ったことじゃないわよ。仕事とあたし、どっちが大事なのよ」
きゅっと口惜しげに唇を噛み締めた時である。
「おい、煩いぞ」
誰もいないと思っていたうら寂れた公園である。まさか声をかけられると思っていなかった都は、もう少しで悲鳴をあげるところだった。
「…………?」
見渡した視界の端に茶色っぽい色彩が掠めて、都は眉を寄せた。
ベンチに―――誰かが………いた。
白色灯の青白い光に照らされた石のペンチの上に、まるで春の日中のように無造作に、大の字になって寝転がっている人影があった。背格好から見ると、高校生くらいの少年だ。オフホワイトのセーター一枚の姿で寒くないのか、ぴくりとも動かない。セーターと同色のマフラーがぐるりと一巻きしているのと、長めな亜麻色の前髪のせいで顔は見えない。まるで眠っているかのようだったが、声は確かにその辺りからしたからこの少年のものなのだろう。
この雪空の下、正気の沙汰じゃない。極寒の夜の公園で、ピクニックでもあるまいに…。
どこかおかしいのかもしれない。それとも酔っ払い…………家出小僧……。どちらにせよ、ろくな手合いではあるまい。関わり合いになりたくないと、都は俯いて歩き始めた。
だが、数歩といかないうちに、今度は複数の人の気配に気づいた。ざわりと茂みが蠢いて、暗がりから数人の男たちが現れたのである。
しまったと思った時には遅かった。こんな場所をのんびり歩いているなんて、襲ってくださいと言っているようなものだ。いくら無我夢中で走ってきたからといって――――!
後悔しても遅い。あっという間に都は囲まれた。
「彼女ひとりぃ?」
「せっかくのクリスマスイプにひとりじゃ寂しいだろ」
「俺たちが相手をしてやるぜ」
後ろから腕を捉まれて鳥肌が立つ。
「は、はなして!」
振りほどいて走り出そうとしたが、隙なく囲まれて、逃げられない。足をかけられて地面に転がったところを、羽交い絞めにされた。
「だいたい一人はいるんだよねぇ。クリスマスに男に振られてふらふらしてやがるのがさぁ」
「へへへへ、俺たちが代わりに慰めてやろうって言ってんだぜぇ?もっと喜んだら?」
かあっと頬に血が上った。
「だれが……あんたらなんかに!」
きっと睨み付けて、渾身の力でむちゃくちゃに手を振り回した。だが、男たちはげらげら笑うばかりで、平然と都を引きずり始めた。手近な茂みへでも連れ込むつもりか、それとも車にでも乗せる気なのか。
「放して、放してよっ!いやぁっ!だれか、誰か……誰かっ!」
誰か助けてと、全身で叫んだ。外に出た声は掠れていたけれど、心の中で絶叫を上げた。
――――と、その時。
「おい、うるさいぞお前」
えらく場違いに静かな声が、彼らの間に割って入った。その声に、都はハッとした。この場に存在する第三者の存在を思い出したのである。
「そんなでかい金切り声をあげて、僕の耳を壊す気か、女?」
だが、助けを求めるより先に飛んできたのは偉そうな苦情。
助けるでもなく、かといって男たちに加わるでもなく――――この状況をまったく無視した奇妙な台詞に、男たちもそして都も思わず動きを止めて声のした方へ首をめぐらせた。
複数のぽかんとした視線を受け止めたのは、さっきまでベンチに寝転がっていた少年だった。身体を起こしてマフラーをぐいと引き下げると、艶のある亜麻色の髪の下から秀麗な容貌が覗いた。こんな状況にも関わらず、誰もが一瞬目を奪われた。整った顔立ちは、少女めいて見える程繊細に造られていた。ただ、挑戦的に引き上げられて唇と、鋼の槍のように毅い光を放つ瞳が、女性的と言うには程遠い場所に彼を置いていた。
少年は、自分に向けられた好奇の視線など蚊ほどにも感じていない様子で、勝手に不機嫌そうな台詞を続けた。
「女も女だが、そこの外野もだ。さっきからガチャガチャと騒音を立てて、煩いったらないだろーが。しかも、下品な言葉ばかり並べ立ててからに。なんだ、女とヤることしか考えてない足りない脳みそはどうでもいいとしても、その貧相なボキャブラリーをなんとかしろ。僕の繊細鋭敏な耳には全部聞こえてしまうんだ。脳内で考えるだけでも犯罪だね。言葉が不自由なのは本人の勝手だが、それを回りに撒き散らすんじゃない。迷惑千万、いい気分が台無しだ」
あまりの場違いさに、都は暴れるのも止めて固まってしまっていた。
(な、なによ……この子……??)
男たちも呆気に取られて、陶々と喋る少年の言葉を聞いていたが――――。
「本来なら、この僕の気分を害するなんて不遜なことをした輩は、完膚なきまでにコテンパに思い知らせてやるのが当然の報い、天の配剤ってヤツだけどね。特別に、今日の僕は気分がいい。見逃してやるからとっとと僕の聴覚半径から消えるがいい」
しっしと犬を追い払うように手のひらを振られてようやく、正気に返って顔を上気させた。
「てめぇ、何様のつもりだ!!」
この野郎―!」
少年に近い方にいた何人かが、いきり立って問答無用で拳を振り上げた。だが、殴りかかっていく男たちの腕の下から、都は見た。わずか一瞬の間。なんの感慨もなく、ただ面倒臭そうに目を細めた少年の顔を。
「ったく、うっとおしー……」
にっと上がっていた唇から、それまでとは違った低く透き通った声が漏れた。
「『さっさと行っちまいな、野郎ども』」
少年の睫の寸前で、拳がぴたりと止まった。
「…………?」
都は呆然と目を見開いた。
男たちは、ぱたりと糸の切れた人形のように肩を落すと、一斉にくるりと踵を返して歩き始めたのである。
誰も一言も発しなかった。ただ、足だけが機械じかけのように素早く動き、のろまな上半身を引きずるようにして公園の出口へと消えていった。
「…………な、なによ……あれ!?」
都は、へたり込んだまま連中の後姿を見送った。暫く放心していたが、ハタと気づいて少年の方を振り向いた。この少年が何かしたとしか思えなかった。
何がなんだか分からず気味悪い。悪い―――が。
「……あの、ありがと」
一応助けてもらったのだからと、まず礼を口にした。
「なんだ、女。まだいたのか」
ところが降って来たのは、まるで都のことなど眼中になかったらしい、意外そうな声だった。
「………ちょっと。いたのかって何よ!」
「別にお前を助けたわけじゃない。僕は僕の崇高にして貴重な時間を邪魔されたくないだけだ。だから、お前も早く行け。変だな、全員追い払おうと思ったのにな。…………ああ、そうか。『野郎』と限定したからいけなかったんだな。そうか。僕としたことが、正確さに欠けたな。何時いかなる時でも、言霊には的確さが必要不可欠。むーむ、どうも気分がよすぎて気が抜けているらしい。ま、いいか。天才的資質と才能に溢れたこの僕だ。たまには些細なミスをするくらいがご愛嬌だろう」
「…………」
―――――ひとり言までが独善的だ。
どこまでもマイペースな少年の態度に、都はなんだかどっと疲れた。
すっかり冷え切った身体は、末端から感覚がなくなってきている。半分溶けたカキ氷の上に座っているようなものなので、どこもかしこもべしゃべしゃで気持ちが悪い。忘れていた疲労と、怒りの発作の後にやってくる地の底まで沈みそうな後悔と虚しさが一緒になって襲ってきて―――――なんだか、急に全てがどうでもよくなってしまった。
(あたしったら……なにやってんだろ)
遠い雑踏から微かにジングルベルが聞こえている。明るく浮かれた町の光を遠くに臨みながら、急激に虚しくなって行く自分を止められなかった。
この日の為にと、バーゲンセールの争奪戦で勝ち取ったお気に入りのワンピース。美容院に行ったばかりの髪、昨日の晩必死に何度も塗りなおしたマニキュア……。
どれもこれも転んだ拍子に破れて剥げて、めちゃくちゃだ。
(一生懸命……がんばったんだけどな……)
今日の日の為に。あいつに綺麗な自分を見てもらうために。
(馬鹿みたい……)
「こら、女!そんなところに座り込むな、へたりこむな。この僕が困るだろうが!お前、お前分かってるのか!?だいたいなぁ!お前が一番煩かったんだぞ!ここに入ってきたときから辛気臭い鬱陶しい愚痴ばかり垂れてからに」
都はぺたりと地面に両足を投げ出すとエナメルの利いたハイヒールの靴を脱ぎ捨て、自棄っぱちに言い返した。
「うるさいのはそっちじゃないの。だいたいあたし、何にも言ってないでしょ!」
何か――――なんでもいい、くだらないことでも。
ただ、喋っていたかった。
得体の知れない勝手な高慢チキであろうとも、今は――――ひとりでいたくなかった。
「口に出さなくても、思いが強ければ聞こえる。ボンクラには無理だろーが、天才言霊使いの僕には朝飯前のお茶の子さいさいだ!本来、言霊っていうのは、発する人間のメンタルの強さに比例してつ強力になるものだからな。お前、よっぽど不平不満が強いらしいな」
「言霊って何よ。さっきも言ってたわよね、言霊使いって」
「―――――言葉には、元々それ自体に力がある。どんな些細な言葉にも、だ」
無視されるかと思ったが、予想に反して少年は説明してくれた。
「その言葉の持つ力を最大に引き出して、増幅させ使役することができる力を持つ人間が、言霊使いだ。まあ素人にも分かりやすく言うと、だ。――――そうだな、今時はゲームなんかによく出てくるだろう。魔法使いの『呪文』なんかもそれに当たる。あれは、特別な言葉を組み合わせてより効率良く強力な呪力を得る為の小細工のようなものだ。そして、その『呪文』を使いこなせる術師が言霊使いと思えばいい。まあ、信じなくてもいいけどね。別にお前が信じたかどうかは問題じゃない。どちらにせよ、真実はひとつだからな」
「ふーん、ま、ホントでも嘘でもどっちでもいいわ。関係ないし」
「だったら聞くな!お前な――――」
「でもさ、あんた何にも呪文らしきもの言ってないじゃない」
「―――――僕の発する言葉は呪文になっていなくても、全て有効だ。僕がその気になりさえすればね。僕は特別製だからね。うん、つまり有能すぎて困るってことだなっ!―――っと。話が逸れたぞ。つまり、そんな有能な僕だから、お前のグヂグチウジウジした泣き声までが全部聞こえてとても迷惑してるんだ。だから、さっさと帰れ」
さすがにカチンときた。
――――というより、単にそれまで抑えてきた感情のリミッターがキレてしまったのだろう。
「……うるさいわね!ここはあんただけの場所じゃないわよ!あたしが居ようと居まいと勝手でしょ!!」
気づいたら思いっきり喚き散らしていた。
「帰れ帰れって……帰る場所なんかないわよ!!外泊するって、言ってきちゃったんだからあっ!」
何時の間にか涙声になっていた。なんだ男とケンカかと、少年がぽそりと呟いたのにも気づかずに、都はなけなしの意地で涙を噛み殺しながら思い返していた。
そうだ。
帰る場所なんてない。
あいつと、一緒に過ごすはずだった。
楽しい思い出になるはずだったクリスマスイヴ。
なんで、あたしはひとりでこんな暗くて冷たい場所に、この世の不幸を一身に背負ったような顔で座り込んでいるんだろう。メイクも服もぐちゃぐちゃで、みっともない顔して。
「あんな男、大嫌い」
都は唇を噛み締めて、親の敵のように嗚咽を噛み殺しながら低く唸った。
「あんなヤツ、仕事に埋もれて……死んじまえばいいのよ。前からの、約束だったのに。ずっと楽しみにしてたのにぃ。あたし……あたしを……馬鹿にしてぇ……」
涙で変な調子に歪む口調がみっともなくて腹が立つ。地面にうっすらとつもり始めた雪に、指の跡がつく。それをぎりぎりと引っかきながら、都は自分を宥めた。
少年は何も言わない。呆れて無視を決め込んでいるのだろう。
(そりゃあそうよね)
見ず知らずの女の愚痴を―――それも自分の邪魔をしている女だ―――聞いてやるような寛大な変人がこの世にいる筈がない。いくらこの少年が――――どう差し引いても見ても「奇妙な」奴だからといって。
「なによ……くだらないわ」
独り言でもいいから言いたかった。そうしないと、今にも崩れそうな自分を支えることができないような気がしていた。
「……クリスマスなんて、きらい」
「――――……」
「キリスト教徒でもないくせに、お祭り騒ぎしてさ。何を祝ってんのよ。お店のクリスマス商戦ってやつに乗せられてるだけよね。あんなの、馬鹿みたい」
負け惜しみを口にする。――――と。
「ああ、僕もクリスマスなんて、馬鹿らしいと思ってた」
聞いていないかと思われた相手から、応えが帰ってきた。
「え…?」
驚いて顔を上げてみると、少年は再びごろんとベンチの上に横になっていた。雪空を見上げている目は、雪明りにほんのりと照らされて透き通った琥珀のように綺麗に見えた。
「クリスマスっていうのは、キリスト教徒だけの神聖な儀式だ。僕らには何の関わりもない。それをお祭りにしてしまった日本人っていうのは何て愚かなんだろう――――そう思っていたな」
少年の口調からは、何時の間にか子供のような強引さが消えていた。そうすると少年特有の涼やかな高い声は、都よりもずっと大人びて聞こえた。
きかんきな幼い表情を消すと、整った顔立ちの良さが際立って彫像のようだ。
涙を目の淵に溜めたまま円く見開いて、都はそんな彼の横顔を見つめた。
「今もその意見は変わらない。が…………でも、そう悪いものでもないと、最近では思う。―――クリスマスってのは、優しくなれる日、だ」
「優しく……?」
「世界が優しい言葉で満たされる日だ」
そう言うと、少年はゆったりと目を閉じた。
「僕はお前が来て邪魔をするまで、ここで『言葉』を聞いていたんだ。沢山の人間たちが今口にしている無限の『言霊』を僕は聞き分ける」
「………」
「家から外の世界に出て、外の音を聞くようになって、気づいた。この日に発せられる言霊は……どれもがとても優しい。いつもはわざわざシャットアウトしなきゃならない程、鬱陶しい言霊ばっかりのこの世界だがな、この日は何故か良い言霊がほんの少し増える。だから――――今では、そう悪くないと思うようになった」
何かを聞いているように目を閉じたままの少年の木目細かい頬に、ふっと幼子のような無垢な微笑みが掠めた。
その理由を知りたくて都も耳をそばだてたが、何も聞こえなかった。声も、音も、何も。ただ、しんしんと降る雪の気配だけが、鼓膜の奥の深いところで震えているように感じられたきり。
夢見るように少年の長い睫が震えて、降ってきた粉雪を弾いてから開いた。
「一般人ってのは不自由だな。――――おい」
手を貸せと言われて差し出すと、ひったくるように握られた。
途端に――――。
次から次へと、言葉が耳の中に雪崩れ込んできた。
ちょうど、いきなり耳にイヤフォンを当てられてラジオを聞かされたかのように。
『メリークリスマス!』
『メリークリスマス!』
『今日は楽しく過ごそう!』
―――――弾ける、笑い声。
『少しだけど…これ、プレゼント』
『え……あ、あたしにぃ!?う、嘘……どうしよう…すっごい、うれしい……あたし、うれしいよぉ…』
―――――沢山の声が氾濫する。
『ねぇ、パパまだかなぁ』
『はいはい、もうすぐ帰るわよ。おいしいもの、用意して待ってようね』
『うん!手伝うっ』
『あたしねぇ、ナイショでプレゼント用意しちゃったんだー。喜んでくれるかなぁ』
『だーいじょうぶよ、ファイト、ファイト!』
―――――聞き分けられないほど、次々に。
『あ…あのっ!そ……そ…その花、くださいっ』
『あーっ、すみません!間に合ったー。まだケーキ残ってるっ!?待ってるヤツがいるんだよ…』
『おっと!遅くなった、遅くなった。急いで帰らにゃ……。たまには、いい夫しなきゃな』
『いつも御免な、苦労かけてる』
『あたしも…優しくなくてごめんね。今日は…今日だけはケンカはなし…』
耳に飛び込んでくるのは、どれも暖かな言葉ばかりだ。
誰かを想って、誰もがほんの少しだけ、いつもよりも優しい―――――。
都は眩暈に襲われて、空いているほうの片手を地に付いた。
耳を通りぬけ、真綿のようにやんわりと頭を貫いて、心の中に染み込んでくるこの暖かな泣きたくなるような熱を、都はなんと表現していいのか分からなかった。
暗闇にぽつんと灯った蝋燭の明かりのようなささやかな温もりと愛しさが、泉の底から湧き出してくるような感覚。
『今日ぐらいはね……』
『少しは優しくしたいじゃん』
『ごめんね、いつもありがとう』
『……うれしい』
『幸せってねぇ…』
あふれんばかりの言葉の渦に溺れて。そして、最後に聞こえたのは。
『―――だいすき』
プツン、とスイッチを切ったように、そこで音が途切れた。
ぱたりと自分の右手が大地に落ちたことで、少年と繋がっていた手が離れたのだということが分かった。
余韻で呆然としている都に、少年は言う。
「人ってのは、弱い。いつでも年中、優しくはいられない。でもなりたいと本当は思っている。せめて、年に数える程でも、何か……イベントがある時くらいは―――――そう思うんだろ。そのきっかけになるなら、それはそれでいい。クリスマスってのも、悪くない」
降り積もる雪にも似て、静かにそっと自分の中の空地へと蓄積されてゆくような響きに、都は何時の間にかひどく素直な気持ちで頷いていた。
誰かに優しくするための、日。優しくなりたいと思う、日。
誰もが本当は願っている。「いつも」は無理でも。至らない自分が、少しでも優しくなれることを。
そのきっかけを探している。待っている。
『―――――クリスマスってのは、優しくなれる日、だ』
瞳から、目の淵に溜まっていた水が、限界を超えてぽろりと落ちた。
それは地面に固まった雪をじわりと溶かした。胸の中に溜まった冷たいものも一緒に溶け出して、ゆるやかに広がっていく。冷えた表面を暖め、その下の乾いた土壌を潤してゆく。
尖った心を柔らかくして思い返して見れば、恥ずかしくなるくらい、くだらなかった。
ケンカの原因はなんだった?
仕事で今日は遅くなるって、そう言われたんだ。だから、予約していたレストラン、間に合わないって。予定を台無しにされたと怒った。仕事とどっちが大事なのと、子供のような我侭をぶつけた。
ささいなことだ。ホントに些細な…こと。
師走で忙しいの、本当は知ってた。大変なプロジェクトに抜擢されたってこと、分かってた。今が大事な時期だって、本当は分かってたのに。
「馬鹿だ、あたし」
来て、くれたのに。
わざわざ待ち合わせの場所まで走って。
忙しい仕事の合間を縫って。
わざわざ、謝りに駆けてきてくれたのに!
ぼたぼたと子供のように目を見開いて涙を零しつづける都のことなどまるで知らなげに、少年は上を向いたまま口を開いた。相変わらずの、少し偉そうな口調に戻って。
「さっきも少し言ったが、言葉にはそれ自体に力がある。だから何の力もないただの人間が使っても、実はほんの少しだけ強制力があったりするんだ。悪い言葉ばかりはいているヤツは悪い方へ、良い言葉ばかりを口にすれば良いほうへ。実に微細だが、確実に自分の口にした言葉の方向へ、人は向かっていく。―――だから、お前もそんなに汚い言葉ばかり口にするんじゃない。いつか、そうなってもしらないぞ。―――本気で思ってもいないくせに」
「…………うん」
キライなんかじゃない。死んじまえなんて、ホントになったあたしが死んじまう。
「本当のことだけを口にしとけ。そうしたら、後悔がない」
「うん」
本当の気持ち。
ケンカしても、ムカついても。本当は。
「――――大好き」
ふん、と呆れたように少年が鼻を鳴らした。
「馬鹿者。僕の前でノロケるな。いい迷惑だ。とっとと行け」
「でも……」
思いっきり、ぶった。いくらなんでも、きっと怒ってる。
躊躇う都を、少年はくるりと首だけ傾けて鬱陶しそうに見た。
「ったく、うじうじしたヤツだな!僕はそういうのが大嫌いなんだ!せっかくクリスマス特別サービスまでしてやったっていうのに、やり甲斐のない女だな。もう、何でもいいから、早く行けっ!邪魔だ邪魔だ、邪魔だって言ってるだろうが、さっきから。この僕が、邪魔で困ってるんだ。ああ――っ!もう面倒臭い!言霊仕掛けてやるっ!」
「え……」
「いいか、今から強制的にお前はここから退去、だ!んでもって、そのナントカいう馬鹿者のところへ直行だなっ!僕の言霊は強力だぞ。ぜったい避けられないぞ。お前が行きたくなくても、怒られるのが怖くても、関係ないね。――――ほら、行けよ」
覚悟して首を竦めたのに、さっきの連中を追い払ったような強制力はいつまでたっても来なかった。ただ、温かな手にそっと押されたような柔らかな感覚に、少年が煮え切らない自分にわざと言葉を投げたのだと分かった。
――――無駄にしたくない。
「行く」
勢いよく立ち上がって、散らばっていたヒールと鞄を掻き集めた。
「ありがと!」
駆け出しながら一言だけ叫ぶと、一瞬、耳慣れない未知の言葉でも耳にしたかのように驚いた顔をした少年が目の端に映って、可笑しくなった。
公園を出ると、華やかなネオンを背に、背の高い影がぽつんと立っているのに出会った。
「あ……」
追いかけてきてくれたのかと驚きに目を見張って、都は走るのを止めた。
余程急いで着たのか、背広にひっかかって奇妙な格好になってしまっているコートの肩に、雪が積もっていた。都が近寄って行くと、予想通り赤くなった左頬を痛そうに歪めて、憮然とした表情でそっぽを向く。その様子に挫けそうになりながらも、都は勇気を出して彼の正面に立った。背を押してくれている「言霊」はまだ有効だ。きっと大丈夫。
息を大きく吸い込んで一言、
「ごめんなさ―――…え…?」
半分頭を下げかけた都を止めるように、その鼻先にずいと白い紙箱が突きつけられた。きょとんとして顔を上げると、相手はぶっきらぼうに言った。
「………ケーキ。もう、1個しか残ってなかったんだ」
――――耳が赤いのは、寒さのせいじゃない。まっすぐ都を見ないのは照れている時の彼のクセで……。
「遅くなったけど、これからやろう、クリスマス。こんなんで…ごめん」
その言葉が終わるよりも早く、都はその首根っこに抱き着いていた。そして耳元で、本当の言霊を―――囁いた――――。
* *
「珍しくまともなことをしたな」
本気でそう思っているらしい物言いに、少年は思いっきり不機嫌な顔で、自分を上から覗き込んでいる長身の青年を見上げた。
「行きずりの人間にお前があんなに親切にするなんて明日は雪かもしれんな。――――と、今もう降っているか。ということは……」
青年は、一見すると柔和そうに見える顔を真剣に引き締めて、少年の頭に手を載せた。
「………お前、何やってる」
「いや、お前も成長したなと思ってな。いや、何かと苦労の多い二人暮しだが、やっと報われた気がするよ。いや、良かった良かった」
「撫でるなっ!僕は犬猫じゃないぞっ!僕は飼うのは好きだが飼われるのは嫌いなんだっ!」
ガバっと手を払いのけて、少年は置き上がった。青年は振り払われた手を暫く眺めて、
「ふむ……。どちらかというと、生まれたときから成長を見守ってきた主人の立派になった姿に涙を流す年老いた家老の心境だな。それに、この場合の立場を考えると、飼われているのはむしろ俺のほうだな」
「……………世間の善良かつ常識に溢れる方々が誤解するような台詞を、そのくそ真面目な面で吐くんじゃない!ただのお目付け!お目付けみたいなもんだろうがっ!餌なんざやった覚えもないぞ、勝手に懐くな」
「そうか?一緒にいるという意味ではどちらも同じだと思うが」
「ちがうだろ!」
真っ赤になって喚いた少年に対し、青年は平然と笑っている。
一見すると少年がからかわれているように見えるが、これで大真面目なのだから、始末に追えない。
普段は常識人ぶっているくせに、こういう時だけは、己が「普通」とはかなり程遠い部類の人間だと自覚している少年ですら、もしかしたら自分の方がマシなのではと思ってしまう。誰にでも優しいお人好しのくせに、少年を害するものに対してはぞっとするほど容赦がないし、周囲を気にしてみせるくせに、こっちが恥ずかしくなるほど臆面がない時がある。
長い付き合いだからこそ知っている相手の本性を思い出してがっくりと肩を落としながら、半ばヤケになって少年は、何しに来たと聞いた。青年は平然と微笑したまま答えた。
「迎えに来た。帰りが遅いから心配になった。俺はお前の番犬らしいからな。ついつい、長年の習性でお前の身を案じてしまうらしい」
一瞬、少年は苦いものを噛み潰したような顔で口をつぐんだ。それから深い吐息を吐きながら、不本意ながらも忠告してやることにする。
「さっき、あの女にも言ったんだが……お前、口に出す言葉を少し考えたほうがいいぞ。僕ほどの力はないにしても、一応お前もこっちの世界の人間だろうが。言霊の力はよーく分かっているだろう。だからなあ、ふざけるのは――――」
「俺は本当のことしか口にしていないが」
「………」
「それとも、昔『ついてこい!』と言った……あれはもう時効なのか?俺は別に継続しても気にしないんだが」
「…………お前、人生捨ててない?」
「………?何故だ…?お前といると面白い。――――今日は世界がいい言葉で満ちている日なんだろう。俺には残念ながら聞くほどの力はないが、お前が言うんならそうなんだろう。だから、今日は本当のことしか言わないことにしたんだが。―――――どうした、顔が赤いぞ」
「………いや、なんか……疲れた」
「熱でもあるかもれんな。こんなところに長くいるからだ。早く帰ろう」
「ああ、まったくだね。熱も出るさっ!情緒欠落鈍感臆面なしのお前と話しているとっ!あああああっ!もう、いいから黙って手を出せ!」
不思議そうな顔をした青年の手を引っつかんで、少年は憮然と告げた。
「お前にも聞かせてやる。……何も用意していないからな、クリスマスプレゼントだ。あの女にだけやったんじゃ、不公平だろ」
青年は驚いたように目を瞬いてそれから、歳の離れた兄がやんちゃな弟に向けるような顔で破顔した。
「……じゃあ、俺は……帰ったらお前の好物の激甘プリンをサービスしよう」
「生クリーム入りのロイヤルミルクティもつけろ」
「……了解」
それから二人は目を閉じて、世界に満ちる沢山の言葉を聞いた。
うつくしく響きあう、優しい囁きを。
『 Merry Christmas…… 』