008 零れる雫はそのままに
本日もどうぞ宜しくお願い致します。
「恐ろしく顔色が悪いな。…………風邪か何かか」
「へ?」
答えを導き出せずに頭を傾げる私。そこへ突然話し掛けられたものだから間抜けな声が出てしまった。
私は視線を彼に戻す。
こちらをジッと見ているがその表情に心配の色は見られない。本当によく解らない悪魔である。
「……あー風邪じゃないですよ。講堂で今日ペア発表があったんですけど……そこの空気に酔って気持ち悪くなったというか…………多分悪魔が撒き散らしていたフェロモン酔いです。私には強烈過ぎるみたいですね」
あれ何とかならないかなとぼやきながら彼を見ると少し驚いた顔をしていた……気がする。
気がするというのは表情の変化がほんの僅かだったからだ。
私は彼の顔をじっと見た。
さっきから会話をしてはいるけど……そもそも何者なのだろう?
制服を着ているから目の前のこの人は黒学の生徒ではあるようだが、ブレザーを脱いでいるので同級か先輩かを判別することはできない。ブレザーに学年ごとに色分けされているラインがあるのだ。それに年齢を判断するのに見た目なんて全くあてにならない。
見た目が年齢の判断基準にならないのは彼らが恐ろしく長寿だからだ。イグラントでは人間を除外した種族__死神や悪魔、天使などは地球人の10倍は生きるというから恐ろしい。……今は私も死神なのでその恐ろしい奴らの仲間入りを果たしているわけだが。実際、私の外見は5年前からちっとも変わっていない。年齢的には21歳なのに見た目は16歳のままなのである。かといって成長スピードが単純に10倍遅いだけなのかといわれれば少し違う。彼らの外見は地球人と同じように16歳くらいまで成長するのだ。しかし、そこからの成長、老いが物凄く遅いのである。外見が同じ年齢くらいなのに実は100歳以上年上でしたといったような事はざらにある。
よって、目の前の人物が何年生なのか、そもそも何歳なのか見当も付かない。私は迷惑を掛けたという負い目から彼に対して敬語で喋っているのだが、負い目があろうとなかろうと敬語で話すのは妥当だろう。
私は彼を凝視したままずっと気になっていた事を口にする。
「そういえば悪魔が近くにいても全然気持ち悪くなってないのが不思議です」
これだけ気持ち悪くなっているのに何故彼だけが大丈夫だというのか。そこに何か解決の糸口があるのだろうか。
解らないままだと実習が大変なことになってしまうのだ。ゲロリンしながら実習なんてものは御免被りたい。凄く気になる。
緊張しながら待っていると彼から思わぬ答えが返ってきた。
「俺が今それを撒き散らしていないからだな」
なんと。
「……押さえられるんですか?」
「寧ろ、出そうと思わなければ出ることはない」
何ということだ。アレは出し入れ可能だというのか。そしてそれを敢えてあいつらは撒き散らかしていたというのか。
なんて傍迷惑な。
この荒ぶる殺意をどうしてくれよう。
「……っ!うぐっ」
わぁー、吐きそう。
驚愕の事実に思わずガバッと思い切り身体を起こしてしまったのだ。それによりまた眩暈を起こして後ろに倒れる。今度は素晴らしい弾力を誇る敷布団が私を優しく受け止めてくれたので打撃ダメージはない。ありがとう、素敵敷布団。
だが眩暈によるダメージを免れることはできない。
「…………気持ち悪……っ」
私を中心に世界が回る。 勿論視覚的な意味で。
目を瞑ってもぐるんぐるんと回り続ける。
気持ち悪さは最高潮である。
堪えるために目を閉じてうーうー唸っていたら額に何かが触れた。目を開けると彼の手が当てられている様が見える。……熱はないと思うのだが。
相変わらず彼の顔に心配する色は見られない。何がしたいのだろうか。
「……楽にしてやる」
え?殺される?
それはいただけないと暴れようとした寸前、吐き気が治まるのを感じたので慌てて止めた。本当に言葉通り楽にしてくれたようだ。頭痛も治っている。
繰り出そうとした蹴りを途中で止めたので右足が少しベッドから浮いている……気付かれぬようそっと元に戻した。
……疑ってすみません。いや、でも悪魔に真顔でそんな言葉を吐かれたら誰だってそういう意味で受け取るのではなかろうか。
「……ありがとうございます」
そして疑ってすみません。
勿論言葉として出してはいないが心を込めて相手に伝える。
「……毒気を抜いただけだ」
毒気とはフェロモンの事だろうか。
確かに悪魔が撒くものだし、回収も容易に出来るのかもしれない。
私がもう一度礼を言うと短く「ああ」と返事が返ってきた。……視線が右足に行っているのは気のせいではないだろう。どうやらバレバレだったようだ。
私が思わずはははと引き攣った笑いをすると彼は微かに笑った。笑ったといっても口角が少し上がった程度なのだが。
何だか貴重なものを見た気がしてマジマジと見てしまう。だが、それはすぐに無表情に戻ってしまったのでほんの一瞬しか見ることはできなかった。
私が得した気分になっていると、彼は壁に掛けてある時計を確認して「そろそろ行く」とだけ告げ、立ち上がって出口に向かった。そして何か思い出したかのように立ち止まる。
どうしたのだろうかと見ていたら彼は頭だけ振り返って口を開いた。
「……口元を拭いておけ」
口元?
……。
…………忘れてた。
私は親切にも指摘された今だ口元に残っている涎を手の甲で拭いながら、ガラガラと扉を開けて保健室を出ていく彼をベッドの上から見送った。
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