Zum Ewigen Frieden
半年が経ったある日の夜、久遠は懐かしい悪夢で目が醒めた。白い部屋でお父さんと呼ばれ続ける夢だ。ふわふわとした浮遊感。光る文字盤。女の子の声。そして〈アルマの器〉に似た球形魔道具……。目が醒めたあとも、生々しい現実感が脳裏にこびりついて残った。
此処に来た当初と違って、夢は本来の色味を帯びて明晰夢と化していた。久遠がまだ雲野久遠研究員と呼ばれていたころの、地球での記憶。白い部屋は、東京湾上国際宇宙エレベーターのジオステーション。文字盤はパソコン、女の子の声は人工知能・アルマの声で、丸い魔導具はJAXAの開発したイントボールとかいう情報端末だと、今の久遠は知っている。
「だから、おれは父さんと呼ばれるほどの歳じゃない」
そうぼやきつつおもむろにベッドから半身を起こすと、部屋の隅に置いた小さな鉢植えが目に映った。かつていのりと一緒に植え替えた、ナントカとかいう観葉植物。株分けのさいに温室の花壇に植え替えたのだが、余った小さな株をいのりが鉢植えにさせてくれたのだ。
窓の外はまだ真っ暗で、マザランの月明かりに照らされた花壇や墓標が見える。静かに咲く睡蓮や芝桜の花が幻想的に浮かび上がっていた。遠くからは鈴虫の鳴き声も聞こえる。久遠は仕方なくベッドから抜け出すと、扉の隙間から明かりが洩れていることに気づいた。
いのりが天文台に残ると決めてから、あっという間に半年が経っている。いまこの植物園で暮らしているのは、おれと、たまに訪れる墓所の浮遊霊だけのはずだ。久遠は寝巻きのまま寝室をあとにした。浮遊霊なら、いつものように歓迎しなくてはならない。
ゆっくりとリビングに足を踏み入れると、そこには桜色の髪のホムンクルスがいた。まるで、昨日も、今日も、最初からずっとそこに暮らしていたかのような雰囲気で。だけど、そんなはずはないのだ。久遠は、いのりが帰ってきたのだと知った。だけど、なんて声をかければいいのかわからない。いのりはテーブルについて、何やら書類作業をしていた。
いのりは薄い寝間着に身を包み、肌寒さを和らげる肩掛けをふんわりと羽織っていた。読書用の赤縁の眼鏡も掛けていて、ストラップで首から提げられるようにしている。淡い桜色の髪はクリップで無造作に結い上げており、普段とは異なる寡黙で知的な雰囲気を纏っていた。
久遠が近づいてきたことに気づくと、いのりは眼鏡を外して彼に問いかけた。
「眠らないのですか?」
「眠れないんだ。いのりも眠れないのか?」
「眠らないんです、わたしは」
いのりとテーブルを挟んだ椅子に座った久遠に、二枚の錠剤のシートが差し出される。
「睡眠導入剤のマイスリーと、選択的セロトニン再取り込み阻害薬のジェイゾロフト。さっき植物園に戻ってきたときに、錬金炉で調合しておきました」
「薬を飲むのは、ちょっと怖いな。自分が病気になった気がして……」
「では、こちらを」
いのりは錠剤のシートを引き下げると、今度は湯気のたつ白いマグカップを差し出した。
「抑肝散加陳皮半夏。自律神経の安定をはかる生薬の湯薬です。ゆっくり飲んでくださいね」
久遠は一瞬だけ戸惑ったような表情を受かべ、恐る恐るマグカップを手にとった。
「即効性はありませんので、これくらいなら明日から調合してあげられます」
「まずい……」
「良薬は口に苦しと云いますから。落ち着くでしょう?」
夜更けのいのりは、昼間の明朗快活さと比べると、どこか落ち着き払っていて、大人びた余裕を醸し出していた。微かな吐息と呼吸に合わせて、いのりのたおやかな胸元の膨らみが僅かに上下する。こうして見ると、とても綺麗なひとだな……と久遠は思う。
そんな彼女の手元には、書きかけのノートとボールペン、それから……。
「賢者の石……」と、久遠はテーブルの上の欠片を指して呟いた。
「昨日、天文台から持ち帰ったものです」
「魂を保存する情報結晶体、光化学ホールバーニングメモリー……なんだっけ」
「ええ。錬金術の根幹となる、世界のレシピです」
そう言っていのりは、綺麗に掃除された錬金術の工房のほうへと視線をやった。役目を終えたアルマの器と太刀が、仲良く錬金炉の近くに丁寧に立てかけられていた。
久遠はいのりの淡い桜色の虹彩をまっすぐ見つめ返すと、問いただすように言った。
「あんた、本当に此処で何万年も待ち続けるつもりなのか? こんな誰もいないほしで、全人類の播種が終わるまで。すべての地球人を電波干渉計が観測し終えるまで……」
「もう、一人じゃありませんから」
いのりはペンを動かす手を止めて、じっと久遠の黒い瞳を覗き込む。忌憚のない真っ直ぐな視線にたじろぐ久遠。いのりは真剣な表情を湛えて彼に問うた。
「久遠くんこそ、墓所で眠りに就こうという心積もりはないのですか? 観測が終わった地球人は、錬金炉での再生が始まるその時まで、トドゥル人たちと同じ墓所のストレージにメモリー保存されるのが通常です。いくらあなたが播種計画を立案し、そのための先駆けとして送り込まれたひとだったとしても、もう墓所の外を歩き続ける大きな理由は無いのですよ」
「墓所の中でのデータ冬眠。地球の同胞たちが眠ってる墓所のクラウドデータ。戻りたくないと言ったら嘘になるけど、まだ此処での気持ちを整理しきれてないっていうか……」
「わたしとしては、いくらでもこの植物園にいてくれていいんですけれども」
「そうもいかないよ。観測完了まで、あと数万年はかかるんだから。錬金術でプリントしてもらったこの身体も、テロメアが幾分か克服されているとはいえ、保って千年だ。あんたみたいに、ホムンクルスでもないかぎり、永遠なんて言葉は嘘になる」
「まあ、そうですよね……」
ふたたび、沈黙。いのりは続きを急かすことなく、ノートの続きに取り掛かった。
やがて一息吐いてから、久遠は続けた。
「いや、嘘だな。戻りたくないんだろうなあ。居るべき場所に、現実に」
「あなたは少しだけ、他人と自分に失望してしまっただけなのだと思います」
「そうかな」
マグカップの水面に映る自分の黒い虹彩を覗き込みながら、久遠は自嘲げに口の端を歪める。
いのりはペンを動かす手を止めぬまま、にべもなく返す。
「他人を好きになる余裕がないだけなのだと思います。好きになるって体力が要りますから」
「好きになるには体力が要る……?」
「ふふ、いつか誰かに好きって言えるだけの心の余裕が出来ると良いですね」
そう言って、いのりは久遠のおでこを優しく弾く。久遠の短い前髪が少しだけ跳ねた。
でも、それだけ。
また夜の静けさが戻ってくる。いのりがボールペンを走らせる音と、久遠が湯薬を啜る音。
久遠はいのりの書きかけのノートを覗き込むと、
「日誌?」と問うた。いのりは、はにかんだように苦笑した。
「文章を考えるのって、あんまり得意じゃなくて」
「わかる。とくに初めの書き出しが難しいんだよな、文章って」
「そうなんです! わたしもそれがきらいで。出来ればやりたくないくらい」
いのりが賛同するように手を合わせて言うと、久遠はマグカップを置いて長く息を吐いた。
「やりたくないことは分かるのにな……やりたいことは分からない。見えてこない」
「そういうものだと思いますよ。頑張るって怖いことですから」
「怖い?」
「ええ。頑張るって、一種の盲目であり、身を捧げるってことじゃないですか。だけどその頑張りが正しい方向であるという保証は何処にもない。闇の中を闇雲に走ってるだけなんです」
「文章の書き出しと似てるな。このまま書き進めていいのか分からないのに、本当に書きたいことにまで繋げられるか分からないのに、手を動かさなきゃそれが分からないんだ」
テーブルの上のランプの燈火が揺れて、二人の横顔をめらめらと照らしあげる。
やがていのりは、ポツリと自問するように呟いた。
「自分で選ぶことって、尊いことだと思いますか?」
「なんの話?」
「いえ、とくになんの話というわけでもないんですが……」
そこで会話を途切れさせてしまったいのりに、久遠は湯薬を啜りながら言った。
「おれは、自分で選ぶのは嫌いだなあ。敷かれたレールを辿るほうがよっぽどいい」
「わたしもです。自分で決める、自分で選ぶ。とっても恐ろしいことだとすら思います」
いのりは日誌をつける手を止めると、モンブランのボールペンを手元に置いた。
それから両の手の指を絡ませると、部屋の壁のガラス越しに夜のサンルームを見つめた。
後ろ耳に回していた一房の髪がしゅるりと滑り落ち、桜色の瞳が物憂げに揺らぐ。
「ロマンティックラブイデオロギーという学説があります。へんてこな名前ですけど、本当にある学説だそうですよ。平たく説明すると、恋愛結婚は選択の自由や社会階層間の移動の自由といった近代化の礎を支えた一方で、実は見合い結婚が主流だった頃と比べて婚姻率は大幅に下がってしまった、という主張です。ふふ、恋愛結婚、憧れますけどね」
「自分で選んだひとを愛するか、あらかじめ選ばれていたひとを愛するか。本質的には同じことなのに、どうして前者のほうが価値があると捉えられていたんだろうな。おれたちにできるのは、与えられた選択肢から納得できる最善を選び取ることくらい。それを運命や選択として受け入れられるのだとしたら、それはとても果報者なんだろうなって。おれはそう思うよ」
暖色系の照明に照らされた、板張りのラウンジ。天井で静かに廻るシーリングファン。
久遠はマグカップを置くと、サンルームや外の庭園から聞こえてくる虫の声に耳を傾けて、
「いのりは、恋愛とかしないのか?」と続けた。
「この星……いえ少なくともこの植物園には、あなたとわたししかいませんよ?」
「そうだったな……」
「わたしとあなたは、さしずめアダムとイヴって具合でしょうか」
「笑えないなあ」
いのりは桜色の唇にボールペンを持った手をあてると、「くすくす」と悪戯っぽく微笑んだ。
「ね? 怖いでしょう?」
「寝る。お薬、ごちそうさま」
「ふふ、それがいいのかもしれませんね」
テーブルを発った久遠は、アトリエの書棚やミニキッチン、錬金ブースの間などを縫っていった。それから立入禁止と厳命された地下室の扉を一瞥しつつ、母屋の奥にある小部屋へと進む。ドアを開けると、そこには綺麗に掃除された非常に狭い物置部屋があった。久遠がこの植物園で居候をすると決めたとき、いのりが寝室として割り当ててくれた部屋だった。
散らかった部屋の簡易ベッドに横になってから、久遠はベッドサイドのランプを消した。
「久遠さーん? 寝ちゃいましたかぁー?」
ぎぃ……という音を立ててドアが開く。いのりが寝室まで入ってきたのだった。
「なんでおれの部屋までついてきたのよ……」
「眠れないと仰ってましたので、お姉さんが側にいてあげます」
「お姉さんとは」
いのりは「よいしょ、よいしょ」と椅子を枕元まで動かしていく。ちょっと重そうだ。椅子に腰掛けると、窓から洩れる仄かな月明かりに照らされて、彼女の姿が浮かび上がった。
久遠は少しだけ嫌そうな顔を浮かべたが、すぐに睡魔が襲ってきたようだった。目蓋を重たげにしながら、無防備な声で「いのりは……」と問いかける。
「いのりは、眠らないのか?」
「眠れ、ないんです」
いのりは少しだけ寂しそうな抑揚を滲ませて、そう答えた。
けれど久遠には、その瑣末な声の機微を聞きとることは出来なかった。
「あのとき、二人で一緒に植え替えたあの植物、なんていう名前なんだっけ……」
「スパティフィラムです。花言葉は「清らかな日々」「包み込む愛」――」
すぅっと耳に染み込むような声とともに、久遠は深い眠りに落ちていく。
遠退いていく意識の中でいのりが何かを言った気がしたが、彼の耳に届くことはなかった。
「おやすみなさい、お父さん。花が咲くの、楽しみですね」
――了。




