【3】
ミカエルは智天使と座天使を引き連れ、天界の空、赤く染まった地点を目指し矢のような速さで飛んでいた。
「あの者、またミカエル様への報告を怠ったな」
「まったく、不届きな奴め」
「待ちなさい。……何か様子がおかしいようです」
天界の片隅。赤と青の狭間に二つの影を見つけ、ミカエルと従者二人は注意深く雲の上に降りた。
「ああっ!」
智天使と座天使が声を上げる。ミカエルは目を見張った。
ぐったりと目を閉じたナサニエル。半開きになった口から苦しげな息が微かに漏れている。何もない空間へと傾くナサニエルの体を、不気味なほど穏やかな微笑みを浮かべた悪魔が後ろから抱きかかえていた。悪魔のもう一方の腕はナサニエルの背中の傷とつながり、じわりじわりとコウモリの翼のような構造へと変化していっている。
悪魔はミカエルたちが近づいてきたのに気がつくと、目を開いてニヤリと嗤った。ミカエルの顔を見据え、勝ち誇った笑みを。ミカエルは自分の中にゴウと炎が燃え上がるのを感じた。ミカエルは唇を噛み締める。血の気の失せた白い肌に赤い血が伝う。
その横で智天使と座天使が言った。
「……駄目だ。悪魔と癒着しかけている」
「ミカエル様、もうお諦めになっては……?」
「この者の堕天は、はやもう確実」
「今なら、この者ごと悪魔を撃破することも……」
「いいえ!」
ミカエルは激しく首を横に振った。
「いいえ、なりません! この者は、ナサニエルは、私の直属の部下。悪魔の良いようになどさせるものですか……! 二人ともここで待っていなさい!」
そう言い残しミカエルは空へと飛び立っていった。
ハヨットは巨大な岩の前でへたり込んでいた。もうどのくらいの時間が経っただろう。
(僕は、もうこのままナサニエル様と会わない方が良いのかな)
そう言葉が思い浮かんで、ハヨットはふるふると首を振る。
(ううん、会わない方が良いじゃなくて、もう会えないんだよね。僕は知ってしまったから。僕のやった取り返しのつかない、とてもとても悪いことを)
ハヨットはうなだれる。耳もしっぽも垂れさがる。うつむいた視界に映るのは自分の黒い毛並みの手足。夢の中で見た獣とまったく同じ、闇のような黒い色。
(僕はナサニエル様の役に立てるって思ってた。僕が頑張ればナサニエル様の助けになるんだって、そう思ってた。でも。僕が悪かったんだ、はじめから、何もかも。僕がいなければナサニエル様は、ナサニエル様は……!)
うつむいたまま涙がにじんで。このまままぶたを閉じれば、視界が闇に閉ざされて……。
その時突然、羽ばたきの音がハヨットの耳に聞こえてきた。小さくも力に満ち溢れた音。ハヨットは思わず音のした方に目を向けた。
そこには白い鳩が一羽、さんさんと差し込む日の光をその両翼に受け、森の木々の間をいきいきと飛んでいた。それを見上げるハヨットの視界。白い翼と青い空がそこにある。
あの日、あの後のことを、ハヨットは思い出した。はっきりとした記憶はないがそれでも、これだけは覚えている。自分を包んだあの温かな白い光。そして、自分を見つめたあの優しく清い、青い瞳を。
ハヨットは涙の溜まった目をぐしぐしとこすった。そして勢いよく立ち上がる。
(違う。こんなんじゃダメだ。僕がしっかりしなくちゃ。僕がナサニエル様を助ける。僕ならできるんだ。だって僕は、天使の片翼だもん。僕が傷つけ、僕を護り、僕を創った天使の翼。翼が二つなければ、鳥は飛べない……!)
「鳩さん、大切なことを教えてくれてありがとう!」
ハヨットは晴れ晴れとした笑顔を鳩に向けると、目の前の岩をぐっと見上げた。
(この岩をどうしよう?)
すると一声、鳩が鳴いた。ハヨットが振り向くと、鳩は彼の目の前を横切って高く飛び立つ。まるで「ついて来なさい」とでも言わんばかりに。そのままハヨットは白い鳩の後に続いた。
境の森を駆け抜ける。前を行く鳩は矢のように飛び、ハヨットは脇目もふらず無我夢中でその後を追いかけた。
いくつもの小川を飛び越え、いくつもの洞窟を抜ける。そのうちに突然ハヨットは開けた場所に出た。
滝の落ちる湖。高い位置から幾筋もの絹糸のように流れ落ちる水は、糾われて一つの織物の如き滝を成す。その白い滝を染め上げるように七色の大きな大きな虹が架かっていた。
森に住むハヨットでも知らなかった場所だ。ハヨットは思わず足を止め、目の前に広がるその景色を眺めた。
(こんな場所があったなんて。きれいだ。とってもきれい)
ハヨットがそうしている間に、白い鳩は滝の裏へと飛んでいきその姿を消した。ハヨットが慌てて滝の裏側に行ってみると、もう鳩の姿はそこにない。よくよく見まわすと滝の裏の岩には隙間があった。その向こう側に光が見える。
(狭いけど……、どうにか通り抜けられそうだ)
ハヨットは身をかがめ、その隙間に潜り込んだ。
隙間の中は薄暗い。足元もでこぼことしていてその上湿った苔に覆われており、気を抜くと足を取られて転んでしまいそうだ。ハヨットは注意深く一歩ずつ、ゆっくりと足を踏みしめて進んでいく。
やがてハヨットはその足裏の肉球に感じるものに変化を覚えた。水をたっぷり吸った苔とは違う、ふわふわとした軽い感触。
ハヨットが顔を上げるとそこは真っ白な雲の上、天界だった。
岩の隙間を抜けた先にあの鳩はおらず、代わりにミカエルの姿がそこにあった。ハヨットは戸惑ってミカエルに声をかける。
「あの、ミカエル様、こっちの方に白い鳩さんが……」
ミカエルはツイと横を向いた。その視線の先の空が赤い。
「さぁ行きなさい。獣の少年よ」
「ナサニエル様!」
雲の上で四つ足を踏ん張り、猛然と駆けて来たスピードを殺しながらハヨットは叫んだ。
空が一段と赤く染まった下では、ぐったりと目を閉じたナサニエルが人型に変貌した悪魔に後ろから抱きかかえられ、宙に心もとなげに浮かんでいる。
「ククク。小僧っ子、よくあの森から出て来られたものだな。だがここまでは来られまい……?」
悪魔はクツクツと笑いながら三対のコウモリの翼を羽ばたかせた。ナサニエルの足が雲から離れ、宙にぶらりと投げ出される。そのまま悪魔は後退して雲の足場から遠ざかっていく。
「何をしているのです。その少年の援護をしなさい!」
ミカエルが矢のように飛んできて、呆気に取られハヨットを見つめていた智天使と座天使を叱りつけた。
「はっ!」
「私の背中に掴まれ!」
差し出された座天使の背中にハヨットが乗る。智天使と座天使は手に手に光の剣を携え、雲を力強く蹴り上げて空に飛び上がった。
「ナサニエル様から離れろ! この悪魔め!」
悪魔は嗤って片手を突き出した。黒い稲妻がほとばしる。智天使と座天使が左右に分かれ稲妻をかわした。悪魔は嗤いながら立て続けに稲妻を放つ。智天使と座天使は縦へ横へと次々それをかわしていく。
悪魔の猛攻を避けながらの一進一退でありつつも、智天使と座天使は次第に悪魔との距離を詰めていった。周りを旋回しつつ、悪魔からナサニエルを引きはがす勝機をうかがう。
その中で唐突に、智天使が飛び出し悪魔に斬りかかった。予想だにつかないタイミング、奇襲だ。しかし悪魔は余裕の表情のまま片手でその剣を受け止めた。
「ほぉらこの通り。あーあ、軽いんだよなぁお前らの剣は」
しかしそれが天使たちの狙いだった。その隙に座天使が翼を大きく一つ羽ばたいて悪魔との距離をぐんと詰める。ハヨットは手をのばした。ぐったりと目を閉じたナサニエルの姿がすぐ目の前にまで近づいてくる。もう少しで、その手が届く……。
だが。
「そして甘ぇんだ、お前たちの策はよ。ほぉーら、この通り!」
掴んでいた剣を指先一つでピンと弾いて、その顔を向けもせずに手首だけをわずかに回して。悪魔は手の平を座天使の方へ向ける。その手から一際大きな稲妻がほとばしった。座天使が大きく翼を打つも、黒い稲妻がハヨットの視界いっぱいに広がって迫る……!
(ダメだ、よけきれない!)
ハヨットはギュッと目をつむった。その時。
「何をしているのです! その少年をちゃんと守りなさい!」
バチッという鋭い音。それにハヨットが目を開けると、ミカエルが翼を広げ二人の前に飛び出し悪魔との間に割り入ってきていた。その手には振り上げられた剣。
剣によって跳ね返された稲妻は悪魔に向かって飛んでいく。
しかし悪魔は特段慌てる様子もなく落ち着き払ってニヤリと口を歪めると、そのまま宙に静止しその稲妻を受けた。己の体に、いや、自分と癒着したナサニエルの体に。
すさまじい音と共にナサニエルの体がのけぞる。目を閉じたままのその顔が苦痛に歪み、喉の奥からは叫び声が絞り出された。悪魔はそれを涼しい顔をしてただ見下ろす。
「やめて!」
思わずハヨットは叫んだ。ミカエルは剣を下ろし奥歯を噛み締める。
「何と卑劣な……!」
「この通り、この通り……っと。クク、狙い通りもここまでくると、とんだ傑作だなぁ。……ま、お遊びはこのへんにしといてやろうか」
そう言うと悪魔はゆっくりと三対の黒い翼を羽ばたかせ、まるで壇上に上がるかのように、一段高い位置にその身を置いて制止した。そうして今一度、天使たちの方に向き直る。
「さぁ感動のフィナーレだ、ご静粛にご静粛に! 無能な観客諸君、そこで黙って指をくわえて見てやがりな。愛しのナサニエル様が堕ちていくサマをなぁ!」
ドクン、と悪魔の腕が脈打った。
「うあぁ……っ!」
ナサニエルの口から声が漏れる。その背中に突き立てられた腕がビキビキと音を立て、より一層コウモリの翼めいた形へと変わっていく。悪魔はナサニエルの頬を愛おしげに撫でた。
「待ってろよナサニエル。じきにお前も再び自由にこの空を飛べるようになる。俺と一緒にこの空をモノにするんだ。俺が、お前の片翼となってやる……」
ハヨットは座天使の背中から身を乗り出した。
「天使の片翼は僕だ! お前なんかじゃない! お前なんかにナサニエル様は渡さない! ナサニエル様、目を覚まして! ナサニエル様……っ!」
ハヨットは声の限り叫んだ。喉がヒリついて痛むのもいとわない。
ナサニエルのまぶたが、ピクリとかすかに動く。
◆
黒い闇の中。閉ざされた世界。
自分の姿さえも見えないその中を、足を引きずるようにしてナサニエルは歩いていた。己の周りでは、笑い声ともすすり泣きともつかない音だけが響いている。
「助けて……」声をかけられて近づけば、
「役立たずの天使様」無下にはねつけられ。
「この天使の面汚し」ののしられて背を向けては、
「どうしてお赦し下さらないのですか……」その背中に縋られる。
ナサニエルはふと、疑問を抱いた。
(私はなぜ今こうして歩いているのだろうか。行く当てもない。このまま歩き続けていたって良いことなど一つもないだろうに)
一歩ごとに、背中に一つだけ残った翼に無数の手が絡みつく。
一歩ごとに、背中に一つだけ残った傷に無数の蛇が潜りこむ。
背中から全身に広がる倦怠感と鈍い痛み。歩けど歩けどついて回る笑い声とすすり泣き。
(ああ、もう、誰も彼も、私を放っておいてくれ。もう私はこの歩みを止めるぞ。この無意味で馬鹿馬鹿しい歩みを止めるぞ。私はもう、私はもう、〝赦しの天使〟などでは――)
ナサニエルが足を止めかけたその瞬間。
彼の視界に白い光が見えた。ナサニエルはハッとしてそちらに足を向けた。
黒い大きな獣が見える。その姿はまばゆい白い光に包まれ、ナサニエルに向かって無我夢中で駆けてくる。獣は口を開いた。
「ナサニエル様……っ!」
「ハヨット……っ!」
気がつくとナサニエルは獣に向かって叫び返していた。そして獣の方へ駆け出そうと一歩踏み出す。
その瞬間ナサニエルは、獣を包んでいるのと同じまばゆい白い光に包まれた。
◆
「ハヨット……っ!」
ナサニエルは目を開けた。その視界には、座天使の背中から身を乗り出し涙を浮かべて自分を見つめる獣人の少年、ハヨットの姿が。
「ナサニエル様……! 良かった、気がついたんですね……っ!」
「ハヨット……! 私は、私は……!」
その交わされる言葉を、ざらつく声が引き裂いた。
「おいおい、もうお目覚めかぁ? 早い早い、まだ寝てても良いんだぜ……?」
そう言って悪魔は再びナサニエルの目に手をかざそうとする。
ナサニエルは悪魔に目を閉じさせられるその前に自ら目を閉じ、眉根をグッと寄せた。ナサニエルの内側から、パアッと白い光が溢れ出す。
「お、お前、何を……っ!」
ブチィッという鈍い音。悪魔の腕がナサニエルの背中の傷から押し出される。その勢いで悪魔は宙に吹き飛ばされた。
「グ……ッ!」
悪魔は顔を歪め、再びその腕を伸ばした。悪魔のしなる黒い腕はヒュッと空を切る音すら立てて、ナサニエルを捕らえ穿とうと迫る。
「させないぞ!」
ハヨットは座天使の背中から跳び上がった。いや、彼は空へと飛び立った。
少年の小さな体が、迫り来る悪魔の腕に真正面からぶち当たる。悪魔の腕は少年の体を貫くこと能わず、バチッと鋭い音を立てて弾き返された。その時、少年の体は一瞬パアッと白い光を放ったように見えた。
勢いを削がれてだらりと垂れさがる悪魔の腕。そのまま宙で大きくバランスを崩す悪魔の体。驚きによってただただ見開かれた、悪魔の目……。
ナサニエルとハヨットはそのまま宙に投げ出された。
「危ない!」
智天使そして座天使がそう叫び、落ちゆく二人を受け止めようと飛んでくる。
しかし、不思議なことが起きた。
ナサニエルとハヨットを同じ白い光が包み込んで二人の体は宙に浮かび、互いに引かれ合うように近づいた。二人は手を取り合いゆったりと空を飛んで、そのままふわりと雲の上へ。彼らの足が雲の地面に着くと、二人を包んでいた白い光はスゥッと静かに消えた。
呆気に取られてそれを見ていた智天使と座天使、そして燭天使ミカエル。しかし二人が雲の上に戻ったのを見ると、三人の天使はハッと剣を構え直し悪魔の方に向き直った。
悪魔はしばらくの間は宙でよろめいていたが、やがてバランスを取り戻し天使たちの方を振り向いた。その目がミカエルらを通り越して、ナサニエルそしてハヨットを見る。互いの手を固く結び、己の方をまっすぐに向く二人の姿を。
悪魔はフンと鼻を鳴らし苦々しげに口を開いた。
「……どうやら、お前の獣は〝赦された〟ようだな」
ナサニエルは自分の傍らにいるハヨットの顔を見て穏やかに微笑んだ。
「ええ、そのようですね。そして、私自身も……」
その穏やかな表情でナサニエルは続けた。
「赦しとは、私などが与えるものではない。赦しとはその人自身が決めるもの。私はその背中を押すだけの無力な存在に過ぎません。……それで良い。それを私は私自身に赦したのだから」
ナサニエルは悪魔にその眼差しを向けた。
「あなたもご自分を赦しては? 私はあなたより地位の低い、片翼を失った無力な力天使。それに、この発言は父に背くものかもしれません。ですが私は思うのです。あなたはもう……あなた自身を赦してやっても良いのではないでしょうか」
悪魔は一瞬の、ほんの一瞬の沈黙のうちに。ニヤリと笑って口を開いた。
「……ヘッ。大きなお世話だよ、〝赦しの天使〟サン」
それを聞き、ナサニエルはより一層穏やかな微笑みを浮かべた。
「悪魔よ、言いたいことはそれだけですか?」
ミカエルが言いながら抜き身の剣を構え、ずいと前に出る。
「よぉ、兄弟。今回は引き分けだな」
ヘラリと笑って言う悪魔にミカエルは淡々と答えた。
「我々の勝利に決まっています。それに、私がお前と兄弟であったことなど、後にも先にも断じてありません」
「ケッ、ただの挨拶じゃねぇか。ったく、相変わらずおカタイねぇ。……それに、今回は少なくともお前は勝ってねぇよ。まぁ言うなれば、そいつらの勝ちだろうさ」
悪魔はナサニエルとハヨットを顎でしゃくった。ミカエルはやや表情を緩め、それに黙ってうなずいた。
「さぁ、戻りなさい。地獄へ、お前の王国へ」
ミカエルはそう口にして再び表情を硬くする。彼が抜き身の剣を振り払うと悪魔の翼に炎がついた。悪魔はニヤリと浮かべた笑みのまま、青い青い底なしの青へと堕ちていった。
空の色が清い青に戻る。シンと辺りに静寂が満ちる。穏やかな、心も体も洗われていく清々しい早朝のような静寂が。




