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1:アタカマ砂漠にて

 二一〇二年九月十八日。チリのアタカマ砂漠は雨季を迎え、五年ぶりに記録的な大雨を経験した。


 大量の雨水は洪水を起こし、やがて雨が過ぎ去ると二〇〇種を超す花が一斉に発芽する。

 からりと晴れた雲ひとつない青空。パタデグアナコの桜色の花が一面に咲きほこるなか、無数の白いパラボラアンテナが一斉に鎌首をもたげていく。

 ここは世界でも有数の乾燥帯。もっとも綺麗な天穹という謳い文句に嘘偽りはない。


「久しぶり。おれから連絡するのは四年ぶりかな」


 痩せ細った男の声が聞こえてきた。

 夜闇のように黒い瞳と黒い髪。そよ風に揺れる髪は短く整えられ、清潔感がある。

 通話に応じる声は少しだけ掠れていた。


「送った写真見てくれたんだ。そう、パタデグアナコ。このアタカマで数年に一度だけ見られる砂漠の花畑。エルニーニョが起こると一晩で七年分の雨が降って咲くんだとか……」


 見渡すかぎりの花畑だった。まるで天国か楽園かを想起させるくらいに。

 だけど、そんな砂漠の花畑を歩く男は……全身が血まみれだった。


 撃ち抜かれたのか、抉られたのか。お腹に大きな穴があき、ひゅーひゅーと空気が洩れる。


 高山帯ならではの砂地とそこに咲く桜色の花に、ぽたぽたと鮮血が滴り落ちていく。


「花言葉は……調べたけど見つけられなかったよ」


 男は少しだけ心残りそうに言った。まるで瀕死の重症を負ったことよりも、花言葉を見つけられなかったことのほうが、ずっと残念だと言わんばかりに。


「あれは電波干渉計。ここでは電波望遠鏡を六十六基並べて、ひとつの大きな電波望遠鏡として動かすんだ。謂わば世界でいちばん宇宙に近い場所のひとつ。……そりゃそうだろ? 宇宙の近さにだっていろいろあるもの。海蛍区だってアタカマだって、似たようなものさ」


 満天の青空。鮮血の赤。桜色の花。そして純白のアンテナ。

 音は響かず、暴力的な静寂が鼓膜を襲う。

 けれど、しばしの無音が続いたのち、男の息を呑むような息遣いが周囲に伝播した。

 電話越しの相手は、男が重症であると悟っていたのだ。


「……かなわないなあ。そうだよ。もう長くは保たないんだ、おれ」


 天文台の稼働に必要な手続きのため、男は等間隔に並んだ十メートル大のパラボラアンテナたちの間を縫って進み、山頂観測装置(AOS)棟へ向かっていた。

 息苦しさを感じて酸素呼吸器(OBA)を口元にあてるが、気休めだ。視界が霞んできたのは、出血だけのせいじゃないだろう。あたりまえだ。ここは高度五〇〇〇メートル。気圧は平地のほぼ半分。これだけ晴れているのに、気温も氷点下なんだから……。


「もう切るよ。地球再建主義者の連中と、ここで落ち合う約束をしたんだ」


 一方的に通話を切ると、血で濡れた右手から携帯端末が滑り落ちていった。

 山頂観測装置棟の軒下で、男は崩れ落ちるようにへたりこんだ。

 なんだか空で溺れているような気分だ。

 パラボラアンテナは、それらすべてがひとつの生命体であるかのように一様に角度を変える。


「……誰と話をしていたの、久遠先生」


 腰まで届く黒髪の少女が、音もなく現れた。十八歳前後の背丈に似合わず、声は幼い。

 どことなく仔犬を思わせる童顔。黒い瞳が猟犬のように揺れる。


「今となっては、どうだっていいことだろうに」


 久遠と呼ばれた男は壁に背を預け、息も絶え絶えに答えた。


「言われたとおりに準備しましたよ。ここがただの天文台跡地じゃないってこと、よくわかりました。これだけの電波干渉計が新品同然で放置されてきたなんて道理は――」


「電波干渉計には自動修復機能も盛り込まれてる。たとえこのまま数万年くらい放置したとしても、せいぜい髪の毛一本分ほどの誤差しか生じないだろうよ」


「まあ、アンテナって観測するだけじゃないですしね。例えば、何かを送信したりできる」


 黒髪の少女は酸素呼吸器を口にあてながら「そうでしょ?」と問うた。


「送受できるのは、所詮は文章だよ。受け手によっていかようにも解釈されてしまう」


「何が言いたいんです?」


「言葉は誤謬だから、いくらでも捻じ曲げられる。ヒトの魂を電子情報に転写したって言われる人工単子技術。あれだって結局は……プログラムで書かれた、ただの文章だろ?」


 久遠は「心配なんだよ」と虚ろに続けた。


「自分が書いた文章が正しかったのか。誤解を生まないのか。諍いをもたらさないのか」


「自分の書いた文章でしょうに」


 黒髪の少女は呆れたように、久遠の隣に腰を下ろした。

 久遠の血に濡れることもいとわず、壁に背を預け、乾いた青空を軒下から仰ぐ。


「あなたの紹介してくれた論文読みました。ただの人工知能に故人の声と口調と言葉遣いを反映させるだけで、七割以上の人間の脳がそれを本人だと誤認する……」


「そう、それが人工単子じんこうたんし技術の根幹。人間の人格の電子情報化を低コスト化し、人口に膾炙させた立役者。おれたちは魂の実在を証明しようとして失敗したんだ。だから魂の実在を証明するのではなく、魂の定義を変えることで、その半永久的な保存を実現させた」


「それで方舟主義者に殺されかけているんじゃ、世話無い話ですけどねえ」


 久遠は脇腹を押さえると、苦しげにうめいた。


「傷、痛みます?」


「いたい。むり。なきそう」


「山麓施設(OSF)棟から徒歩なんかで逃げて来るからですよ」


 黒髪の少女は「看取ってあげましょうか」と問うた。


「いいね、天国ってあると思う?」


「天国はありますよ。……あなたのような転生主義者たちが造ったんです」


「……生まれ変わったらさ、おれ、花屋になりたいんだ」


「素敵な夢ですね」


 久遠は「ほら」とポケットから等柱状の赤い水晶のようなものを取り出した。


「これって、光化学ホールバーニングメモリ?」


「おれたちは賢者の石って呼んでる。ここには人工単子として転写したおれの魂が入ってる」


「はあ。詩的ですね」


「この石があれば、おれは新しい世界に旅立てる。異世界にだって転生できるんだ」


 少女は「それだけ?」と声を絞り出した。


「たったそれだけのために、大勢の人を巻き込んだんですか?」


「最初はそうじゃなかった。でも、世界を救うのも、いい加減で飽きるだろ」


 久遠は切り揃った黒い短髪をもみくちゃに掻きむしった。


「人類、人類人類人類……あんな人たち、どうなったっていいじゃないか」


「呆れた。だからひとりで逃げる腹積もりなんですね」


 久遠の血溜まりが拡がっていく。

 手の中の賢者の石と、赤の鮮やかさを競い合っているかのよう。

 黒髪の少女は、途方に暮れるように言った。


「どうして、こんな先の見えない世の中になっちゃったんでしょうねえ……」


「裏切られたんだ」


 久遠は、啜り泣くような声音で続けた。


「こんな先の見えない世の中に生まれたくはなかったって、おれに銃を向けて……」


「無理に喋らなくていいですよ。わかりますから、そういう気分」


「気分って、どっちの」

 

 黒髪の少女は、答えなかった。


「看取ってくれるって言ったな。きみ、名前は?」


「いいえ、名乗る必要はないでしょう。もうじきあなたは死ぬ」


「ああ、もうじきおれは死ぬ」


「だから、扉をくぐらなければならない」


「そう、そのとおり。おれの思惑が正しく運べば、そこにはここではない世界が広がってる」


「馬鹿馬鹿しいですね。転生主義者ってみんなそうなんですか?」


「痛いくらいに承知しているけど」


「……まあいいです。天文台は動かせますよ」


「ありがとう。最期にきみみたいな子と話ができて、報われたよ」


「いえ、自分はもう逃げますから。あなたと道連れなんて、まっぴらですもん」


「ああ、そうだな。なら、はやくそうしたほうがいいよ」


「あのですね。怖くはないんですか?」


「多少はね。でも死ぬよりもこわいことを、おれたちはたくさん知りすぎてしまったから」


「ふうん。まあ、楽しい旅路になるといいですね」


 黒髪の少女はそう言い残すと、久遠を見捨てて何処かへ消えた。


「……うまく生き延びてくれたまえよ」


 久遠はそうつぶやくと、高山地帯の向こう側へと遠ざかっていく少女の後ろ姿を見送った。


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