2.崩れる世界・拡がる世界⑦ なにか大事なものが壊れようとしていた。
◇ ◇ ◇
初めて足を踏み入れた部屋は、初めてのものに満ちていた。
中央に鎮座するベッドこそマキが使っている物と同じであったが、そばに控える大きな機械は、用途すら不明の謎の物体だ。若草色の壁に付けられた棚には、注射器や大量の薬瓶が並んでいる。
そしてそれらの前に立つは、3人目の――やっぱりマスクと帽子姿の――少年で、両腕に赤子を抱えている。
そんな中、なにより衝撃的な初めては、床に倒れ、額から真っ赤な血を流しているセンセイの姿だった。
「センセイっ!?」
「この殺人鬼が先生だと!?」
駆け寄ろうとしたマキの足を止めさせたのは、激昂する少年の言葉だった。
少年はソラを抱えたまま、全力の怒りをぶつけてくる。
「ふざけるな! こいつは今さっき、俺の弟を殺そうとしてたんだぞ!」
「え? 殺……?」
マキは戸惑った。日常からかけ離れた単語や、弟という言葉を聞いたから……だけではない。
マスクでこもる少年の声。そしてなにより、激しい怒りでもってこちらをにらみつける目が、マキの記憶の器をかき回した。
「ソラは俺の弟だ! 返してもらうからな!」
言い捨てると、少年はマキを乱暴に押しのけ、振り向きもせずに部屋を飛び出した。
「ちょっと待っ……」
呼びかけたところで、血まみれのセンセイが視界に入る。もちろん放っておけるわけがない。
「センセイ大丈夫!?」
センセイの元に駆け寄った際に、爪先がなにかを蹴り飛ばした。それは光沢のある床を回転しながら滑ると、壁にぶつかって動きを止めた。握りやすい柄のついた、太い棒だった。
きっと少年は、その棒でセンセイを殴ったのだろう。棒の滑った軌跡をたどるように、床に血液らしきものが付着していた。
センセイのそばにあったのは、棒だけではない。なんらかの液体が入った透明のパックや、そこから伸びるチューブ、パックがつられていたと思われるスタンドなどが倒れて散乱している。
マキはそれらをぞんざいに押しのけて場所を作ると、センセイのそばに座り込んだ。
血を見るのは初めてじゃない。だけど、こんな大量の血は別格だ。まるでコップに入ったミルクをこぼした時のように、たっぷりの血で床が汚れていた。
センセイの目は閉じており、意識があるのかもよく分からない。
(なにこれ……変だよ……!)
背筋に寒気が走る。
虫や鳥は死んでも、マキたち待ち人は死なないはずだった。センセイは待ち人ではないらしいが、同じようなものだと思っていた。
でもこれではまるで、虫や鳥と同じだ。
「センセイ……センセイっ!?」
声を裏返らせて呼び続けると、センセイがうめき声を上げた。
「センセイ大丈夫っ!?」
「大丈夫、だ……」
目を開けて返事をしてくれたことに、マキはひとまず安堵した。
しかしセンセイの額からは、まだ血が流れ出ている。
「センセイ血がっ……どうすれば」
「問題ない、自分で手当てできる……ソラは?」
センセイはゆっくり身を起こすと、部屋を見回し、
「さらわれた、のか……!?」
打ちのめされたように顔をゆがめた。
「任せてセンセイ! 私がっ……」
マキはバネのように体をはじけさせた。
「駄目だ……待ちなさい、マキっ……!」
センセイの声を背に、階段を駆け上がる。
ソラがさらわれたのなら、助けるのは年長者の自分の役目だ……と思っていたわけではない。ただ動かずにはいられなかった。
なにか大事なものが壊れようとしていた。そんなのは嫌だった。
1階に出ると、探していた人物はすぐに見つかった。
「ジュンペイ!」
マキは部屋の前に立っている、ジュンペイへと声をかけた。
彼は泣きじゃくるミーコや他の子らを引き寄せ、落ち着かせるように頭をなでてあげていた。
マキの呼びかけに反応し、ジュンペイがこっちを向く。
「マキ! 平気かっ? 悪い、俺風呂の掃除してて気づくの遅れて――」
「ソラがさらわれたの!」
間髪容れずに返すと、ジュンペイは目を見開いた。
「なんだって!? ミーコが見たっていう、知らないやつらか?」
うなずくためにジュンペイの目の前で一瞬立ち止まり、またすぐに駆けだす。
「私追いかけるから、ジュンペイはみんなとセンセイをお願い! センセイ怪我して大変なの! 地下室にいるから!」
「待てよマキ! 追いかけるなら俺が――」
「大丈夫! それに私が追いかけたいの!」
確かめたいことがあるから。
後半はあえて心の中にとどめ、マキは少年を追いかけるため全力で走った。
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