2:はい、いのりです
「温室だ」
久遠は呆けたように、目を見開いた。
そこに広がっていたのは、ピラミッド型の小温室だった。溢れんばかりの緑、白飛びするくらいに明るく射し込む爽やかな朝日、ガラス越しに青空が見え隠れする。
温室一面に広がるレンガ畳の花壇と小道には、元気一杯に育った観葉植物たちがところ狭しと賑わいあっていた。それぞれにちゃんと名札も添えられていて、ヒスイカズラ、コウモリラン、ベニノキ、ゲンペイカズラ、サンセベリア、リュウビンタイと種類は尽きない。色とりどりの蝶、小鳥のさえずり、視界の隅を駆けていったのは……リスだろうか。
「すごい湿気」
美しい温室だ。これだけの種類の観葉植物、きっと手入れには途方もない労力が費やされていることだろう。久遠は今自分が置かれている状況も忘れて、感動したようにレンガ畳の小道を歩いた。
足元のシダ植物の影から可愛らしい七色のカナヘビが顔を出して、思わぬ闖入者を見上げてちろちろと舌を出す。小さな住人を踏んづけないようにしながらピラミッド型の小温室の中央へと進んでいくと、ガコン、という作動音が聞こえてきた。まもなく、温室の支柱のあちこちから、涼しげな霧が溢れ出してくる。
豊かな新緑、まばゆい陽射しと霧。さきほどの木造りの母屋から、またひとつ別世界に迷い込んだ気分だ。そしてそんな温室の中央には、蔦植物が絡みついた東屋があった。備え付けのミニテーブルには高価そうなボールペンと見慣れない黒い球体が置いてあり、手書きのノートも一冊放置されている。やはり永久野いのりという署名が記されていた。
「植物園日誌・第八五〇〇巻。ここの家主はいったいどこへ……って、うわっ!」
ノートをミニテーブルに戻した久遠は、温室を改めて見渡して、ぎょっと飛び跳ねた。
しゃがみ込み、地べたに敷き詰められたレンガ畳に手を伸ばす。
木漏れ日に揺れるレンガのひとつひとつに、何やら細かい意匠が彫り込まれていた。
それらの意匠に、よく目を凝らしてみる。
「これ、全部〝墓標〟じゃないか!」
そう、レンガに彫り込まれていたのは誰かの名前と、対になった年月日だった。
久遠はぞっとしたように、温室に広がる花壇を見渡した。
レンガのタイルひとつひとつ、すべてに異なる名前が刻まれている。
名前だけならまだわかるが、これみよがしに年月日まであったら、疑いようなく〝墓〟だ。
「なら、日誌に書かれてた名前もあるんじゃないか……?」
久遠はしゃがみ、レンガに刻まれたひとつひとつの名前を探っていった。数刻後、目当ての名前を見つけると、いよいよ〝お化け屋敷〟という所感も現実のものとなりつつあった。
「――とわのいのり、七九一五年逝去」
TOWANO INORI(7894〜7915)と彫られている。
久遠は途方にくれたように頭をひねった。
「参ったな。やっぱりもう亡くなってる。話とか聞きたかったのに」
『お話くらいなら、いつでも聞いてあげますよ?』
「ぅわ!」
突然背後から届いた凛とした少女の声に、久遠は上擦った声で肩を震わせた。
恐る恐る背後を振り向く。そこに立っていたのは……。
「永久野、いのり?」
『はい、いのりです。この植物園を主宰する国定錬金術師第二十九号』
「植物園?」
『王立第伍霊園附属緑化推進試料館って正式名はありますケド、なにぶん長いから……』
久遠の背後に立っていたのは、二十歳前後の少女だった。
太ももまで届く細い髪は、ゆるい三つ編みのおさげ。老婆のように真っ白で透き通っている。
「でも、あんた、身体が透けてる」
『わたしの霊体ですか? あら、どこか変なところあったかしらん?』
東屋の噴霧器の下で寡黙に佇む背の高い少女。畳んだ日傘を片手に携え、すらりとした背筋を生真面目に正す立ち居振る舞いは、いかにもお嬢様然とした佇まい。けれど、ベニノキの幹に手を添える彼女の姿は、幽霊のように透き通っている。
いのりと名乗った少女は気恥ずかしそうに頬を掻きながら、肩をすくめてはにかんだ。
『まるで、幽霊を見るのが初めてっていう顔ですねぇ』
「初めてだけど、どう」
『田舎者かも』
「いま、おれのこと田舎者って馬鹿に」
『してないです』
食い気味に否定してくる。
なるほど、温室の東屋にゆったりと佇む〝いのり〟の身体は透けていた。
アルビノを思わせる真っ白な肌も、血のように赤い虹彩も。飾り気のないワイシャツと緑色の園芸エプロンも。裾の長い黒のフレアスカートに、革の編み上げブーツも。
そのすべてが半透明に透けていて、温室に入り込む朝日できらきらときらめいていた。
『それにしてもわたし、生身のニンゲンなんて久しぶりに見ました。いったいどこからいらしたんですか? 名前は? 生まれは? 仕事は? 信仰言語は?』
「待って待って、理解が追いつかない」
ずいっと身を寄せてくるに、久遠は諸手を挙げた。
『はいっ、待ちます。なんだって、ここにはこの世のすべての時間があるんですから』
「あんたはもう、死んでるんだよな?」
『おかしなことではないでしょう。ニンゲン、生きてる時間より死んでる時間のほうが長いんですもの。死んでるほうがヒトとして常態と言えませんか?』
いのりは畳んだ日傘を手放した。いのりの身体と同様に半透明だった白い日傘は、彼女の手を離れた瞬間、レースがほどけていくように、光の粒に分解されて消えていく。
新緑と薄明と霧に溢れた東屋に、いのりの声が響きわたった。
『変な人。あなた、幽霊じゃないですよねえ。ちゃあんと身体があるみたいだし』
「そりゃあ、普通のニンゲンなら身体くらいあるだろ」
『普通なもんですか。この星に生きた生身のニンゲンなんて、いらっしゃるはずが――』
そこまで言いかけて、いのりはハッと口をつぐんだ。
それから殺気だった様子で、温室に広がるレンガ畳の花壇を見渡した。
思わず「何を」と言いかけた久遠の唇に透けた人差し指をちょんとあてて、黙らせた。
『しずかに』
決して触れることのない、実体のない透明な指先。
それでも久遠は、自分の唇が少しだけひやっとするのを感じていた。
幽霊に触れられるのって、こんな感じなんだろうか。
『錬金炉は出力時に特定の重力波を発してしまう。神獣に気取られましたね』
いのりは声を低めた。
切れ長の瞳がいささかの凄みを帯びて、久遠はどきりとした。
すると二人の視界の隅で、鬱蒼とした花壇の観葉植物がかさかさと不自然に震えた。
『後ろにいます! 備えて!』