1.待ち人の家③ 楽園なんてまやかしだ!
◇ ◇ ◇
暗闇に少年が立っている。
他にはなにも見えない真っ暗闇の中、なぜだか少年の輪郭だけはくっきりと確認できた。
10歳くらいだろうか。マキよりも幼いことだけは確かだ。
大きめの帽子をかぶり、ぎらついた目でこちらをにらんでいる。それ以上のことは分からない。
少年が悲痛に叫ぶ。
「楽園なんてまやかしだ!」
(そんなことない。楽園はあるよ)
そう言い返すべきだった。なのに口は固まったように開きっぱなしで、意味ある音が出てこない。自信のなさにつられるように、顔が下を向いていく。
(楽園はあるよ。私たちは楽園に行く。みんなそうやって、幸せになってきたんだから……)
声にならない分、心の中で繰り返す。
しかし少年は叫ぶのをやめない。
「まやかしだ! 嘘っぱちだ!」
(やめて……)
今度こそ言い返そうと、マキはうつむけていた顔を上げた。
目が合ったのは少年――ではなく少女だった。いつの間にか姿が変わっている。
そしてその少女は、どう見ても自分と瓜ふたつであった。
「楽園なんて、本当はないんだ!」
(違う。私はそんなこと思ってない)
「楽園なんて嘘だ!」
(やめて!)
少女はやめない。
マキにしか見えない少女は、耳を塞ぐマキの目の前で、狂ったように叫び続けていた。
◇ ◇ ◇
頭にかかった靄が、少しずつ晴れていく。
意識が覚醒していくのに合わせ、マキはゆっくりと目を開き、上体を起こしていった。机上に圧迫されていた額が少し痛む。
(寝ちゃってたんだ……)
読書部屋の大机。マキはそこに突っ伏す形で眠っていた。窓から差し込む橙色の光が、もう夕暮れ時だと告げている。左手は、指をしおり代わりに本を持ったままだ。
慌てて本の具合を確認する。なにせ元々が表紙をすげ替えてあるので、ちょっとしたことで傷みやすい。
(よかった、大丈夫そう)
特に折れたり破れたりした箇所はないようで、マキはほっと息をついた。
「よく眠れた?」
からかうような声で、対面に座したリサが言ってくる。
「私のお薦めは、マキにはちょっと難しかったかしら」
「そんなことないよ。たまたま眠かっただけ」
口をとがらせて抗弁し、マキはリサの手元へと目をやった。マキが居眠りする前は本を読んでいたはずだが、今はフォトアルバムが開かれている。
「うわぁ、懐かしい。これ、センセイへのサプライズパーティーだったっけ?」
身を乗り出してのぞき込む。
5年前の記念撮影だ。センセイを中央に据えて、家族みんなで集まっている。
「センセイに内緒で、いろいろ準備したわよね」
頰杖を突きながら、リサが顔をほころばせて写真に触れる。
「カレー作ったのに、ダイスケが鍋ひっくり返して、丸々駄目にしちゃって」
「そうそう。しかもアイコが口滑らせて、結局センセイにはバレちゃって」
「で、センセイと一緒に、みんなでカレーを作り直したんだよね」
あははと笑い合い、マキは両手のひらを合わせて宙を見た。
「またやりたいなあ……そうだっ。今度センセイの誕生日だし、またみんなで――」
みんなで。
そこまで言って言葉が途切れる。
センセイの誕生日が来た時には、リサはもうここにはいない。
いや、リサだけではない。
ダイスケもアイコも、ユキヒロも。もうここで、あのメンバーでカレーを作ることはないのだ。
いつもならうまく話題を変えてくれるリサも、今回は写真を見て郷愁の念に駆られているのか、マキと一緒に押し黙ってしまった。
沈黙を破るきっかけもなく、ふたりで寂しさを共有していると。
「マキ、リサーっ」
ガチャリと扉が開き、幼い少女が読書部屋に入ってくる。ミーコだ。
ミーコはぱたぱたとマキたちの元まで駆けてくると、腰に手を当て頰を膨らませた。
「なにやってるのぉ? もうお夕飯の時間だよっ」
「あ」
リサと顔を見合わせる。
どうやら、また時間を忘れてしまっていたようだ。
◇ ◇ ◇