001 歴史のテストは赤丸一つ
「――――明日はペアを発表します。今日はここまで」
授業終了のチャイムと共に教師が終講の号令をかける。
号令をかけたのは先程までのHRを仕切っていた担任の女教師、イズミ先生だ。少しウェーブのかかった長い翡翠色の髪を一つに括ったその物静かな美人さんは正にクールビューティーという二つ名を付けたくなってしまう……が、ここはグッと堪える。うっかり間違えて呼んでしまいそうだし。
やはりというか、多大な男子生徒の人気を誇っている彼女。しかし、怒ると物凄く怖いので誰も表立ってアタックを仕掛けようとはしない。影でファンクラブなるものが出来ているらしいと聞いた事があるのだが、イズミ先生にもしもバレたら……いや、私無関係だし、考えるのも怖いので止めておこう。
「ヒイラギ、後で職員室に来なさい」
教室を出ようとして立ち止まったイズミ先生が、肩越しに振り返って私にそう告げた。
お呼び出しを喰らうのはこれが初めてではない。寧ろ常習犯だ。私は慣れた様子で「了解でーす」と軽い調子で返事を返す。そんな私に若干目が細められたものの、イズミ先生はそれ以上何も言う事なく教室を出て行った。先生、怖いです。
今回のお説教の原因はきっと先ほど返却されたこの歴史のテストの答案用紙。右上に書かれた大きな赤丸…………つまり0点を取った事だろう。私は落ち込む事もなくその紙切れをぼーっと眺めた。
「……また?」
後ろから答案用紙を覗き込み、呆れた様子で話しかけてきたのはサカキだ。
彼女とは隣の席というのもあってそこそこ仲良くさせてもらっている。腰までサラリと真っ直ぐ流れる綺麗な紺色の髪を揺らしながら着席している私の前へ回って来た。私はそれを見届けた後、へらりと笑っていつもの言葉を口にする。
「あー、うん。やっちゃった」
「『やっちゃった』、じゃないわよ」
眉間に深い皺を寄せながら腰に手をあてて見下ろしてくる美人さん。……うん、凄い迫力だ。
彼女は今だへらへらと笑みを浮かべている私から答案用紙を奪って一瞥し、更に深く眉間に皺を寄せた。……どこまで深く皺を寄せることが出来るのだろうか? ちょっと気になったが、それを言うと絶対殴られるのでお口チャックで黙っておく。態々痛い思いなんてしたくはない。
「笑ってる場合じゃないわよ。0点て……しかもコレ何?」
「ん? ……あぁ、暇だったから」
彼女が指をさした先には簡素な家が描かれていた。
他にもそれよりはもう少し大きな家や星、ロケットなどが解答用紙の至る所に描かれている。所謂、一筆書きというやつである。暇つぶしには丁度良い。
それがどうしたといわんばかりな態度の私へ、彼女はジロリと睨むような視線をくれた。一見キツく見えるこの視線にも慣れたものだ。まぁ慣れてしまう程までにこの視線をもらう様な事を今まで私がしてきたわけだが。
サカキ、すまん、と心中で謝りながら私は平然とそれを受け止める。しかし残念ながら何度それをくれた所で私は自身を改めるつもりはない。時間と労力の無駄なのでさっさと諦めると良いと思う。
「テスト中に暇ってのもアレだけど、落書きって……解答欄は真っ白じゃない」
「まぁ毎回の事だよね」
あははと笑う私にもう怒る気も失せたのか、サカキは深い溜め息を吐き出して解答用紙を返してきた。私はそれを受け取り、鞄の中にがそごそと仕舞う。
「このままじゃ留年するわよ?」
顔を上げると心配そうにしているサカキが視界に入った。彼女は何だかんだ言いつつもこうやっていつも心配をしてくれるのだ。心配なら心配と最初から言えば良いのに必ず怒る所から始まる不器用なサカキさんである。
今日も今日とて心配そうに忠告してくる彼女の様子に自然と笑みが零れた。
「大丈夫だって。心配してくれてありがと」
「大丈夫なわけないでしょ。どっからその自信が来るのよ。赤、しかも0点取ってるのよ? こんな解答欄が白紙状態で追試大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。今までコレで2年まで上がれてるし」
「いや、確かにそうなんだけど……」
「じゃ、そろそろイズミ先生が待ちくたびれてるだろうから怒られる前に行くね」
「あ、ちょっと!」
まだ言い足りないといった様子のサカキを残し、教室を後にする。
彼女は凄く心配性というか何というか……。毎回心配してくれるのは有難いが、いつもそれは杞憂に終わっている。いい加減信じて欲しいものだと思うが、多分何を言っても無駄であろう。
私は早々に諦め、今日の晩御飯は何かなと考えながらのんびりと階段を下りていった。
◆ ◆ ◆
教室を出て約2分。私は職員室前まで辿り着いた。
同じ事情で此処へ来るのは何度目だろうか。面倒臭いなと溜息を吐き出しながら2回ノックし、ガラガラと少し重たい扉を開ける。
「失礼します。2年C組のヒイラギです」
「……座りなさい」
イズミ先生に促され彼女の机の傍にセッティングされた、もう私用と言っても過言でない椅子によいしょと腰掛ける。
尻に馴染んだそれがギシリと音を立てた。馴染む程までに何度も座るとかどうなんだろうと一瞬考えたが、まぁ愛着も湧いたし良いとしよう。……いや、良くはないか。面倒臭いので出来れば何度も通いたくはない。
イズミ先生は私が大人しく座った様子を確認すると、手元で作業していた書類を机の端にバサリと置いてこちらへと向き直った。予想通り、彼女の眉間には皺が寄っている。
「何故呼び出されたかは……もう言うまでもないわね?」
「はい。コレですよね?」
私はそう答えて鞄の中から例の紙切れを取り出し、イズミ先生に提示した。
先程無造作に鞄へ突っ込んだせいか、所々ぐしゃりと皺になっている。まぁ破れてはいないので見る分には問題ないだろう。多分。
イズミ先生はそれを一瞥し、皺について特に何かを言う事はしなかったが少し眉間の皺が深くなった。ちょっと気になったらしい。大雑把ですみません。
私があははーと笑って誤魔化していると、彼女は視線を紙切れから私に移し、もう幾度と聞いた台詞を吐き出した。
「……そう、それよ。文字は名前の部分しか書かれていないわ。何故何も書かないの? 記号選択の問題もあったでしょう?」
「分かりませんでした。覚えてないので」
同じくして幾度と吐いた台詞をしれっと言う私。真面目な彼女はここで「勘で書け」、とはとても言えないのだろう。
彼女はそれ以上の追及を諦めたのか、片手で顔を覆いながら深い溜め息を吐き出した。哀愁が漂っていてなにやら大人の雰囲気……って、見惚れてる場合ではない。いかんいかん。
「貴方に何を言っても無駄なのかしら?」
「そうですね」
説教聞きながらも早く帰してくれないかな、とか思ってるし。
淡々と続けるこの遣り取りは最早職員室での恒例行事と化している。無駄なのか、と尋ねつつも無駄な事であるとイズミ先生も分かっている様だ。彼女はまた深い溜め息を吐き出した。
「この死学始まって以来だわ、貴方みたいな人は」
「はぁ」
またもや私の適当な返事にイズミ先生は呆れきった様子で「もういいわ」と仰った。これが説教終了の合図だ。これで帰れる。
私はそのお言葉に甘えてちゃっちゃと帰らせて頂く。失礼しましたと形ばかりの礼を取り、私は第二の我が家へと足を運んだ。
――――そう、私が今いる此処は日本ではない。
そして地球ですらない異世界なのである。
黒猫を助けて事故にあったあの日から早5年。私はこの異世界『イグラント』で死神育成学校、通称『死学』の2年生をしている。