溢れ出す瘴気
休憩中のギルバートとのひと時。それがルーシーに露呈したことにより、カノンは暴行を受けた。
しかしすぐに医務室に運ばれ、適切な治療を受けたことにより、跡になるような傷跡が残ることはなかった。
赤く腫れた頬、腹や背中の痣。
そんな暴行の痕跡が薄れかけた頃のことだった。
王城の渡り廊下で、カノンは向かいから見覚えのある男たちが歩いてくることに気がついた。
それは複数の神官。そこにはイルマの姿もあった。
「おや、カノンさん。お久しぶりです」
カノンの存在に気づいたイルマが声をかけてくる。
イルマは神殿からの使者の1人としてやって来たようだった。
カノンもお辞儀を返す。
イルマたちの纏う神官服。
見慣れていたはずのそれが、随分久しぶりに思えた。
「お元気そうで何よりです」
イルマの様子は、神殿にいた頃と変わらない。
いつも通りの穏やかな笑みを浮かべている。
「ああそうだ、カノンさんは花はお好きですか?」
(……花? どうして急に……)
唐突な質問に、疑問符を浮かべるカノン。
「近いうちにきっと、面白いものが見られますよ」
カノンに向けるその笑みは、いつもと変わらないはずなのに。
何故か背筋がゾクッと寒くなるような感覚。
「それでは」
言葉に表せない違和感を覚えながら、カノンは去っていくイルマの後ろ姿を見つめることしかできなかった。
ギルバートは地方の街の視察に赴いているため、先日から城を留守にしていた。
1人で過ごす休憩時間は、何だか心寂しく感じて。
贅沢なったものだと、カノンは心の中で苦笑いする。
いつものようにニアや他の侍女たちと仕事をして、いつものように過ぎていく。
そう思っていた時、事件は起きた。
それは突然のことだった。
空気中の瘴気濃度が、急速に上がり始めたのだ。
つい先程までは、淀みもなく澄んでいたはずの空間。
瘴気の勢いは止まることを知らず、禍々しい黒が一面を染めていく。
「一体何なの、これ……!?」
「瘴気……!?」
異変に気づき、広がる喧騒と動揺。
歌姫の存在もあって、普通なら瘴気がこんな風に大量発生するなんてあり得ない。
明らかな異常自体だった。
「……っ」
(ニア……!)
そばにいたニアが、押し殺した声と共に膝をつく。
カノンは慌ててその身体を支える。
ニアの顔は、苦しそうに歪んでいて。
(そうだ、竜人にとって……この瘴気は毒になる)
「うう……」
「もうだめ、息が……」
他の侍女たちも同じように苦しみ始めた。
(このままじゃ、みんなが……)
焦りを滲ませたカノンの元に、聞こえてくる歌声。
それはルーシーによるものだった。
(あ……よかった、これで……)
瘴気は、歌姫の歌でしか浄化することができない。
ルーシーはこれまでに何度も瘴気を浄化してきたから、これできっとみんなが助かる。
そう安堵したのも束の間。何も起こらない。
歌声は響き続けているのに、蔓延する瘴気は、一向に消える気配がなかった。
(……どうして……!?)
それどころか、瘴気は濃くなっていくばかり。
侍女たちの中にはついに倒れ伏す者も現れた。
その身体の皮膚が、少しずつ鱗に変貌していく。
人形を保てなくなってきているのだ。
竜人は、一度に大量の瘴気に侵されたり、身体に蓄積された瘴気が許容量をオーバーすると、自我を失って“狂化“する。
「カノ、ン……」
息も絶え絶えな様子のニア。
苦しみ続けている侍女たち。
(このままじゃ、みんなが……)
声が出なくて、歌えない。
そんな自分を受け入れてくれた。優しくしてくれた。
これ以上、そんな人たちの苦しむ姿を見たくない。
(私にも、何かできることはないの?)
その時、耳をつんざくような絶叫が響き渡った。
(今の声は……ルーシー……!?)
尋常ではないような声。一体、何が起きているのか。
ルーシーの元に行けば、何かが分かるかもしれない。
(みんな、どうか無事でいて……!)
残していくニアたちのことを思いながら、カノンは全力で駆け出した。




