1.待ち人の家① 少年の命は完全に停止した。
◇ ◇ ◇
薄暗い室内。簡素なベッドの上で、少年が身を横たえている。
傍らの丸椅子には男が座っており、薬剤の入った注射器を、少年の腕に押し当てていた。
注射針が青白い肌の奥に向かって、ゆっくりと刺入されていく。
「センセイ。僕、楽園に行けるかな」
少年は天井を見つめながら、穏やかな顔でそう聞いた。
男が迷うことなく答える。
「当たり前じゃないか。君たちは神様に愛されている。たどり着けないはずがない」
「そうだよね」
少年は手にしたカードをぎゅっと握り、男を見上げた。
「ありがとうセンセイ。さようなら」
「さようなら」
男が微笑む。
そして、少年の命は完全に停止した。
◇ ◇ ◇
ついにこの時が来た。楽園へと帰る日が。
母に会えたらなにを言おう。
父に会えたらなにを言おう。
あそこの空は、ここよりも青く広いのだろうか。
太陽は、より輝いているのだろうか。
僕は迷いなくたどり着けるのだろうか。
正直に言うと、少し心配だ。
……いや、標があるしセンセイもいる。きっとたどり着けるだろう。
ここを離れるのは少し寂しいけれど、いずれまたみんなと会える。
これを読む君たちへ。
今までありがとう。僕は先に行きます。
楽園でまた会おう。 ユキヒロ
(ユキヒロは、もう楽園に着いたのかな)
見上げればその答えが出るわけではないけれど、ついつい空を見上げてしまう。そこが一番、楽園に近いから。
肌に触れる空気は冷たくて、秋の訪れを感じさせた。念のため上着を着てきて正解だったと、マキは軽く肩を震わせた。
手紙の端を指でなぞりながら、ユキヒロの姿を思い浮かべる。その顔は幸せそうに笑っていた。
「それ、ユキヒロの?」
投げかけられた言葉に意識が引っ張られ、想像上のユキヒロがかき消える。消える瞬間も彼の笑顔は崩れなかった。
問いを発した少女がマキの隣に腰を下ろし、興味深そうに手紙をのぞき込んでくる。
「見る? 私はもう読んだから」
「ええ」
手紙を渡し、マキは次なる興味の対象を探した。
といっても、ここには真新しいものなどなにもない。いつものことがいつものように、いつもいつまでも続いていく。
……いや、正しくは楽園に行くまでは、だ。
広場を挟んだ向かいの場所で、幼い少女が宿舎の壁をつついているのが目に留まる。彼女も大切な家族のひとりだ。
マキは再び空へと目をやり、地面、背中を預けた塀へと順に視線を移していった。そして結局は隣の少女――リサへと落ち着いた。
リサは目鼻立ちがくっきりしていて、その横顔は見惚れてしまうほどきれいだ。栗色の髪が肩の辺りでうねり、生き生きとした艶を見せている。
それに憧れて、マキも何度か髪を伸ばそうとしたものだ。しかし艶どころかぼさぼさ頭にしかならず、諦めてからはずっと、肩に届くかどうかの域を出ない短髪だ。
(ユキヒロもきれいな茶髪だったな)
リサの髪色はユキヒロを思い出させた。他はみんな黒髪だからだ。ユキヒロが旅立った今、彼女だけの特徴となった。
「はい、ありがとう」
読み終えたらしく、リサが手紙を返してくる。そして先ほどのマキと同じように、空を見上げた。考えることは同じらしい。
マキはリサの視線を追い、三たび空を見上げた。
「楽園は遠いね」
「ええ……でも、もうすぐ行ける」
リサの言葉からは、隠しきれない喜びがにじんでいた。
ちくりと刺す胸の痛みをごまかすように、マキは笑って問いかけた。
「リサはあと10日だっけ」
「ええ。それまでは思う存分『ここ』を楽しむわ。ユキヒロや、みんなみたいに」
リサが笑い返してくる。
満ち足りた、素敵な笑顔だ。彼女はここ――待ち人の家を愛しているが、それ以上に楽園を愛している。だから旅立つことになんの不安も感じていない。
それはマキも同じだった。マキ自身、楽園へ行くのが待ちきれない。
だけどリサに先に行かれてしまうのは、正直なところ少し寂しい。いつも一緒にいた、一番の家族だったから。マキの生活の一部からリサが抜けてしまうと思うだけで、心細くなる。
「マキは半年後でしょ。すぐに向こうで会えるわよ」
リサにぽんと肩をたたかれ、きまり悪げな笑みがこぼれる。どうやら隠したはずの寂しさは、彼女にはお見通しだったらしい。
「旅立ちを待ちわびるばかりに、今をおろそかにしちゃ駄目よ。私だって寂しいんだから、お互いさまよ。ね?」
「うん」
大きくうなずき、はたと気づく。
マキは慌てて向かいの宿舎を見上げた。壁に設置された時計の針は、午後3時を示していた。
「やば、検診の時間だ」
白いスカートについた草を払い落としながら、立ち上がる。
「行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
リサの声を背に、マキは駆けだした。
◇ ◇ ◇