4.広過ぎる世界⑤ じゃなきゃ足をすくわれる。
そこにいたのはふたりの男だった。宿舎に侵入してきた大地たちのように、帽子とマスクを着けているため、顔はよく分からない。大人であることはまず間違いなく、センセイよりは年下なのではないかと思われた。
「実はさ、車の調子がちょっと悪いんだ。流行りに乗って水素自動車を買ってはみたものの、粗悪品だったみたいでさ。よければちょっと手伝ってくれないかな。もちろんお礼はするよ」
赤い毛糸帽をかぶった男が、頭に手を当て言ってきた。それ以外の表情がないのかというくらい、終始にこにことしている。
「スイソ自動車?」
マキはカタコトに聞き返した。
車のことは大熊先生に教えてもらって――ついでにいえば病院から喜楽園まで実際に乗ってきたので――知っていた。しかしスイソ自動車というのは、なんなのか想像もつかなかった。
マキの反応を見て、もうひとりの男が思い至ったように「ああ、そうか」と声を上げる。黒い帽子の前側にあるつばをつまんで帽子の位置を整えながら、
「ここらだと珍しいもんな。だったらなおさら来た方がいいって。無事直ったら乗せてやるぜ」
こちらも目を山形にして笑う。
(なんか変な感じ)
ふたりとも愛想が良いのだけれど、それがすごく奇妙に感じられた。同じく愛想のいい優菜には、違和感など覚えなかったのに。
「な、いいだろ。ちょっと手伝ってくれるだけで終わるから」
(どうしよう)
マキは迷った。
正直言って気は進まなかった。が、助けを求めている人をなんとなく嫌だというだけで拒むのは、とてもひどいことのような気もした。
頭の中でいろいろと議論を交わした結果、
「えと……私に手伝えることなら」
自信なく承諾する。
男ふたりはマスク越しでも分かるほどに、顔をいっそうほころばせた。
「助かるよ、ありがとう!」
「車はあっちにあるから」
すぐそばの曲がり角を指さし、男たちが歩きだす。
マキも菜の花を優しく握ったまま、後に続いた。
そこへ、
「マキッ!」
半ば怒ったような呼び声に、マキはびくりと身をすくませた。振り返ると、大地がこちらに走ってくるのが見えた。
マキの元までたどり着いたところで、大地はずれかけた帽子を整えながら男ふたりに怒鳴った。
「なんなんだあんたたちは! マキから離れろ!」
どうやら怒りの対象はマキではなく、男たちだったらしい。
マキにつられて立ち止まっていた男らは、じっと大地を見下ろした。つい先ほどまであった愛想が、すっと溶けるように消えていく。
「なんだよこいつ、失礼なやつだな」
「俺たちはただ車の調子が悪いから、手伝ってもらおうとしただけだぜ」
「じゃあ園長先生呼んできてやるよ。先生はがたいがデカくて力もあるから、きっと助けてくれるさ」
負けじとにらみ上げる大地。
しばしの沈黙の後、口を開いたのは赤い毛糸帽の男だった。わずかに愛想――ただしさっきよりは雑な感じの――を取り戻し、
「いや、やっぱ他で直してくるよ」
くるりと背を向けて歩きだす。
「ちぇ、なんだよ。クソガキが」
舌打ちをして、黒い帽子の男が続く。彼は親指を使ってなんらかの合図を大地に送ったようだが、一瞬のことでよく分からなかった。
大地は立ち去るふたりの背中を黙ってにらんでいたが、彼らが角を曲がると、足音を忍ばせるように、ひょこひょこと走りだした。
やがて大地も角の向こうへと消える。
マキがどうするべきか――大地を追うべきか、喜楽園に戻るべきか――考えていると、大地がまた姿を現した。今度は特に忍ぶこともなく、ばったばったと豪快に手足を振って戻ってくる。
「なにやってきたの?」
「ナンバープレートの確認。でも隠してた」
尋ねるマキに、角の向こうを見据えたまま、悔しそうに答える大地。その後はっと目を開いてマキへと視線を移し、
「それよりも、なにやってんだよマキ。迂闊に外出ちゃいけないって言われてるだろ。危ないじゃないか!」
「私危なかったの?」
「そうだよ!」
なにを当たり前な、と言いたげに大地が声を上げる。その後で彼は、念押しするように言ってきた。
「いいな、知らないやつに、ほいほいついてくなよ? もっときちんと考えろ」
「そんなこといったって、クマ先生だって最初は、私にとっては『知らないやつ』だったし……」
マキは不服げに唇を突き出した。指摘されたところで、どう危なかったかなんてよく分からないし、外の世界で散々一方的に連れ回しておいて、そんな言い方は横暴だと思ったのだ。
大地はマキの反論に一瞬困った顔をしたものの、すぐにもっともらしく返してきた。
「クマ先生はいいんだ。俺が言ってるのは、悪いやつらはさっきみたいに話しかけてくるから、気をつけなきゃ駄目だってことだ」
「難しいよ」
「それでも気をつけなきゃいけないんだ! じゃなきゃ足をすくわれる。命なんて自分で気をつけてなきゃ、いくつあっても足りないんだって、クマ先生が言ってたぞ」
「…………」
命の話を持ち出され、マキはいらいらが募っていくのを感じた。今その話は聞きたくない。
「なあ。俺はマキに生きていてほしいんだよ。だからもっと気をつけてくれ」
懇願にも近い大地の物言いに、
「……やめてよ」
マキのいらいらは外へとこぼれ落ちた。
「ソラの心臓があるからって、押しつけないでよ。私が生きてる限り、ずっとそう言い続けるつもり?」
棘のある口調で大地をにらむ。自分でもねちっとした、嫌な言い方だと思った。
大地がたじたじと否定してくる。
「そうじゃない。俺はただ」
「助けてくれたってことなんだよね。ありがとう。これからは気をつける。それじゃあ私、中に戻るから」
口早に言い捨てると、マキは大地を置いてすたすた歩きだした。すぐに彼が追いついてきたが、あえて前だけを見て進む。
(私、嫌な子だ)
思いながらも改められない。
手にした菜の花は、無意識のうちに力が入っていたのか、少し茎が曲がってしまっていた。
◇ ◇ ◇




