行方不明の夏
「ただいま」
一人呟いて靴を脱ぐ。
誰もいるわけじゃない。
でも、そう考えるのが不安なんだ。
灯りを付け、小さな玄関から直接部屋に入る。女一人八畳のワンルームはがらんとしていてその無機質な雰囲気が本当はあまり好きではないのだけれど。
でももし、ここが実家のような大きな家だったら。
夜中に誰もいない部屋がいくつもあるとしたら。
だったら私はここには住めない。狭いからこそ住めるのだ。
いつものようにコンビニで買ってきた弁当とビールを出してテレビをつける。
『……ということで、皆様のご連絡をお待ちしています』
女性キャスターの声が部屋に響く。
スタジオに置かれた複数の電話の前には女性が待機している。電話が一斉に鳴りだした。
なんだろうこれ。
番組表を見ると『行方不明者一斉捜索。あなたの隣にいませんか?』
そうか。こういう番組は一年に一度くらいは放映されている。でも何十年も前のことを覚えている人はいないから、大抵は徒労に終わる。
それでも行方不明になった人の親は藁にもすがり付く思いなのだろう。
チャンネルを変えようかと思ったが特に面白いものもやってないし、このままこれを観るとしようか。
『次の事件は〇〇ちゃん行方不明事件。事件が起こってから二十年が経ちますが未だに手掛かりはなく……』
そうか。この事件もまだ未解決だったな。確か親が目を離して数秒の間にいなくなってしまった事件だ。神隠しとかいろいろ言われていたけれど恐らく誘拐だろうし、あの頃は防犯カメラがなかったから犯人も逃げやすかったんだろう。
ふと思った。こうやって捕まらずにいる犯人たちは今どこにいるのだろうか。
いつも寄るコンビニの店員。電車の隣の席の乗客。夜道ですれ違う見知らぬ人。その中に犯人がいないと言い切れるだろうか。
そして、また同じことをしないと言い切れるだろうか。
画面には被害者の男の子の笑顔の写真が映し出されている。
『幸せそうに微笑んでいますね』
『そしてこれが二十年経った〇〇くんの写真です』
大人の容貌に加工された少年の写真が画面に映る。
『お心当たりのある方はぜひご連絡ください』
その時だ。少年がニヤリと笑った。その目は完全に私を見ている。ぶわっと鳥肌が立った。
思わず目を瞑って開くと写真は笑ってはいなかった。
疲れてるのかな。最近残業が続いてるし。
CMが流れ始めて席を立つ。なんとなく玄関ドアが気になるのはどうしてだろうか。
ビールをもう一本持ってくると椅子に腰かけた。
『では次の事件です』
再現フィルムが流れ始めた。Y県のちょうど実家のような大きな家、そして小学校。これは十二年前の夏の事件だ。
『当時十二歳だった鈴木ゆかりちゃんは、その日の放課後、友人三人と学校内でかくれんぼを始めました。鬼となった佐藤メグミさんは他の二人を見つけることは出来ましたがゆかりちゃんはどこを探しても見つからず、数時間後、家族が警察に連絡しました』
その後、学校内や周辺の道路沿い、裏の山も含め大規模な捜索が行われたが、ゆかりちゃんは見つからなかった。
ゆかりちゃんがどこかに隠れたのは確かだろう。その後、彼女に何が起こったのか。それは恐らく本人にしかわからない。嫌な事件だ。
『しかし、この事件にはつい最近進展がありました。台風による裏山のがけ崩れで白骨化した死体が見つかったのです』
え? それは初めて聞いた。
『着衣等からゆかりさんの死体と断定されましたが、ただ未だに首だけは見つかっていません』
女性キャスターが無機質な口調で続ける。その目はまっすぐに私に向けられている。
『彼女の首はどこへ行ってしまったのでしょうか? もしかしてあなたがお持ちではないでしょうか』
あの日は……あの日は凄く暑くて、暑くて、暑くて。
『もしお持ちの方がいたら一刻も早く名乗り出てください。もう遅いかもしれませんが』
「ねえ、あの子邪魔じゃん。殺しちゃおうよ、可南子」
そう言ったのはメグミだった。私、メグミ、ゆかり、香住はいつも一緒に遊んでいた四人組の友達で、リーダー格はメグミだった。
「え? なんで?」
「だってほら、あいつ頭いいし顔もいいし、いつも持ち物自慢してくるし、うぜえんだよ」
「じゃあ、友達止めればいいじゃない」
メグミは放課後の教室で窓の外を見ながら舌打ちした。
「もう決めたんだ。それにさあ、人を殺してみたいと思わない? あたし、凄くやってみたい」
私は黙っていた。
「別に嫌ならいいけど。でも聞いたからにはあんたも殺すよ」
メグミは机の横に置いてあった紙袋を開けた。そこには鉈が入っていた。
ジジジジジ! 開いた窓からセミが入ってきて床の上をのたうち回る。メグミは眉をしかめてセミを踏みつぶした。
私は怖かった。メグミは身体も大きいし力も強い。もう従うしかないと思った。
「香住には内緒だよ。あいつは気が弱いから。それに共犯は少ない方がやりやすいしね」
実行日は三日後の放課後。メグミは私にゆかりと一緒に同じ場所に隠れるように指示した。校舎の隅の使われていない物置の中の古いロッカー。
「あたしは鍵を持ってるんだ。つけっぱなしになってたのを盗んだの」
メグミは南京錠をくるくる回しながら歯をむき出して笑っていた。
当日、午後四時頃だったと思う。その日はテストの日で早く授業が終わり、職員室の先生以外は誰もいなかった。
教室で四人集まり、たわいない話を続けていたが、メグミは突然かくれんぼをしようと言いだした。
特に断る理由もなかったのだろう、ゆかりも香住も反対はしなかった。
「じゃあ、あたしが鬼ね」
校庭に出るとメグミはそう言って桜の木に寄り掛かった。
「三分待つから、早く隠れてね」
穏やかそうな笑みを浮かべてメグミが言い放つ。
蝉の声がうるさい。頭がおかしくなりそうだった。
暑い、本当に暑かったし、心は鉛のように重かった。
「ねえ、ゆかり。一緒に隠れようよ」
「え? いいの? 私、本当は一人で隠れるの怖かったんだ。狭いところも怖いし」
ゆかりは閉所恐怖症だったのだと思う。
私がゆかりを連れて物置に入った。すでにロッカーは開けられていた。
かび臭い、暗い物置。ゆかりはちょっと躊躇っている。
「大丈夫。一緒に入るから先に入って」
ゆかりがロッカーの中に入ると私は素早く扉を閉め、鍵をかけた。
「あれ? なんで閉めるの? 怖いよ! 出して!」
がん、がん、とゆかりがロッカーを叩く。まずい。もし先生に聞かれたら。
「うるせえよ」
いつの間にかメグミが隣に立っていた。手には縄を持っていた。
ロッカーを蹴とばして横に倒す。ゆかりが悲鳴を上げた。ニヤニヤ笑いながら南京錠を開けると、メグミはゆかりの首に縄を巻いた。
身体を痙攣させ、苦しげに呻いていたゆかりが動かなくなるとメグミは私に足を持たせて裏口から外へ出た。そのまま裏山へ向かう。
蝉の声が激しくなる。子供とはいえ死体は重い。よろけながら鬱蒼とした木々の間を抜けてどのくらいの間歩いただろうか。
汗でねっとりした手が滑る。どすんと死体を降ろす。そこにはもう穴が掘ってあった。前もって持ってきたのだろう、例の紙袋やボストンバックやスコップが置いてあった。
「ここなら絶対見つからない。さあ、始めるよ」
メグミがビニールのレインコートを羽織って鉈を振り上げ、何度も何度も振り下ろす。血しぶきが上がり、ゆかりの首が胴から離れた。血濡れの髪を掴み、ゆかりの首を持ち上げると私のほうへ差し出す。
「これはあんたが持ってて」
そうすれば絶対に私は誰にも言えない。彼女にはそれがわかっていた。
ボストンバッグにビニールに入れた首を入れ、二人で身体を落とした穴を埋めた。スコップは近くにあった不法投棄されたゴミの中へ放り込んだ。
「わかってるよね、誰かに喋ったらあんたも捕まるんだからね。ああ、楽しかった!」メグミは踊るように山を下りていく。
こいつは化物だ。でも逆らうことは出来ない。私は人に見られないようにボストンバッグを抱えて帰り、自分の部屋に隠し、夜中に実家の裏庭の片隅にある何十年も前から使われていなかった古井戸の中に放り込んだ。
そうだ。思い出した。放り込んだんだ。なんで忘れていたのだろう、こんなに恐ろしいことを。
あの頃、自分がやってしまったことが怖くて、古井戸が怖くて、広くてがらんとした家が怖くて、全てから逃げたくて記憶の奥底にあの出来事を閉じ込めていた。中学はメグミと違う学校へ通い、高校を出てすぐに実家を出た。だからテレビを観るまで友人の名前も自分が関わったことも忘れていた。あの首を始末しなくちゃ。今度実家に帰った時……。
ピンポーン。
こんな時間に誰だろう。
『すみません。宅配便です』
ドアを開けるとそこにいたのは先ほどテレビに出ていた行方不明の〇〇くんそっくりの男だった。まさか……。
「どうかしましたか?」
「……いえ」
段ボール箱を受け取り、ドアを閉めて宅配便のトラックが遠ざかる音を呆然と聞いていた。
震える手で箱を開けてみると見覚えのあるボストンバッグが入っていた。そんな、なんで? いったい誰が。
いや、違うかもしれない。恐る恐るジッパーを開けてみた。
ジ、ジ、ジ。死にかけたセミのような音。思い切って一気に開けてみる。
何も入ってはいなかった。良かった。きっと誰かのいたずらだろう。それともメグミの性質の悪い冗談だろうか。とにかくもう見ていたくなくて急いでジッパーを閉めた。
ピンポーン。
また来客?
「どなたですか?」
答えはない。だが外に誰かがいる気配がする。そっとドアを開けてみたが誰もいない。急いでドアを閉め、鍵をかける。
ほっとして部屋のほうを向くと何か異様なものがテレビの前に立っていた。あれは……ゆかりだ。血まみれで泥だらけのその身体には首がなかった。
ひっと悲鳴にもならない声が漏れた。どうしよう。とにかく逃げようとドアを開けようとしたが、全く開かない。身体が自然に震えてくる。窓から出ようか。でも……。
無理やり首を動かして振り返る。ゆかりの姿はなかった。
そうだ。気のせいだ。幽霊なんかいるわけがない。
ジ、ジ、ジ。
あれ? 何の音だろう。ああ、ボストンバックが、ひとりでに。。
ジ、ジ、ジ。
目の前が急に明るくなった。そこに見えたのは目を見開いて驚いている可南子の顔。
そうだ。あの時、私は死んだんだ。だからずっと、ずっとずっと古井戸の底で、誰かが見つけてくれるのを待っていた。
悲鳴を上げ、腰を抜かした可南子の後ろでテレビの音声が聞こえてくる。
『ただいま、大変有力な情報が入りました。犯行を陰で見ていた人物からの情報です。犯人二名の名前も判明しました。警察にも通報済みです』
失禁し、狂ったように笑う可南子の声が聞こえている。
遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。
ああ、やっと家に帰れる。もう骨になってしまった眼窩から涙が流れることは二度とないけれど。
長い長いかくれんぼの終わり。
もう存在しない目を瞑る。一緒に行こう、と誰かの声が聞こえた。