新胡蝶の夢
ある朝じいちゃんが急病で倒れた。じきに死ぬ。百年生きた大木が今あっさり崩れて行くのだ。淡い命の煌めきを、天井に反射する水面の影に投影していた。物静かな病室に集まったのは、小学校帰りの僕と一人娘の母、それから看護師二人に医者が一人きり。やたらと騒がしい人生だったと聞いていたが、閉幕の時は静かなものだ。
肺から空気が漏れ出ている。度々息苦しそうにヒューヒューと音を立てて、それから鼻に繋がったパイプが粘度の高い液体を吸い出している。医者はしきりに腕時計を確認し、死亡時間を待っている。母は、もう泣き始めてしまっていて、看護師は二人揃って目を伏せた。
悲しそうな演技ばかりが目立つ空間だ。まるで僕だけが今際の際に来たみたいだ。仕方なく、偲ぼうと思った。じいちゃんのベッドの枕元に寄って、顔を見る。生きている内はこれが最後なんだろうと思った。可哀想だ、と。ただそれだけだった。
目を落とそうとすると、じいちゃんと目が合った。驚いて、仰け反ろうとする。が、その瞬間、密かにじいちゃんは人差し指を顔の前に立てて笑った。今にも死にそうな男が、無邪気な笑みを浮かべていたずらに笑うのだ。痛々しく鼻から伸びるパイプが酷く不自然に感じた。それから酷く小さな声で話し始めた。
「律。お前、たった1回だけ時間を止められるなら何がしたい?」
「へ?」
「よく聞け。たった一回、一時間。心に決めてそう言うだけで時間が止まるんだ。そしたらお前何がしたい?」
そう言うとは、どういうのだろう。じいちゃんは今際の際にも変なことを聞く。もっと話したいことがある。もっと離さなきゃいけないことがある。僕の頭の中には色々巡って、とうとう何も答えられない。お医者さんは驚いて僕の顔を見た。母は泣き腫らした目のまま顔を上げて近寄ってくる。そんな事に目もくれず、じいちゃんは僕の目を見て、にっこり笑った。
「時よ、止まれ」
か細い声が空気の中を反射して、溶け込む前に、僕の心臓は強く振動していた。いつの間にか布団は乱れていて、こっちを向いていた筈のじいちゃんの耳が眼前に突如として現れた。じいちゃんの枕元にある機械は甲高い悲鳴を上げて、絶命を知らせる。医者は遂に、というふうに目を閉じた。
僕の手には一輪のチューリップが握られている。今採ってきたばかりの瑞々しいチューリップだ。僕はそれを、不自然に思わなかった。じいちゃんにとっては、これがその答えだったのだろう。そこで悟らざるを得なかった。僕の中に、じいちゃんの熱い血の鼓動が響く。チューリップを大事に抱き締めて、僕は振り返った。帰り際、花盛りの花壇の中に、ひとつ頭の取れた者がいた。その頭に、優しくキスをして、持って帰ることにした。
里美は言った。
「貴方はなんだか、現実味が無いの」
自転車修理屋の小さな屋根の下で、彼女の言葉を反芻する。握られたレンチは手袋越しにその無機質な硬さを僕へ誇示した。自由な思考は無く、ただ制限された痛みが心に響く。夕陽が店舗の入口に貼られた大きなガラス戸から差し込んで、床に虚しく一人自転車へ膝まづく僕を投影した。
夢から懸け離れたこんな世界の中で、一体何処に現実味を感じないのだろうか。今すぐにでも電話をかけて問い質してやりたい気持ちになった。けれど、まぁそれをする程の気力も無い。ただ、僕の心にはひとつの支えがあった。
時を止められる。いざとなったら、止めてしまえる。一時間、きっかり。彼女にイタズラしてやろうなんて考えない訳でも無いけれど、そんなつまらないことに使うくらいなら。と、いつもそう考えて使い時を発見出来ずにいる。いざとなったら、まぁ、例えばそうだな。銀行強盗は一時間で終わるだろうか。とか、宝石店で盗んだ物を売れるだろうか。とか、そんなくだらないことばかり泡のように浮かべては、それを眺めて割れるまで見いってしまう。
もっと楽しいことに使えないだろうか。たとえば、車に轢かれそうになっている人を助けたり、大災害からみんなを守ったり、そんな素敵なこと。
「振られっちまったってのに随分楽しそうだな。そんなに仕事が好きか?」
「可哀想ですよ、そんなこと言ったら」
いつの間にか開いていた入口から、ひと仕事終えた二人が帰ってきた。僕は咄嗟に目を瞑って気持ちを切り替える。
「いやいや、時間を止めて何をしようかなって」
島崎は呆れた様子で僕を見る。そしてわざと溜息を吐いて首を振った。
「またそんな事言って、無駄なことばっか考えすぎだ」
目の前の自転車をぐるりと一周眺めた。
「オイルか」
「あぁ。『きぃーきぃー言うから』って時は簡単で良い」
僕の言葉にクスリとも笑わず、手招きをして悠介を呼んだ。
「お前がやれ。良いよな、律」
悠介は少し不安そうな顔をしたけれど、このくらいならもう一人で出来るはずだ。笑いかけてやると、あっさり笑顔になって、腕を捲った。
「悠介、分からなくなったら遠慮なく聞きなね」
「はい、よろしくお願いします」
島崎はタバコを取り出して、僕に見せてきた。仕方なく、僕も彼の後ろについて行く。
店の裏手は店舗の影になっていてまだ肌寒い。安っぽいアルミの箱から脚が生えたような吸殻入れが寂しく待っていた。タバコなんて吸わないものだから、別にここに居る意味もないのだけれど、サボる口実なら大歓迎だ。
「それで、まだ結論は出ないのか」
「そうだね。別にまだいっかなって」
島崎は多分信じていない。僕の時を止める能力も、じいちゃんの話も。きっとただの切っ掛けだ。不器用な島崎の事だから、きっとなにか僕を励まそうとしているのだろう。
「お前は、いつもそうなんだ。もうそれ、辞めろよ」
タバコの煙が鋭く飛び出る。飛び出た癖に、やたらと潔く大気のどこかに消えていった。
「なんだよ。良いだろ、別に。考えるくらい」
「良くないね。お前は傷つかない。それのせいで。傷つかなきゃ駄目なんだ。人生においてちゃんと傷付く時に傷つかなきゃダメなんだよ」
確かに、僕は他の人とは違うこの能力を寄り掛かる先にしている。たとえ学歴が高くたって、大企業に勤めていたって、時は止められない。僕とは違って、決して止められない。
「まるで僕が傷付いた事ないみたいに言うなよ」
傷付いたことが無いなんて間違っている。僕は毎度毎度心に大きく強い傷跡を感じて、最後の最後に縋りついているのだ。そんな宛先が残っている事はいい事に決まっている。そうか、きっと島崎は僕の能力をとうとう信じたのだ。信じて、嫉妬したんだ。自分には到底できっこないことが僕にはたった一言唱えれば出来てしまう。そんな僕が横並びの湿気った修理屋に居ることが彼の自尊心を踏み躙っているのだろう。
それから彼は何も返さなかった。ケチ臭く指先で支えきれなくなるほど小さくなったタバコを捨てて、ポケットに手を突っ込んだ。
「お前は何にも出来なかったんだ。泣いていい時に泣くことさえ出来なかったんだ」
心の中で、僕はニヤリと笑った。やっぱり嫉妬だ。こうやって、僕のことを貶して悦に浸っているのだ。
今、僕がたった一言呟いて、あいつの首を締め上げてしまえば何も言わずに死んでしまうというのに。無力な男だ、何処までも未来のない男だ。いつか銀行強盗をした暁には逃げる足として使ってやろうと思っていたのだけれど、もうそれも別の人間に託すとしよう。彼が去った後、太陽が向こう側へ落ちた。彼の後ろ姿を思い出して、ひとつ大きな溜息を吐く。こんな事なら僕もタバコを吸う人間だったら良かった。無色透明なまま、息の行方を見失った。
店内では、荒ぶる島崎と萎れた悠介が居た。さっきの自転車は直らなかった様で、今度はその前に島崎が座っている。
「油差しを失敗するやつを初めて見た。分からなかったら聞けと言ったのが聞こえなかったのか」
「言ったのは律先輩で」
「律が言ったんだな。『チェーンとボトムブラケットに滴る程油を差せ』って。さっきまで俺と深刻な話をしていて、仕事のことなんて手が付かなそうな律が、目の前の俺に気付かれない様に時間でも止めて、ここまで来て、お前に」
立ち上がって、険しい表情の顔を悠介に近付ける。
「ひぃ」
悠介は弱々しく後退りして、しきりに謝った。少し汚れた布巾をとって、島崎に投げる。彼も分かっていた様に受け取って、また座った。
「律、悪い。悠介を慰めてやれ」
「『熱くなって、言い過ぎてごめん』って事ね。わかったわかった」
喉を鳴らす島崎を残して、僕らは店の奥に逃げた。
島崎は不器用なんだって、伝えるのはどうかと思ってしまう。悠介は静かに小袋を開けて部品ごとのカゴに分けて入れている。なにか声を掛けなきゃ行けない。何を言うにしてもなんだか作り物っぽくて息苦しい。別にどんな声を掛けるべきでもないのかもしれない。
「なぁ悠介、時間が止まったら何がしたい?」
「その話、高校の頃から言ってるんですよね」
「いや、もっと前からだよ」
「小さい子見たいですもんね」
小馬鹿にして言う様だから慰めるのも辞めてしまおうかと思った。彼はその様子を察して両手を胸の前で細かく振りながら「すいませんすいません」と苦笑いをした。それから顎髭なんか無いくせに、立派な髭を確かめる様に触った。
「そうですね、取り敢えず元に戻るまでダラダラしてます」
悠介らしい回答だ。なんだかそんなにダメなやつだと自分のダメさ加減を気にしなくていいんじゃないかって思えてくる。ここまでダメならようやく腰を落着けて失敗談を聞きたくなってくる。
「ニヤニヤしないでください」
そういうのは気にするんだなと逆に安心した。
「律先輩は何するんですか?」
僕は何も言わずに彼の目の前に置いてある部品カゴを全部没収して、目の前に置いた。
「お喋りに夢中にして悪かった。けどここまで間違えてるのは想定外だ」
分けて入れたとは到底思えないほど混じりあったカゴの中を見せてやると、悠介は慌てて直し始めた。
仕事終わりに、僕は夜の海辺を散歩した。また少し残る春の空気が、明日にでも消えてしまいそうで寂しい。夏など来なければいいと思う。夏が少しでも遠くに行く様に、今時間を止めてしまおうか。今止めてしまったら、きっと草も木も、風さえも何も変わらない。誰も気が付かない。知っているのは僕に踏んづけられているコンクリートの防波堤くらいなものだろう。
さっき飲んだ酒が喉元で仲間を探す。帰宅を促す生意気なアルコールに逆らう様に、僕はその場で座り込んだ。まだ寒くない。風は海へ吹いている。僕は無意味に目の前の広大な水平線を眺めていた。遠くに船の光が点々と見える。
あれの中にいるのは、多分僕の知らない人達。それをぼおっと、ただぼおっと眺めている。その内に、眠くなってきた。心地良い風が吹いている。
さて、時間なんて止めてどうしようと思いつつ、呟いてみる。
「時よ、止まれ」
コンクリートは静かに、従順に止まっている。波も静かだ。風もない。止まっているんだか、居ないんだか分からない世界だ。思えばじいちゃんは、その力に気付いた時から死ぬまで何にも使わなかったんだ。きっと僕もそうなっていたのだろうな。それでずっと心の中で使わない能力をもったまま。
それか、本当はただのデタラメで時なんて止まらないのかもしれない。老人の最後のお茶目な嘘に騙されて、半生をその掌で過ごしていた。
なんにせよ、僕は無駄に使ってしまった。星は変わらず煌めいて、夜は変わらず肌寒い。あの時、咲いたチューリップを握らせたのは病床のじいちゃんか、病室へ向かう僕自身か。今となってはもう分からない。