1.待ち人の家⑦ 見送りの狼煙
◇ ◇ ◇
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
黄色い花は見つからず、部屋に戻ることもできず。
マキは膝を抱えて地べたに座り込んでいた。
通常なら外出禁止の時間帯だ。なのにセンセイは叱りに来ない。
(当然だよね。私悪い子だもん。叱る価値もない嫌な人間だ)
身震いする。室内用の薄い上着では、夜の野外に太刀打ちできない。夜気はあっという間にマキの体を冷やし、芯まで凍えさせていた。
(もう一度探そう。探して探して、謝らなきゃ)
そう思って腰を上げた時、背後で草を踏む音がした。
マキはリサの見せた、憤怒の形相を思い出した。振り向くのが怖かった。
「夜は外出禁止だろう? おまけに靴も履かずに。体が冷えてしまうよ」
降ってきたのは優しい言葉だった。
マキは目に涙を浮かべて振り仰いだ。
「センセェ……」
センセイは口の端を少し上げると、手に持っていた靴をマキの足元へと置いた。マキの靴だ。
促されるままに、立ち上がって靴を履くマキ。
次いでセンセイは自分の上着を脱ぎ、マキの肩へと掛けてくれた。そして、
「リサに謝りたいなら、ついて来なさい。本当は私ひとりでやるべきことだけど、今の君にはこれが救いとなるかもしれない」
そう言うと背を向けて歩きだした。
訳が分からなかったが、謝りたいならと言われれば、ついていかないわけがない。
マキはずり落ちる上着を手で押さえながら、センセイの後へと続いた。
センセイは宿舎の裏手に向かっているようだった。そこには遊具の類いはなく、ただひとつ、旅立ちの碑が置かれているだけのはずだ。
裏手の広場に出て、まず目についたのは大きな箱だった。
ここは表側の広場よりもこまめに手入れをしているため、草もきれいに抜かれている。そのむき出しの地面の上に、どでんと箱が鎮座していた。広場中央にある小さな石碑から、数メートルほど右に距離を置いた場所だ。金属製の長細い箱で、箱の下には薪がたくさん敷かれている。見たことのない箱だった。
箱の前に立つと、マキはセンセイを見上げた。
「センセイ、これはなに?」
「見送りの狼煙を上げるんだ。旅人が楽園にたどり着けるよう、祈りを込めて」
こちらには目を向けず、箱を見つめながら答えるセンセイ。
マキは、はっと声を上げた。
「リサは旅立てるのっ?」
「もう旅立った」
端的に告げられた事実に、がつんと殴られたような衝撃を受ける。
と同時に、リサが旅立てたことへの安堵感も訪れる。ふたつの感情がせめぎ合って混乱し、マキはしばらく口をぱくぱくさせた。
ようやっと言葉を見つけ、
「でも、標……」
それだけを返す。
「標は楽園へと導いてくれる羅針盤であり、住民となるための許可証でもある。決してなくしてはならない大事な物なんだ――だからこそ予備もある」
センセイは当然のごとく話し始めた。
「予備があると知れば、無意識にでも標の扱いがおろそかになる恐れがあった。だから予備の存在は隠していたのだけれど、その結果リサや君を苦しませてしまった……」
センセイが言葉を切り、マキに向かって頭を下げる。
「申し訳ない。もっと配慮すべきだった」
「ううん、私は……」
マキは口ごもってしまった。
標に予備があるのには驚いたが、だからといってマキのしたことが帳消しになるわけでもない。少なくともマキの罪悪感は決して消えない。
ここにきてマキは、先ほどのセンセイの発言について思いを巡らせた。
どれだけ時が経っても、きっと罪悪感は、マキの心に残り続ける。だからこそセンセイは、マキを誘ってくれたのだろう。
「さあ、リサを見送ってあげよう」
センセイは仕切り直すように手をたたくと、足元から木切れとマッチを拾い上げた。慣れた手つきでマッチを擦り、左手に持った木切れに火をつける。そのままかがんで、薪の隙間に木切れを差し入れた。
煙の筋が数本立ち始めると、あっという間に火は燃え広がった。炎に包まれた箱からはピンク色の煙とともに、甘い香りが漏れいでる。かすかに薬剤っぽい臭いも混じっており、どうやら箱に入っているなにかが、煙の色や香りに影響を与えているらしかった。
「マキ。実はリサから、君宛ての手紙を預かってるんだ」
「えっ?」
予想だにしなかった言葉に驚き、マキは顔を跳ね上げた。鼻先に差し出された手紙を引ったくるようにして受け取ると、まばたきもせずに読み込んだ。
マキへ。
嘘をついて別れたくはないから、正直な気持ちを伝えるわね。
まず、あなたが私の標を燃やしたこと。
これには本当に怒っています。
だって標がなければ楽園に行けないんだもの。
センセイが予備の標をくれなかったら、私はあなたを許せたか分からない。
私って嫌な人間ね。ごめんなさい。
でもこれが本当の気持ちなの。隠さず伝えたかった。
マキがこんなことをした理由は、ちゃんと分かってるつもりよ。
私もあなたと別れるのは寂しい。
ひどいことを言ってしまったことや、たたいてしまったこと……後悔しています。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。
もう一度ちゃんと謝りたい。
その意味でも私は、楽園に無事たどり着きたい。
楽園であなたと仲直りして、また一緒に笑いたい。
私は先に行くわね。
マキは私の大切な家族。大好きよ。 リサ
食い入るように、何度も何度も手紙に目を通し。
マキは肩を震わせしゃくり上げた。
「リサっ、ごめんね。ごめんね……ありがとう、大好きだよ。私も会いたい。待っててね、私も行くから。ごめんね、大好きだよっ」
思いついた言葉を、つながりも関係なくただ吐き出す。見送りの狼煙に乗って届くことを願って。
ピンクの煙は途切れることなく、空へ空へと立ち昇っていく。
マキは手紙をスカートのポケットへとしまい、燃える薪に視線を落とした。
触れたものを容赦なく燃やす炎は、同時にとても雄々しくきれいだ。寒気をむしろ歓迎したくなるような熱さで、一瞬一瞬を燃やし尽くしていく。
センセイとふたりで、見送りの時間を静かに嚙みしめ。
「センセイ」
結構な時間が過ぎた頃、夜空を見上げてマキは問いかけた。
「リサはちゃんと、楽園に行けるよね。だって悪いのは私なんだから。リサはいい子なんだから。絶対たどり着けるよね」
「マキは悪くないよ。リサが悪くないのと同じようにね。悪いのは……」
言いよどむ調子に振り仰ぐと、センセイの横顔が見えた。下からの炎に照らされた頰を、なにか滴のようなものが伝い落ちていく。
(汗? それとも)
不思議に思った瞬間、それはマキの額にぽつりと落ちてきた。
「……雨?」
手のひらを差し出すと、ぽつりぽつりとたたく感触があった。雨は最初まばらではあったが、すぐに間断なく降り始めた。顔にもたくさんの滴が落ち始める。
マキは手紙を雨水から守るため、ポケットを手で押さえつけた。
「しばらくやみそうにないね。狼煙が間に合ってよかった」
頰をぽりぽりとかいて、センセイが息をつく。センセイの顔も雨で濡れていた。
「さあ、マキはもう部屋に戻りなさい。風邪をひいてしまうといけないから。片づけは私がやっておく」
「うん」
マキは素直にうなずき、きびすを返した。こころもちゆっくりめに。
手紙が濡れないかは気になっていたけれど、まだ狼煙を見ていたいという気持ちも強かった。
それにセンセイの顔も気になっていた。微笑んでいるはずなのに、どこかつらそうな横顔が。
先ほどセンセイの頰に流れた滴は、雨だったのかもしれない。
(でも、もしかしたら……)
マキはついさっき自分が見たものを思い返した。
――もしかしたらセンセイは、泣いていたのではないだろうか。
そんなささやかな疑問が、マキの心に残り続けた。
◇ ◇ ◇