今までの全てをこの拳に込めて
あの日も、
ユージとタカシと過ごした時間の余韻を抱えたまま、
夜になった。
その日は、
いつもより早く母親が帰ってきた。
──だが。
「お邪魔しますね」
母親の背後から、見覚えのあるババアが上がり込んできた。
胸の奥が、一瞬で冷える。
以前、
兄や俺、
そして母親にまで手を上げた男と一緒に来ていたババアだった。
俺は反射的に、
身構えた。
老婆はそんな俺を、感情の読み取れない顔で見下ろしていた。
「この子が……あの悪童ね」
その一言で、頭の奥が熱くなる。
「おい。
誰に口きいてんだ、ババア」
母親の前だろうと関係なかった。
怒りは、もう抑えきれなかった。
だが。
母親は悲しそうな顔をしていた。
「直樹……どうしちゃったの……
あの時みたいな、優しい子に戻ってよ……」
目に、涙が浮かんでいる。
胸の奥が、ざらついた。
母親は、俺をこんなふうに見ていたのか。
すると、
ババアは筒状の入れ物から紙を取り出し、賞状のように目の前へ広げた。
いくつもの名前が、並んでいる。
「さあ。
どれにするの?」
母親が、静かに言った。
「直樹。どれか一つ、選びな」
意味が、分からない。
「……は? 何これ……」
いきなりババアが俺に向かって“天命がどうこう”と理解できない言葉を並べていた。
恐怖しかなかった。
言葉ではなく、空気が。
俺はそのまま、逃げるように家を飛び出した。
──────────────
行き先なんて、ない。
ただ──
あの場所にいたら、おかしくなる気がした。
近くの公園のベンチに座り、何時間も、動けなかった。
考えていたのは、ひとつだけ。
母親を、どうやって元に戻すか。
───────────────
夜。
家の近くまで戻り、ババアの車がないか確かめる。
「……よかった……いない……」
恐る恐る、家に入った。
「やっと帰ってきた。ちょっと、こっちに来なさい」
母親の前のテーブルには、まだあの紙が広げられていた。
何かを言われる前に、俺は口を開いた。
「……これ、何なによ
なんで名前なんて変えなきゃいけないのよ」
「おかしくなったのは……俺じゃなくて、お母さんだろ」
「俺はこの名前のままでいい。今も、お母さんのこと大好きだし……大事だよ」
「学校だって、友達と毎日ちゃんと笑ってる」
「それでも母さんは俺を悪童なんて思ってるの…?」
母親は、何も言わずに聞いていた。
そして涙を流しながら、俺を強く抱きしめた。
「……それなら、よかった……」
その温もりに、胸の奥の硬い何かが少しだけほどけた気がした。
だが。
数日後──
現実は、別の形で迫ってくる。
家の前に止まっていた、大きなトラック。
狭い平屋の居間を埋め尽くすほどの、巨大な桐の仏壇。
「……なんだよ、これ……」
理解が、追いつかない。
「これだけ立派なら、邪気は祓えるわ。
仏様が守ってくださるもの」
ババアの声だけが、現実味を持って響いていた。
もう、止められない。
兄が、仏壇を軽く叩きながら笑う。
「終わったな。もうダメだわ、これ」
「お前も考えとけよ。これからどうするか」
その言葉の意味を、この時の俺はまだ知らなかった。
ある寒い時期まで俺はこの仏壇と一緒に生活をする事になる。
──────────────────
そして。
もう一つの決着が近づいていた。
宮田。
あいつだけは、終わらせなければならない。
逃げたままでは、前に進めない。
───────
昼休みの裏山。
俺は宮田を呼び出していた。
だが──
そこにあったのは、俺の想像とはまったく違う光景だった。
血まみれで、土下座する宮田。
そして。
「悪いな、直樹。先にやっといたわ」
兄が、立っていた。
それに宮田は、既に壊れていた。
虚ろな目。
シンナーの臭い。
かつての面影は、ない。
それでも──俺には関係なかった。
腹を殴り、
顔を蹴り、瞼が切れ血が飛び散る。
更に顎も蹴り上げる
そして地面に沈める。
宮田の顔面に唾を吐き、俺のリベンジは終わりだった。
こうして俺は、誰にも知られないまま四年生の三学期を終えた。
思い残すことは、もう何もなかった。
四月から俺は五年生になる。




