6:メイリオ文字が読めるのですか?
神獣に荒らされた温室と母屋の片付けに取り掛かる二人。久遠は、いのりが恨めしげに向けてくる視線は不当だと思ったが、割れたガラスを集め、倒れた書棚を起こして、散らばった書物を適当に押し込めた。壊れた家具を裏庭に運び出す頃には、時計は正午を過ぎていた。
久遠が母屋の食卓につくと、いのりも向かいの椅子に座った。久遠がそわそわと所在なさげにしていると、いのりは遠くを見るような目つきで言った。
『いくら待っていたってお茶なんか出ないんですよねえ。セルフサービスなんだから』
「幽霊だから何にも触れないっていうのなら、普通にそう言えばいいのに」
久遠は呆れたように席をたつと、ミニキッチンに立った。
「このガラスのティーセットは?」
『高価でもないので何を使ったっていいですが、一度すすいだほうがいいでしょうね』
「ん、わかった」
久遠は棚から適当な茶葉を見つけると、湯を沸かしてお茶を淹れ、席に戻って口をつけた。
「まっず!」
『ああ、やっぱり茶葉は腐ってましたか』
久遠は考えることをやめた。
「それで、これはいったいどういう状況なんだろうか」
『そうですねえ。あなたがここに居る理由、あなたの素性や記憶すらわからないのなら、まずは錬金術に触れてみて、この場所への理解を深めるのが合理的だと思うんです』
「錬金術、錬金術ねえ」
『それに、さっきのような神獣がまたこの植物園に迷い込んでくるとまずいですよ。まずは身の安全を確保しましょう。神獣が襲ってこないよう、墓所の結界石を修繕するんです』
「墓所?」
『この植物園の周囲に広がる広大な霊園のことです。ここにもかつては小さな王国があって、緑豊かな国土を誇っていましたが……。霊園と外界の境界線には結界石というものが埋め込まれていて、今も神獣の侵入を防いでくれているんです』
「国が滅んで墓所に変わっても、神獣に襲われ続けてるってことかあ……」
久遠は訊いた。
「あのガラスアンプルは?」
『さっき使ったのが最後の一本でした。必要なら錬金炉で作らなければなりません』
「なら話は早い。それを作ればいいだろ」
久遠はそう言って、アトリエブースのほうへ向かった。
レンガ造りの炉を覗き込んだ久遠に、いのりは食卓に頬杖をついたまま告げた。
『壊れてるんですよ、それ。だから錬金炉を治すための素材も必要になりますね』
久遠は「ふむ」と不安げに椅子に戻ると、手近な日誌を手にとってぺらぺらとめくってみた。
『メイリオ文字が読めるのですか? これは鍛えがいがありますね』
「メイリオ文字って、この日誌の文字?」
『ええ。この国の人々は、それぞれが公用語の他に信仰する言語を持っています。もとい持っていました。それがその人の思考様式や価値観を内外に示すものとして機能するからです』
「案外、機能的なんだな」
『信仰や風俗というものは、得てして機能的なものです』
いのりは続けた。
『そしてこの国の国定錬金術師たちは、だいだい古代液晶文明の産物といわれるメイリオ文字を信仰してきました。その理由は単純明快で――』
「錬金術の思想体系や理論を正確に記述するのに、もっとも適当だったから?」
『そのとおりです。飲み込みが早いですね。期待大です』
「ちなみにこの国の公用語っていうのは?」
『エリアル文字とヘルベチカ文字ですね。わたしたちが今しゃべってるのはヘルベチカです』
久遠は椅子の背もたれに体重をあずけ、天井を見上げた。
シーリングファンがぐるぐる回って、日陰と日向を交互につくる。久遠は目を細めた。
植物園の母屋は、全体的に照度が高い。
『メイリオ文字は語彙や表現に長けるぶん、難解なことで知られるんです』
「どうしておれは、そんな言語を難なく扱えてるんだろう」
『さあ。じつは錬金術師だったとか?』
「もしこの国の歴史上の人物だったのなら、それこそ、そこの日誌に記述があるはずだろ?」
『道理ですね』
久遠は一息つくように、腐ったお茶を一口含んだ。いのりは一瞬だけぎょっとした。
それから二人して、はあ、とため息を吐いた。
いのりはテーブルのティーポットを指で撫で回しながら、『要するに』と物憂げに言った。
『人類が絶滅して五万年。存在しないはずの生きた男の子。それがあなた、久遠さんです』
「なんで絶滅したの」
『さっき見たでしょう。人類が神獣……オシラサマの逆鱗に触れたからです』
いのりは『とはいえ、これはあなたの力を借りるチャンスかもしれません』と改まった。
『神獣たちからわたしたちの街〝墓所〟を守る〝結界石〟という魔導器があるとお話ししました。修繕は喫緊の課題です。わたしのような幽霊ならともかく、神獣の脅威をもろに受ける生身の人間――他でもない久遠さんが現れたともなれば、今すぐにでも』
久遠は、工房の側で化石化しているイノシシの神獣を見やった。
「あんなのに何度も襲われるのは、さすがに怖いな……」
この世界が何なのか、おれ自身が何者なのか、わからないことは多い。けれど今さっきこの神獣に襲われた身としては、この機械なのかイキモノなのかすらわからない存在が脅威だということは、想像に難くない。
「まずは身の安全を、ね……」
久遠は困ったように頭をかくと、腐ったお茶を飲み干した。いのりは目を丸くした。
『今、それ飲みました?』
「わかった。準備」
『はい?』
「だーかーらー! 準備が必要なんじゃないか? 記憶も無いんだ! 丸腰で外を歩けるわけないだろ!」
いのりは、ぱぁっと花が咲くように明るくなった。
『……! ありがとうございます! 出発は明日早朝! 早速準備をしましょう!』
「……これっきりだからな」
久遠は、釈然としない顔で言った。