039 小言対専用秘技
茜色に染まった空。焼けるような夕日が少しずつ沈んでその姿を隠し、その度にうっすらと優しい闇が広がっていく。その反対側からは地球のものと比べると明らかにサイズの大きな月らしきものがひょっこり顔を覗かせている……今日も静かな夜が皆の元へ平等に訪れるようだ。
燦々と強い日差しが降り注ぐ昼間も暑いが、夕日がじわじわと照り付ける夕方だって昼よりマシとはいえども十二分に暑い。
____なのにコイツらときたら……。
「……暑苦しい」
思わずそう声に出してしまう程には私に影響を及ぼしているその光景。
現在私達はクリスタルゲートの前にいる。終了時間になると全員此処で待機するのが決まりなのだ。終了時間目前の今、この場所は人口密度が恐ろしく高い。
半目で辺りを見渡せば、視界に入り込んでくる黒、黒、黒、黒。……まぁそれは良いとしよう。髪やら肌やらは生まれついたものだし私がとやかく言う権限はない。言えばそれは人種差別以外の何物でもないのだから。
__だがしかし、ブレザーは我慢ならない。しかも色は黒。クソ暑いのだから半袖でもっと涼しそうな色にして欲しい。お前らは良いかもしれないがこちらは視覚的に暑すぎる。何これ、もうあれだよね、嫌がらせ決定だよね………………とか思っているのは私だけなのか?なぁ、どうなんだ?
ブレザー姿の奴らに囲まれているというのに嫌な顔一つせずに、寧ろ嬉しそうな表情すら浮かべているとはどういった了見だ。
彼らはこの暑さでやられてしまったのだろうか。それとも感覚麻痺にでもなっているのだろうか。はたまたフェロモンにやられたのだろうか。…………十中八九フェロモンだろうな。皆揃って目がハートだし。早く慣れろよ____と言いたい所だが未だに吐き気を抑えられない私も人の事は強く言えない。
ぽん、と私の頭に置かれているキリュウの手。フェロモンが噎せ返りそうなくらい充満するこの場所で、現在吐き気を催す事もなく、こんなにも余裕で周囲を観察出来ているのはこの魔法の手のおかげだ。いやはや、いつもお世話になっております。有り難や有り難や…………って、ちょ__
「……キリュウ」
少し咎めるようにそう呟く私。
頭からスルリと手が滑り、また定位置に戻るのを何度か繰り返していく……何故か乗せたその手が時折私の髪を撫でるのだ。私はわんこでもにゃんこでもない。
やめてくれないかと斜め上に視線を送るが一向に応えてはくれない。汗をかいてベトベトなそれをあまり触らないで頂きたい。それにほら、そんなことをするとまた面倒臭い事が____
「またアイツ……ッ!」
「キリュウ様が汚れる……ッ!」
ボソボソとそこらから聞こえる悪口雑言。その予想通りの事態に溜め息が零れた。
そう、面倒臭い事とは勿論わんこ信者共の嫉妬による副産物だ。幾つもの視線がチクチクと私を刺していく。しかし原因はお前達だ。この状態が嫌ならフェロモンを引っ込めてくれれば良いだけである。
わんこ信者共はキリュウが私の頭に手を置いている理由を知らない。いい加減気づけと言いたい所だがキリュウに待ったを掛けられた。彼曰く「弱点を態々教えるな」、と。まぁ確かにそうなのだけれどもキャンキャン吠えられて噛み付かれる度に対処するのが面倒臭くなってきた訳で……。
驚くことに、いつもいつの間に仕掛けるのか、教科書にカッターというもはや廃盤並な嫌がらせがあるのだ。初めこそ感動すらしたが、そのカッターが異様に丁寧にペッタリと隙間なく貼付けてあるので処理が物凄く面倒臭い。最近ではカッターの刃廃棄箱なるものまで教室の隅に設置され、それが溢れ返っている始末だ。まぁ教職員が流用してゴミにはなっていないようだが。……いや、流用ではないな。本来の用途に戻っただけだ。決して教科書にせっせと貼り付けるものではない。そういえば昨日箱に入れたとき大分溜まってきていたし、そろそろ回収の頃合いかもしれない……じゃなくて。
私はもう一度ぐるりと彼らを見渡した。……暑い。やはり暑い。
この際今回の嫉妬の副産物は見逃してやろう。だからその暑っ苦しいブレザーを脱げ。今すぐ、直ちに、迅速に。見本はうちの番犬だ。
隣に立つ優秀な彼の出で立ちはブレザーを脱ぎ、下に着ていた長袖のシャツを腕まくりしている。色は同じ黒だが、これだけでも与える印象が全く違う。視覚的に涼しいのだ。体感温度が5度くらいは下がっているかと思う。エコだろう、涼しいだろう。だからほら、テメェらも見習って…………おい、何故そんな恍惚とした真っ赤な顔でキリュウを見ているんだ?ちょっと薄着になって腕を捲っただけだろうが。
…………それだけでも色気が垂れ流しか……恐るべし。キリュウの天然フェロモン恐るべし。
「ヒイラギ、キリュウさん」
清涼計画とキリュウの色気について悶々と考えていると、後ろから声を掛けられた。振り返るとサカキと鼻血垂れが視界に入る。
「サカキ、お疲れ」
「お疲れ様」
私の言葉にサカキが返す。鼻血垂れに言わないのはデフォルトだ。必要性を全く感じない。
奴は「お疲れ様です、キリュウ様」とキリュウにだけお辞儀付きで労いの言葉を掛けて……って、ちょ、おま__
「……お前、やれば出来る子だったんだな」
「は?」
「清涼感溢れてる」
私は鼻血垂れをまじまじと見た。
ブレザーを脱ぎ、下の長袖シャツを肘まで捲っている。私の中の鼻血垂れ好感度が10程上がった。上限は1000だけれども。
私に見られている鼻血垂れは「あ……あぁ」と言いながら何故か少し怯えている。
「私が頼んだのよ。見てるだけで暑くて」
それを聞いてまた好感度が8程下がった。何だ、サカキの仕業だったか。
奴の怯えは多分サカキが原因だろう。頼んだと彼女は言ったが実際どのような面白い頼み方を………………あぁ、肩をやられたか。
視界の隅に肩を押さえる鼻血垂れが映り納得する。
私は次に彼女へ視線を遣った。彼女は他の生徒とは違い、まだほんのり頬が染まりはするものの、もう目がハートになるまで堕ちる事はない。優秀なのだろう。
そんな彼女も私と同じようにブレザー集団を暑苦しく思っているらしく、出来るだけ周りを見ないようにしているようだ。普通考えれば暑苦しいよね、うん。安心した。
「……で、今回は狩れたの?」
同じ考えの仲間に会えて嬉しく思っていたのにその一言で嬉しさが半減してしまった。……またサカキさんの小言が始まるのだ。私はそろそろと彼女から視線を外す。
ドス黒が帰った後、ヒヨコさんの親を探し出して帰してあげた。結構離れた場所にいたので少し手間取ったが無事終了だ。因みに親は普通の鶏で少しガッカリした。その一方、勿論課題は失敗である。
彼女は私の態度でそれが分かったのだろう。彼女が眉間に皺を寄せて口を開きかけた瞬間、それはさせまいと私は行動を起こした。
「とうっ」
「きゃっ!?」
何時ぞやの私とは違い、奇襲に対して可愛らしい声を上げるサカキ。どうやら彼女は少数派のようだ。相変わらず期待を裏切らないな、この子は。
私はサカキの腕を引っ張ってキリュウへと放り投げた。普段は怪力な彼女だが、不意打ちには敵うまい。
思惑通り、彼女はぽすんとキリュウにぶつかった。避けはしないが受け止めもしないキリュウ。……おい、そこはちゃんとしっかり受け止めろよ。
筋違いな非難する視線をキリュウへと向ける私。
「あ、ごめんなさ――――」
振り返り、そこまで言った所で見る見るうちに顔が赤くなっていく。彼女の目の前には程よく筋肉の付いた胸板、視線を上げれば超絶美形の顔が待ち構えているのだ。
秘技、天然フェロモン。
サカキはキリュウから物凄い勢いで距離を取り、茹蛸になって固まった。これで今日のところは小言を聞かなくても済むだろう。
彼女の心臓には負担が掛かるかもしれないが、私は今日物凄く疲れてしまった。あのドス黒のせいで神経をぞりぞりと磨り減らされたのだ。これ以上は勘弁して頂きたい。
軽く眉根を寄せてこちらを見ているキリュウに「グッジョブ!」と良い笑顔でサムズアップをし、未だに茹蛸状態のサカキを見た。……ふむ、この技、使えるな。
動けない彼女をそのままに、いつの間にやら壇上に立っていた教師の挨拶を聞き流して本日の実習を終了した。