049 注意事項は忘却の彼方
「此処を動くな」
そういうや否やキリュウは空間魔法を展開し、ポカンと間抜け面を晒している私を置いて姿を消した。
何度注意をするのだろうか。彼は子供に留守を頼んで買い物に行く母親か。となると私は彼の子供か。何気に私の世話を焼くしな。うん、帰ってきたらママと呼んでやろう。
……まぁそんなくだらない事を思わず考えてしまうくらいには驚いた。ちょっと目を離した隙に髪と瞳が違う色に染まっていたのだ。誰でも驚くと思う。
私は先程目に焼きついたキリュウの姿を思い浮かべる。故郷、日本で見慣れていた色に染まった彼はやはり相変わらずの超絶美形であった。今までは赤い目がファンタジーさを醸し出していたので、何処かモニター越しの感覚だったのかもしれない。しかしこうも馴染み深い色に染まれば一気に身近に感じると共に改めて彼が超絶美形だという事が思い知らされた。
…………そういえばサカキがいつだったか言っていた気がする。悪魔と天使は自由に瞳と髪の色を変える事が出来て周りに擬態するとか何とか。……しかしああも見た目が整っているとなると結局人間に擬態はできていないのではなかろうか。人間はあれ程までに顔が整ってはいないと誰だかに教えてもらった覚えがある。人間から見れば完璧に整った彫像のようなのだとか……兎に角浮きまくる事間違いない。
「――ふ、……へぇっくしょーいッ!!……あ゛ー……」
雨に濡れてからどれくらい時間が経っただろうか。
流石に身体が冷えてきたようだ。思いっきりくしゃみが出た。
私は冷たくなった腕を擦って摩擦熱を起こそうと頑張るが、一瞬は温まっても根本的な問題は解決していないのであまり意味はない。キリュウ……いや、ママン、早く帰ってこないだろうか。
早く、早くと念を何度も送る。離れた彼にこの思いは通じるだろうか。
出来る限り熱を逃がさないよう体育座りで丸まって足元に視線を遣っていると、突如目の前に影が出来た。
………………ん?影?
「――――暖めてあげようか?勿論身体で」
「!!」
既聴感溢れる声が頭上から降り注いだ。
出来れば聞きたくもないその無駄にエロい声が耳に届き、私はビクリと身体を跳ねさせる。腕には寒さとは違う原因で鳥肌が立った。勿論嫌悪で。
どうしてまたこんな急に現れるかなコイツは。
足元に落としていた視線を嫌々ながらに上げると、そこには予想通りの胡散臭さ満載な黒い笑みがあった。
「それにしてもオッサン級なくしゃみだったね、ひぃちゃん」
そう言って小首を傾げてこちらを見下ろすド変態。うわ、やめろ。鳥肌が悪化する。
そして放っとけ。私に乙女を求めるな。
ああいうのは思い切りやってこそスッキリするというものだ。ちまちまやっていたらストレスが溜まってしまう。どんなくしゃみをかまそうが私の勝手なのである。誰かに、というよりお前みたいなド変態にどうこう言われる筋合いはない。
……等々、色々と言い返したいことはあったはずだった。
しかし、咄嗟に私の口から出たのはただ一言だけ。
「近寄んな変態」
……うん、だって少しずつ近付いてきてる。
今、ド変態は身を屈めて私の顔を覗き込んでいる状態だ。逃げるには狭い空間の中、私はすかさず尻をズルズルと引き摺って横にずれた。こんなド変態の近くにいたくはない。ド変態菌に侵されてしまう。
____って、そうじゃなかった。大事なものを取り返さねば。
「そこから動くな」
私は「相変わらずひどいなぁ」とか薄気味悪い笑みを浮かべてぼやいているド変態に命令すると魔力を練り上げて腕で空を切り、風魔法を発動させた。そこから鎌鼬が生み出され、ド変態へと向かっていく…………が、ギリギリかわされた。
リミッターが解除され、絶好調のそれはド変態の後ろに佇んでいた巨木をスパッと綺麗に切断した。切れ目が徐々にずれ、ゆっくりと木が倒れていく。
ドォン、と地響きを伴いながら倒れる大木をチラリと見遣り、笑みを深くするド変態。……何故そこで笑う。気味が悪い。本当に気味が悪い。奴の思考が全く理解できない。……理解する気もなければしたくもないのだけれども。
このド変態からチョーカーを取り戻さなければならないとか鬱になりそうだ。しかし、それは残念ながら避けては通れない道…………私はその気持ちを振り払うように睨みながら言う。
「チョーカー返せ、ド変態野郎」
言うや否や私は先程放ったものと同じ鎌鼬をいくつもド変態へ向けて飛ばした。空気を切り裂きながら容赦なくド変態へと襲い掛かる。
一方、ド変態は「危ないなぁ」と零しながら難なくそれらをひらりとかわしていった。
回避されるのは分かってはいたが…………何だか無性にムカつくのはこのド変態だからだろうか。
目標の的が避けたので流れた鎌鼬が次々に後ろに佇む木々を薙ぎ倒していった。樵の如く森林伐採。温暖化に貢献である。
しかし私は止まらない。
「………………ぶった切る……ッ!!」
「ふふ、物騒だねぇ」
森の奥へ笑いながら逃げるド変態。私はブレザーが落ちないように片手で押さえ、今度こそ仕留めるとばかりに空いた手で鎌鼬をぶっ放しながらド変態の後を追いかけるのであった。