1.待ち人の家⑥ 最後の夜だから
◇ ◇ ◇
置き時計の秒針が、1秒1秒を刻んでいく。その音が聞こえるくらい、室内は静寂に満ちていた。
とうとうこの日が来てしまった。
(こうしているうちにも、時間はどんどん過ぎていく。リサは今日旅立ってしまう)
マキは椅子に座り、ぼんやりと自分の机に向かっていた。
もうひとりの部屋の主であるリサは、まだ憩いの部屋で、夕食後の団欒を家族と楽しんでいる。
いつもなら自分も加わるのだが、今日はどうしてもそういう気にはなれなくて、マキは先に私室へと帰ってきていた。
(旅立ちは喜ぶべきこと。幸せなこと。楽園こそが本当の始まり……)
自分に言い聞かせるように祈り、マキは一番上の引き出しを開けた。そこから1枚のカードを取り出す。マキの標となる、マリーゴールドの押し花だ。
(この押し花が旅の標。旅の終着地点となる楽園で、ひとりひとりの幸せの花が咲く)
悲しみのない世界で永遠に暮らせる。
(……本当に?)
すがるように祈っても、湧き起こる疑念はかき消せない。
(どうしてこんなに不安なんだろう)
得体の知れない焦燥感に駆られるマキであったが、理由は分かっていた。最近よく見る夢のせいだ。
(楽園なんて嘘っぱち)
照度の低い明かりで照らされた、机の木目を目でなぞる。迷路のようにぐるぐる渦巻き、中央からどれだけなぞっても、外側へは出られない。
(楽園こそが本当の始まり。楽園なんてまやかしだ……)
相反する言葉を交互に反芻していくうち、気づけばマキは席を立ち、リサの机に体を向けていた。
リサがたまに取り出してはいとおしそうに見ていたから、どこにあるかは知っていた。
上から2番目の引き出し。
取っ手に伸ばされた手はマキのものであったが、まるでそれが別の誰かの手であるかのように、マキは右手が標を取り出すのを見ていた。
引き出しを閉め、上着のポケットへと標を滑り込ませる。
その行為がなにを意味するのかを考える前に、マキは部屋を飛び出していた。
暑くもないのに汗をかきながら、着いた先は憩いの部屋。
歓談に興じる時間は終わったのか、室内にいた家族たちは皆、おのおのの部屋に戻るところだった。それはもちろんリサも同じで、
「マキ?」
長テーブルの下に椅子を収めながら、きょとんと振り向いてくる。
「みんなもう出ちゃうわよ」
「あの。私、ちょっと用事があって」
頭がうまく回っていないくせに、カラカラの喉から出た言葉は、一応の言い訳を繕っていた。
「そう。じゃあ暖炉の後始末頼んでいい? 私は部屋で待ってるわね。最後の夜だから、旅人の部屋に行く前に、ふたりだけでたくさん話したいの」
「うん、すぐに行く」
はにかむように笑うリサに、マキはぎこちなく笑って手を振った。
リサが出ていき自分以外誰もいなくなると、ポケットからそっと標を取り出す。
菜の花の押し花。リサが旅立つのに必要な標。
マキの頭に誰かがささやいた。
(もしこれがなければ?)
それは誰の声なのか。
(これがなければリサはもう少しの間、宿舎にいられるんじゃない?)
たぶんその声の主には、誰よりもマキが一番多く接している。なんていったってその声は、自分が話す時に聞くもの――自分自身の声なのだから。
標を見つめるマキに、声はささやき続ける。
これがなければ、と。
そのうち声に重なるようにして、暖炉から薪の爆ぜる音が聞こえてくる。導かれるように、マキはそこへと近づいていった。
目に映るのは黄色い花。ぶれて見えるのは、標を持つ手が震えているから。
(標がなければ、リサはここにいてくれる)
マキは暖炉の前に立ち、揺れる炎を見下ろした。必要以上に炎に近づくのは、楽園の神様が良しとしていない。
炎の上に手を近づけ、指先を緩める。
それだけだった。それだけで標は、あっけなく炎の中にのみ込まれていった。
「マキ! 大変なの!」
今一番聞くのを恐れていた声が、タイミングを見計らったかのように飛び込んでくる。
マキはびくりと身をすくませて振り向いた。戸口に、ひどく青ざめた顔のリサが立っていた。
リサは泣きだしそうな顔で駆け寄ってくる。
「私の標がなくなったの。ちゃんとしまっておいたのに! お願い、一緒に探して! もう時間がないの!」
マキはリサの顔を直視できなかった。少しずつ、自分がなにをしたのか理解し始めていたから。
焦点の定まらない目で、暖炉の炎を見下ろす。マキの目を追うようにして、リサも炎を見た。いぶかしむように目を細めてから、はっと見開く。
「これって!?」
標はすでに燃え尽きかけていた。リサは素早く状況をのみ込むと、最後にわずかな破片が燃えゆくのを止めようと手を伸ばした。
「熱っ」
一度手を引っ込め、それでも標を拾い上げようと、必死に手を伸ばす。
「や……待って……待って!」
標はあっけなく燃え尽きた。
「なんで……なんでこんな……」
呆然と床にへたり込むリサを見て、マキはやっと理解した。自分は取り返しのつかないことをしたのだと。
「私……ごめん、なさい」
「……マキがやったの?」
顔は上げぬまま、リサが目だけで見上げてくる。垂れた前髪からのぞく目には、涙と暗い怒りがにじんでいた。
「どうして? ねえ、どうしてこんなひどいことしたの?」
マキは後ずさった。
「私、リサに旅立ってほしくなくて……」
「これで私は楽園に行けなくなった!」
わななき声を上げ、リサが立ち上がる。
「あなたのせいよ!」
その言葉を聞いたと同時、頰に熱い衝撃が走った。
「ごめ……ごめんなさい、リサ……」
マキはたたかれた頰を押さえ、声を絞り出した。
「謝ってもどうにもならない! どうしてくれるのよ!?」
リサが両手で二の腕をつかんでくる。ギリギリと爪を立てているのが、服越しであっても伝わってきた。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ」
マキは歯をがたがたと鳴らし、とにかく謝った。
怖かった。こんなに取り乱したリサは見たことがなかった。
「私はもう帰れないっ……返して! 私の帰る場所、返してよ!」
「リサ!」
鋭い呼び声とともに、センセイが部屋に入ってくる。
センセイはマキたちの元まで来ると、リサをマキから引き剝がした。そのまま彼女の両肩をつかみ、体を自分の方へと向けさせる。
「どうしたんだリサ!?」
「燃えちゃった! 私の標が燃えちゃった!」
泣き叫ぶリサの手を取り、センセイがなだめるように言う。
「リサ。火傷してるじゃないか」
「標が、私の標がっ!」
「とにかく今は手当てが先決だ」
赤くなったリサの手を見て、マキは震える声で問いかけた。
「リサ……大丈夫?」
リサが射貫くような目でマキをにらむ。
「出てってよ! あなたなんか……もう家族じゃない!」
それはリサからの宣告だった。償いようのない、愚かな過ちを犯したマキへの。彼女はマキを完全に憎み、拒絶していた。
そしてどういう訳か、夢の中の怒れる少年の姿がリサに重なる。背格好が似ても似つかない二者の共通点は、マキを見据える燃えるような目だ。ふたりにとってマキは許しがたい邪悪な存在なのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ」
耐えきれず、マキは逃げるように部屋を出た。
騒ぎを聞きつけてやって来たのか、部屋の前にはジュンペイが立っていた。
「マキ? なにかあったのか?」
「なにもない!」
ジュンペイを押しのけ、廊下を走り抜ける。
角を曲がり、家族たちの部屋を素通りし。
たどり着いたのは正面玄関だった。
扉の閂をもどかしげに外すマキ。靴を履く気も余裕もなく、外へと躍り出た。
「はあっ、はあっ」
息荒く、月明かりに照らされた広場に足を踏み出す。
静かな月夜を堪能していた草花たちの上を、マキはざくざくと歩いていった。
(なんで)
視界がにじむ。
なんでこんなことになったのだろうか。
なんで自分は、大好きな人に最低なことをしてしまったのだろうか。
マキは四つん這いになって草をかき分けた。
「ない、ない……」
当たり前だ。菜の花は春に花開く。こんな季節に見つかるはずない。
「ない……ないっ……」
それでも。
「お願い、お願い。じゃないとリサが……楽園に行けないよぉっ……」
マキは寒空の下、草をかき分け探し続けた。
◇ ◇ ◇