4. 質の高い教育をみんなに
産業革命という言葉を聞いた瞬間、胸の奥から強烈な違和感が広がっていった。
「な、何なの? その……産業革命というのは」
「簡単にいえば、この国の産業や交通に蒸気機関を導入するということです。そうすれば国がもっと豊かになって、これ以上不幸な子供が増えることもなくなると思うんです」
「本当にそんなことが実現できるかしら」
「たとえば工場に蒸気機関を組み込めば“流れ作業”が可能となります。これにより生産性が向上し、商品の価格も下がります。加えて“流れ作業”には熟練工が必要ないので、すぐにでも浮浪児たちに仕事を与えることができるのです」
「なんだか話がうますぎるような気がするんだけど」
「きっと上手くいきます。その証拠に、向こうの世界では蒸気機関の発明をきっかけに、人類全体の生活水準が飛躍的に向上してます。ワットが蒸気機関を発明してから、ちょうど250年後にわたしは生まれました。その間に世界はひたすら経済成長を続け、わたしのような一般人でも当時の王侯貴族より快適な生活を送れるようになったのです」
マリエは次第に早口になっていった。自分の専門分野となると驚くほど雄弁になる。
ところが話を聞けば聞くほど、わたしの中で不信感がムクムクと湧き上がってきた。
何かがおかしい。この話に乗ってはいけない。
もちろん知識のないわたしには、マリエの話が間違っているかどうかの判断はできない。
いうなれば頭ではなく魂が拒否しているのだ。
彼女が嘘を言っているとは思わない。しかし何か重大な見落としがあるという疑念がぬぐい切れないのだ。
「申し訳ないけど賛成できないわ。この世界に産業革命を持ち込むのは諦めてちょうだい」
そう言ってわたしは自室に戻った。おとなしい彼女ならこれで引き下がってくれるだろう。
〇
ところがマリエは諦めなかった。
わたしの協力が得られないと分かるや、今度は第三王子のコバルト・ストロンテュームに接近をはじめた。
買い物中止事件から一か月後、わたしはメイドのシイから報告を受けていた。
「マリエが生徒会室に出入りしているというのは本当なの?」
「はい、どうやら生徒会長のコバルトさまに取り入って、蒸気機関の開発を支援してもらっているようです」
コバルトはすでに王都近くの炭鉱に工房を建てて、そこに腕利きの鍛冶職人を集めているという。
マリエが設計した排水ポンプを製作するためだ。
このことは父親であるオキシダン・ストロンテューム王からも許可を得ているらしい。
「それにしても蒸気で動く排水ポンプって、一体どういう代物なんでしょうね」
「…………」
わたしの脳裏に、そびえ立つ丁字のシルエットが浮かんだ。そのシルエットの横棒部分がシーソーのように揺れている。
だがそのイメージをシイに伝えるのはやめておいた。なぜそんなシルエットが浮かんだのか説明できないからだ。
マリエは他にも力織機、外輪蒸気船の設計図を完成させており、現在は蒸気機関車の設計に取り掛かっているそうだ。
まさか、ここまで行動力があるとは思わなかった。
完全に油断していた。温厚でひかえめな普段のイメージに、すっかり惑わされていた。
思えば、わたしに産業革命の支援をもちかけてきたときの異様な饒舌さは、彼女のエネルギッシュな一面の表れだったのだ。
それに気付かなかったことが悔やまれる。
早く何とかしないと大変なことになる。あせりの気持ちがどんどん膨れ上がっていった。
この日からわたしは悪役令嬢になった。
派閥の女子生徒を使って、マリエに対する陰湿な嫌がらせ行為を繰り返すようになったのだ。
この悪役令嬢ムーブは数か月続いた。
興味深いことに、冒頭に記したようなイジメを続けているうちに、しだいに両者のやり取りがパターン化してきた。
まずわたしの手の者がひとしきり嫌がらせをした後、取り囲んでクスクスと笑う。
よきところで物陰からわたしが登場し、
「どう? いいかげん産業革命をやめる気になったかしら」
傲然と言いはなつ。
しかしマリエも負けてはいない。
「いいえサスティナさま、産業革命はこの国のあらゆる問題を解決する起死回生の手段なのです。どうして分かってくれないんですか?」
そして蒸気機関の利点について滔々と語りはじめる。
学者の卵である彼女に理屈では勝てない。しまいには、わたしたちの方が演説の途中で逃げだすのだ。
このようなやり取りが、うんざりするほど繰り返された。
両者の主張はずっと平行線のままだ。有効な手段が思い浮かばず、いたずらに時が過ぎていく。
そしてとうとう排水ポンプが完成してしまった。その効果はすさまじく、石炭の採掘量が飛躍的に向上したという。
わたしのあせりは頂点に達した。
ある日の放課後、階段の踊り場に立つマリエを見かけたわたしは、背後からそっと近づいた。
この女さえいなくなれば楽になる。そんなことを考えながら。
どうやら焦燥感のあまり、まともな思考力が失われていたようだ。
わたしはマリエを突き落そうと背中に手を伸ばす。
「あっ、銅貨がおちてる」
ふいに彼女がしゃがみこんだ。
視界から目標が消えても勢いは止まらない。
わたしは丸まった背中につまづき、そのままゴロゴロと階段を転がり落ちていった……