3.ツノ付き童と魔女屋敷⑪ とても貴重な懐かしさだ。
と、男が頭を押さえながら、ゆらりと半身を起こした。
その手がまだ注射器を握っていることに気づき、大地はとっさに脅しを吐いた。
「お……弟を返せ! 返さないなら俺がお前を殺してやるっ!」
もちろん嘘だ。そんなことできるわけないし、してはいけない。
だけどソラは連れて帰るつもりだった。命がわずかなら、なおさら一緒にいたかったし、なにより今この男に殺されたくはなかった。
男は立ち上がろうとしたようだが、目まいがするのか頭をふらふらと揺らしていた。そして顔をしかめると、糸が切れたように床へと倒れ込んだ。
「お、おい!?」
大地は棍棒を捨て、這いつくばるようにしてかがんだ。そのまま横から、男の顔をのぞき込む。
男の眉根がぴくりと動き、音にならないうめき声を漏らすかのように、口がわずかに開いた。
死んではなさそうだとひとまず安堵すると、大地は窮屈そうに横向いた男の体を、あおむけに寝かせた。
(ソラはどうやって運ぼう。抱いていっても大丈夫なのか?)
迷うようなことばかりが増えていく。必要悪など上っ面な覚悟で演じられるものではないと、今更ながらに気づかされる。
大地は立ち上がり、取りあえず最初の障害となる点滴パックへと目を向けた。命を守るための薬なら外すわけにはいかないが、逆に奪うためのものなら即刻外さなければならない。
だがその判断は迫られる必要がなかったようだ。点滴パックの中はほとんど空になっている。すでに十分な薬剤が、ソラの体に吸収された後だ。
きっと体にプラスな薬剤なのだろうと希望的に結論づけ、大地はソラの腕から点滴の針をそっと抜いた。傷口がむき出しになるのが怖いので、ガーゼはテープで留めてあるままにしておいた。
そこまでしてようやく、ソラの顔へと視線を移す。
正直に言うと赤ん坊の顔など、大地には皆同じに見えた。そもそもが喜楽園に来た頃の武くらいしか、きちんと見たことがない。
まん丸な顔につまみのような鼻。くしゃくしゃっとした小さな手足。取り立てて大きな特徴が見受けられるわけでもない。
それは兄としてどうなのだろうかと思っていたら、ソラがそれまでずっと閉じていた目を開いた。
(あ……)
白目が見えないくらいに大きな黒目。ぱっちりとした目を、二重まぶたがさらに大きく見せている。形はアーモンドというより、レモン型に近い感じだ。
(母さんの目だ)
懐かしさが一気によみがえる。しかもこんな純粋な目を向けられた記憶は数えるほどしかなく、とても貴重な懐かしさだ。
無意識のうちに、頭へと手をやっていた。帽子越しにツノを触る。普通の人間なら触れることのない突起物。歪な感触に顔もゆがむ。
(これがなければ母さんはもっと、俺をこんな目で見てくれたんだろうか)
懐かしさは沈鬱な気分へと早変わりし、大地は切り替えるように首を振った。
(今はそれどころじゃないだろ!)
そっとソラへと手を伸ばす。ソラの両手を握って慎重に引き起こすと、頭も一緒に持ち上がった。どうやら首は据わっているらしいと、優菜が物知り顔で教えてくれた方法で判断する。
大地はソラを抱きかかえた。気のせいかもしれないが、こちらを見上げる無垢な目が笑ったように見えた。卵の殻のようにすべすべな頰には赤みがあり、一見したところでは、どこも悪いようには見えない。
しかし大地は、ソラが全然泣き声を上げないことが気になっていた。もちろん泣かれても困るのだが、武の時はもっと泣いていた気がする。
(とにかく早く戻ろう)
歩きだそうとしながらも、足元の男が気になって仕方ない。このまま放置して去ることに、大地はさすがにためらいを覚えていた。
(傷口にガーゼくらいは当てた方がいいのか?)
だが下手に固まると、ガーゼが傷口に貼りついてしまって厄介だ。
男については逃げる時にでも、住人の誰かに伝えればいい。なんだったら喜楽園に帰ってすぐに、大熊先生に治療を頼むという手もある。
(俺は……間違ってない。兄として当然のことをしたんだ)
こんな自分でもできることがあるなら、ひとつくらいはやり遂げたい。
上から足音が聞こえてくる。大地は歯を食いしばって顔を上げた。
目の前に、拳を振り上げる茶髪の男がいた。夢の中でも現実でも、時折出てくる幻影だ。
(俺にだってなにかはできる。誰かを守れる。俺は価値のないクズなんかじゃない!)
幻影にあらがうように大地は胸中で叫んだ。
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