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第4話 闇夜の峡谷

 西の空、アパラチア山脈へと太陽が沈んでいく。そろそろ行くか。

 俺は操縦席の床に固定してあったクランクハンドルを取り外し、操縦席から身を乗り出し、エンジンカウルに足を掛けて機首の機関銃のさらに向こう側にあるシャフトに取り付けた。そして周りを見回す。


「駐機係、もういねえしな」


 不安定な体勢ではあるが、1人での始動はこれしか方法がない。

 一呼吸おいて、クランクハンドルに力を入れて回し始める。

 フライホイールが回転し始めて重々しく唸りだす。徐々にその音が変化していくのを聴きながら、一心不乱にクランクハンドルを回した。


 フライホイールの回転音が甲高く鳴り響くようになったところで、クランクハンドルを素早く取り外し、操縦席に座り直す。

 すぐに計器盤の電球を光らせるスイッチを入れて手元の視界を確保し、混合比調整レバーをリッチへ。次にクラッチレバーを左手でぶっ叩くのと同時に、右手でマグネトーを点火に切り替える。


 エンジンは何度か咳き込んだように黒煙を噴き、次には真っ赤な炎を吐き上げながら爆音を轟かせる。爆発が断続的に繰り返されたところで、混合比を微調整しながらスロットルをアイドルからほんの少しだけ開けてやる。

 不規則な破裂音は次第に規則的なリズムへと整い、高速な連打へと変わっていった。同時にエキゾーストパイプから吹き上がる炎は、不純な赤みを失い、鋭く青白い色へと変わっていく。


「ふぅ……」


 独りでのエンジン始動は、骨が折れる作業だ。

 一息ついて、ブレーキレバーをリリースし滑走路へと進む。


 既にアパラチアの山々に日が沈み、周囲は急速に暗闇へと変わっていく中、滑走路へ出た。

 スロットルを最大まで開ける。徐々に暗くなっていく空とは逆にエキゾーストパイプから噴き出す炎は眩しく、激しく点滅する。

 エンジンから目を離し、対気速度計を見る。

 30。

 35。

 40。

 45。

 機体の揺れ方が変わり、傾斜計が動いた。尾輪が浮いている。

 速度計が50ノットを示したところで操縦桿を引いて、地面から機体を浮き上がらせる。

 そのまま上昇角5度を維持して、機体を加速させる。フルフ・ウォーターの人たちには悪いが、このまま低空で速度を稼がせてもらう。


 眼下には明かりの灯り始めた町並みが薄っすらと見える。この町にはまだそれほど多くの街灯があるわけではないが、それでも十二分に明るい。

 もしも敵が既に俺が離陸することを知っていて、対空砲火の射程圏外でこちらを監視しているとすれば、向こうからはこちらが良く見えているだろう。


 フライング・ダッチマンの奴らは俺の進路を知っている。そもそもの話、パール・ダッチが離陸直後に狙われていたことから推察するに、情報が筒抜けなんだろう。

 ただあいつの部下は忠誠心があるし、何よりかなり良い給金を貰っている。わざわざ危険を冒してまで、情報を売る必要はない。

 つまり、通信が傍受され、かつ暗号が解読されている可能性が高い。

 敵は俺が真珠を運んでいること、いつ飛び立つか、そしてどこに向かうかを知っている。

 そして前回、パール・ダッチを襲った時に高射砲で追い払われている経験があるため、また町の近くで襲撃を仕掛けてくる可能性は低い。

 奴らは、どこかで待ち伏せしているに違いない。

 目的地はここから南東に143海里にあるオーセアン・スタッド。計器を頼りにまっすぐ南東に飛ぶのがセオリーだが、今回は必ず待ち伏せがいる。

 まずは進路を北に取り、相手の視界から消える必要がある。だが常に、敵から見られている前提で動き続けなければならない。骨の折れる仕事だ。




 真っ暗な闇夜の中、サスクエハナ川の真上を飛ぶ。この川がアパラチア山脈最初の壁ブルーマウンテンを切り裂いているポイント、サスクエハナ・ギャップ。ここは船舶にも航空機にも航路として頻繁に使用されている場所で、奴らが待ち伏せをするポイントとしては絶好の地形だ。しかし、俺の進路が南東であると思ってるのであれば、ここに奴らはいない。確信はない。だから川面スレスレを飛んでいる。

 左右にそそり立つブルーマウンテンは暗闇に飲まれていて、わずかに空と山の輪郭が見えているだけだ。


 ブルーマウンテンを通り過ぎる。

 後方左右には今しがた抜けた山が、前方左右にはセカンドマウンテンが迫る。文字通りの袋小路だ。ここで挟み撃ちにされれば一巻の終わりだろう。

 俺はスロットルを最大開度まで引き上げて、機体を加速させる。別に焦っているわけではない。

 この辺りから、サスクエハナ川が左に大きくカーブするが、俺は操縦桿を真っすぐ引いて機首を上げながら川面から陸上へと出る。

 上昇角を保ちながら、機体を緩く右へとバンクさせ、ラダーペダルを軽く右に踏み込む。

 右側の視界には真っ暗な森の斜面が見える。いや、見えていると言えるかは微妙で、実際にはエンジンの爆音と風切り音に交じって、僅かに木々が風に煽られて揺れている音が聞こえているだけに過ぎない。

 方位計が真東を示す直前に、機体のバンク角を戻して旋回をやめて、スロットル開度を巡行へと落とす。

 右手にはセカンドマウンテン、左手にはストーニーマウンテンがあり、深い谷を形成している。この谷にはエレンデールフォージと呼ばれる鉱山の町があったが、現在は廃坑となっており、ほとんど住民は住んでいない。

 この谷を16海里ほど突き進めば、フライング・ダッチマンの索敵網から逃れられるはずだ。かなりの回り道だが、あいつらと空戦を演じるよりは、よほどマシな選択だ。


 薄っすらと月明かりに照らされるコンクリート製の煙突が正面に見えた。鉱山とともに廃棄された鉄工所の名残。

 ラダーを軽く踏んで、煙突を避ける。


 よし。ここを越えれば、あとはツリートップレベルを保ちながら、峡谷を抜けるだけだ。


 だけ……ね。骨が折れる仕事だ。



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