056 空腹の限界時に求める物
チラリと壁に掛かっている時計を見る。
14時25分……気が付けば昼をとっくに過ぎていた。どうりで腹が減るわけだ。昼飯どころかもうすぐおやつの時間である。
この私がこんな大事な事を忘れるとは……どうやら思ったより疲れているらしい。どちらかといえば精神的に。
ぐぅぐぅと必死に食べ物をせびる腹を摩り、慰めながら私はある違和感に気が付いた。
____キッチンがない。
……そういえば悪魔という生き物は食事をしない、というか食べなくても大丈夫という摩訶不思議な身体を持っているという事を思い出した。ならば私は一体どうやって食糧を調達すれば…………え、これはまさかの食事抜き?
絶望に打ちひしがれる私。朝此処を発つとしたら、昼と夜の計二食分を我慢しなければならない。人間__いや、今は死神だが__食わずとも案外結構生きられるらしいが…………無理。他からすれば、たった二食くらいでそれはないと言われるだろう。だが、私には無理なのだ。例え身体的に大丈夫だろうが精神的に屍と化してしまう。
そんな私の心の内を代弁するかのように尚も腹に住まう虫がぐうぐうと消え入りそうな音量で悲痛に咽び泣いている。食い物寄越せ、食い物寄越せ、早く食い物を投下しろ。……これはいわば魂の叫びだ。やはり命の源は食にあるのである。
まるで通夜のような暗い雰囲気を醸し出しながら腹を鳴らし続ける私を見ていたキリュウが呆れたように溜息をついた。
「……何か持ってくる」
「――ッ!!ほん――」
____ぐぅううぅう。
「……」
「……」
私が答え終わる前に大きな音を立てて腹の虫が答えた。要約すると、「え?マジ?なら早く持ってこいよ」だ。
キリュウがまたもや呆れたように小さく溜息を零す。いや、仕方ないだろ、生理現象というものだ。まぁやたらタイミングが良過ぎるが…………うん、過ぎたことは仕方がない。私は気を取り直して気になった事を尋ねるとする。
「食べ物あるの?」
「あぁ、嗜好として食べる奴もいるからな……少し待ってろ」
話している間も鳴り止まない私の腹の虫に見兼ねたのか、キリュウはそう言うなり私の返事を待たずしてさっさと背を向け行ってしまった。遠くからバタンと扉が閉まる音が響き、部屋に静寂が訪れる……事はなく、相変わらず腹の虫が鳴り響く。
さすさすと腹を宥めつつ私はごろんとソファに横たえた。……やべぇ、体が沈む。何だこれ、そこらのベッドよか寝心地が良いとはどういう事だ。これではソファを堪能するために跳ねて転がって無駄にカロリーを消費してしまう…………きっとこれは魔性のソファに違いない。
私は欲望のままに素敵ソファとの戯れを開始した。
◆ ◆ ◆
「……はぁ……はぁ……くぅ、素敵……過ぎる……っ」
「……」
____現在の状況を説明すると、空いた腹を押さえながらにやけ顔でソファに横たわる息絶え絶えの私を先程帰ってきたキリュウが無表情で見下ろしている状態だ。
その目はまるでナメクジでも見るかのような目だが、私はそんなものになったつもりはない。
まぁそんな彼の視線はスルーしておいて。
私の視線は無意識にキリュウが手に下げている袋に向かった。……先程から漂ってくるこの匂いは____
「お帰り、ぎゅうど……キリュウ。お疲れ、ありがと」
「……」
キラキラした目で袋をガン見しながら労いの言葉を掛ける私にキリュウの呆れたような視線が降り注ぐ。
言い間違えかけたのは仕方ないではないか。私はもう腹減りの極限状態だ。まぁ自業自得でもあるのだが。
____それよりも、だ。
私は身を起こし、いそいそと袋をキリュウから受け取る。念願のご飯を前にし、溜まった唾をゴクリと飲み込んだ。
「食べて良い?」と尋ねながらチラッと彼を見る。彼が軽く頷いたのを認め、そっと中身を取り出した。
白を基準とした既視感のある陶器製の入れ物が目の前に鎮座する。邪魔な蓋を開けると目の前にその神々しい姿が現れた。
……嗚呼、やっと君に会えた____
「――――牛丼さん……っ!!」
腹減りの状態で差し出される丼物はどうしてこうも輝いて見えるのだろうか。しかも牛丼さん、そして大盛り。観音様バリの輝きを放っておられる。
ありがとう、キリュウ。食べないくせに君のチョイスのセンスに脱帽だ。ここで上品にベジタブルサンドなんてものが出てきたらちょっと悲壮感を漂わせていたかもしれない……いやいや、それでも文句は言わず食べますけどもね。溢れる感情はどうにも出来ないから雰囲気を漂わせてしまうというだけで。……いかん、また思考が脱線してしまった。
気を取り直して両手を勢い良く合わせる。手がジンジンと痛んだがそんなもの気にもならない。
「頂きますッ!!」
やたら感謝の言葉に気合いが入るのは仕方がないってものだ。
私は素早く箸を手に取り、うら若き乙女とは思えない豪快な第一投目を口へ放り込んだ。
「……ッ!!」
あ、ヤバい。泣きそう……いや、既に涙目のようだ。目の前の牛丼さんが滲んで見える。
口の中にじわじわ広がる幸せな味。私はそれを噛み締めながら牛丼さんを掻き込んでいく。……ヤバい、美味い。何かやたら牛肉が高級だ。口の中で蕩けてしまう。牛丼さんにここまでの肉を使用するとは……やはり黒学は金持ち学校のようだ。肉にこだわるのは大変素晴らしいことだが出来るならばあと味噌汁と漬物を……いやいや、文句は言うまい。
「……美味いか?」
いつの間にか机を挟んで対面に位置したソファに座っていたキリュウが尋ねてくる。文句なしの美味さなので、もげんばかりに首を縦に振って肯定した。口の中は牛丼さんが占拠しているので言葉は封印されているのだ。
そんな私に「そうか」と一言返し、彼は黙ったままこちらを相変わらず見ている。……食べたいのだろうか。
少し迷った後、私は持っていた箸で牛丼を掬い取り、そのままキリュウへ突き出した。
何故か固まる彼。
「ん」
「……」
身を乗り出して更に彼に近づけてみた。私の口内には目一杯牛丼さんがいらっしゃるので「ん」しか言えない。
しかし彼ならば分かるはずだ。さぁ早く口を開けろ。腕が疲れてしまうではないか。
「ん」
「……」
更に突き出すが一向に口を開こうとせず、視線を牛丼さんから私へ移し様子を窺っているキリュウ。遠慮するな。本日の功労賞だ。
……あ、もしかして米に対して牛肉の割合が少しばかし少ないのが気に食わないのか?掬う段階で零れ落ちたのだから仕方ないだろう。まぁ掬い直す気はないけれども。
「ん」
「…………」
三度目の正直でやっと口を開いたので素早く牛丼さんを乗せた箸を滑り込ませる。口を閉じたので引き抜くと見事キリュウの口へ牛丼さんを収めることに成功した。ミッションコンプリート。
達成感に満たされながら無表情で咀嚼する彼を見る。少しは表情が緩むかと思えば無表情のまま数回咀嚼し、嚥下してしまった。もっと味わえよ。
「よくわからない」
「……」
彼が口を開いたと思えばその一言……畜生、もう分けてやるものか。
しかめっ面をしながら食事を再開させた私をキリュウはまたもや眺めていたようだが無視を決め込んで完食した。