幼き記憶
「もう、やめてよ!」
「行かなきゃいけないの!」
「ああ、ふざけるなよ!!」
「痛っ……なんでそんなことするのよ」
夜の家に、夫婦喧嘩の声が響く。
襖一枚で隔てられた隣の部屋から、その声はほとんど毎日のように聞こえてきた。
母が家にいないとき、父の苛立ちは兄と私へ向けられた。
襟首をつかまれ、押し入れへ閉じ込められ、放り投げられることも少なくなかった。
「ねえ、出してよ!! お願い……出してよ……」
非力な手で襖にしがみつき、必死に開けようとする。
だが、びくともしない。
狭く、真っ暗な押し入れの中には、恐怖しかなかった。
外へ出ようともがくうち、爪は剥がれ、襖には新しい血の跡が残った。
この記憶のせいだろうか――私はいまでも閉所が苦手だ。
そんな恐怖に満ちた日々は、しかし、ある出来事を境に突然終わりを迎える。
父の不倫が発覚したのだ。
当時の両親はいわゆる不良で、兄を十六歳、私を十八歳で産んだ若い夫婦だった。
毎晩のように続いていた喧嘩。
だがその夜、聞こえてきたのは、怒号ではなかった。
父は、泣いていた。
そして次の瞬間、母を平手ではなく、拳で殴った。
「なんで行かなきゃいけないんだ!! いい加減にしろよっ!」
これまで聞いたことのない、鈍い音。
襖の隙間から一部始終を見ていた私の耳にも、それははっきり届いた。
骨の折れるような音と、母の叫び声が、部屋の空気を震わせた。
母は床に倒れ、起き上がることができない。
父はそのそばに膝をつき、うつむいたまま涙を流していた。
やがて父は近くの電話に手を伸ばし、救急車を呼んだ。
――しかしその直後、倒れた母を残したまま車に乗り、どこかへ去っていった。
残された兄と私は、警察に一時保護された。
その後、祖父母が迎えに来てくれた。




