硝子の双剣と灰被りの少女(前編)
むかしむかし、ではなく、ちょっとだけ昔。
あるお屋敷に、ゼゾッラと呼ばれる結構勝ち気な大公の娘が住んでいました。
彼女は、王子の許嫁。
美しくも愛嬌のある顔立ちをした彼女は、剣聖と呼ばれる腕前の父と精霊使いの母に愛され、幸せに暮らしていました。
ですがしばらく経ったある日、病を患った母が亡くなり、悲しむ彼女を不憫に思った父親が、後妻を迎え入れました。
同じく夫を病で亡くした、かつて『氷の舞姫』と呼ばれた義母は、二人の娘を連れて共に暮らし始めます。
しかしその後、隣国へと出かける途中。
ゼゾッラは馬車ごと谷底に落ちて、父と共に亡くなってしまいました。
その葬儀が終わって、数ヶ月。
後妻と二人の娘が遺された屋敷に、一人の侍従が姿を見せるようになりました。
いつも灰に汚れた長い髪で顔を隠し、みすぼらしい服装をした彼女は、義母と二人の娘の身の回りの世話をしていると言われていましたが。
何故かほとんど、お屋敷から出ることを許されていないようでした。
義母と二人の娘は、彼女をこう呼んでいました。
ーーー『灰被り』、と。
その少女を冷遇する後妻と、二人の娘。
許嫁の死が、何者かの陰謀ではないかと疑う王子。
剣聖が持っていた地位を継いだ弟の、現大公。
思惑入り乱れる、今宵。
顔も知れぬ者同士が剣舞の美しさを魅せ合い、強さを競う王家主催の『仮面舞闘会』が開かれます。
その最中、王子の前に姿を見せたのは、灰色の仮面を被った細身の舞闘士。
剣聖の血筋にしか操れぬ硝子の双剣を振るう者に、王子は剣を掲げます。
「私と踊っていただけますか? ーーーゼゾッラ」
問いに答えぬ灰仮面と、青髪の王子の輪舞。
決着がつかぬまま、十二時の鐘が鳴り。
その、残された硝子の双剣の片割れを王子が手にし、持ち主を探すお触れを出した時。
ーーー十年前の謎の扉が、音を立てて開くのです。
※※※
ーーー見つかった!
ドアの隙間から顔を覗かせたとたん、鋭い視線にぶつかってしまったチェルは、思わず身をこわばらせた。
同時に、手にした杖でカツン、と床を打った義母の、背筋が凍えるような冷たい声が飛んでくる。
「……灰被り。『来客の前に姿を見せるな』と伝えた筈ですが?」
彼女の両脇に立つ、血の繋がらない……義母と同様に美しい顔立ちをしている2人の姉も、冷ややかな視線をこちらに向けてくる。
「そちらのお嬢さんは? ずいぶんと服が汚れているようですが」
義母の鋭い口調に何か思うことがあったのか、来客である青い髪の青年は、柔らかく微笑みながら口を挟む。
すると義母は首を横に振り、青年に答えた。
「ただの使用人です。煙突掃除をさせていたものですから。……下がりなさい」
「……はい」
バレてしまった以上、これ以上逆らっても後で怒られることが増えるだけだ。
こっそりと顔を覗かせていたドアを閉めて、チェルはその足で急いで屋上部屋に向かう。
『どこに行くんだい? チェル』
足早に階段を登っている間に話しかけて来たのは、姿は見えないがいつも近くにいる、精霊のスーリエだった。
チェルは、その呼びかけに早口で答える。
「決まってるでしょ。屋根に上がって煙突に入って、話を聞くのよ」
今日は幸い暖かいので、暖炉は焚いていない。
義母は『煙突掃除を任せた』と言ったのだから、煙突に入っていても別に文句はないだろう。
『……そういうことばっかりするから、スオーチェラがますます厳しくなるんじゃないかな』
呆れ声のスーリエが口にしたのは、義母の名前だった。
チェルは、その言葉に小さく笑う。
「だから、何なの? ……王子が訪ねてきたのよ。どんな話をするのか気になるじゃない」
※※※
王子アズールは、屋敷の中を、客間まで案内されるままに夫人について行きながら、ここに来た経緯を思い出していた。
『ーーー灰仮面、ですか』
『そうです、公爵。最近、仮面舞闘会を荒らしているという噂の人物ですが、ご存知でしょうか?』
その人物の話をするために、アズールはわざわざ公爵……デューク・トレメンスを執務室に呼んだのだ。
口髭を蓄えた無表情な壮年男性は、淡々とこちらの問いかけに応じた。
「存じております、殿下」
あらゆる舞闘会にひっそりと現れ、強者を軒並み叩き伏せて行くという、細身の双剣使い。
灰色の仮面を付けたその謎の剣士の噂が流れたのは、ここ最近のことだった。
アズールは執務机に羽ペンを転がすと、足を組んで腹の上に手を置く。
そして、灰仮面に関する情報をさらにデュークに伝えた。
「かつての竜殺しの英雄……貴方の祖先が振るった〝硝子の双剣〟をその者が所持している、という話も?」
「はい」
硝子の双剣というのは、硝子によく似た透明な刀身を持つことから名付けられた俗称である。
手にして舞うと月光やシャンデリアの輝きにきらめき、鋼鉄すら斬り飛ばす強度を持つ神秘の剣。
それを手にして舞う者のあまりにも優美な姿は、舞闘士たちの間で『至上』と囁かれ、羨望の的だった。
かつて、その剣を継いだデュークの先代が舞う様を目にしたアズール自身の記憶にも、鮮明に焼き付いている。
その剣の真名はトレメンス家の宗主にのみ伝えられるものらしく……今、その名を知る者はいない。
アズールは目の前で無表情に立つ、現トレメンス家当主デュークに問いかけた。
「あの剣は」
「はい」
「トレメンスの血筋の内で選ばれし者しか手にすることが出来ない、とされていたのでは?」
「左様にございます。剣そのものが精霊の意志を宿し、使用者を選別する、とされています。……しかしかの双剣は、先代である兄の代に喪失いたしました」
デュークがそう淡々と告げるのに、アズールは思わず目を細める。
硝子の双剣に選ばれた稀代の剣聖であり、王子自身の憧れでもあった前トレメンス当主は、十数年前に亡くなった。
隣国へ赴く際に、娘のゼゾッラと共に馬車ごと、山道の崖から転落したのだ。
「前当主の夫人に、この件について尋ねてみたことは?」
「先日に、一度。以前と変わらず……『硝子の双剣は夫と娘諸共に、崖の底に消えた』と申しております」
その言葉が真実であるかどうかの判断は、王子にはつかなかった。
剣聖夫人は、後妻である。
最初の奥方は病で亡くなっており、その後に連れ子とともに娶った女性だ。
スオーチェラの名を持つ彼女は、今は連れ子である2人の娘と共に剣聖の屋敷に住んでいた。
「貴方自身に、心当たりは?」
「まるでございません。トレメンスの血筋は、私の家族を残すのみですが……二人の息子は私よりも長身で、聞き及ぶ灰仮面とは似ても似つきません」
「なるほど。では……」
アズールは、少しだけ彼にカマをかけてみる。
「私自身が改めて、夫人に確かめに行くとしましょう」
すると、デュークが初めて表情を変えた。
ピクリと驚いたように眉を上げたのだ。
「殿下御自ら、ですか? 今宵は王家主催の、年に一度の舞闘会ですが」
「それまでには戻りますよ。……自ら確かめるのは、もちろん貴方を信用していない訳ではない。だが、私はこの話に心が騒ぐのです」
「理由をお尋ねしても?」
「分かりませんか? ……先代当主は私の師であり、共に亡くなったゼゾッラは、かつて私の許嫁だったのです」
アズールは、顔に苦笑をにじませた。
「もし彼女が生きているかもしれないのなら、確かめずにはいられません」
※※※
身軽に屋根に上がったチェルは、音を立てないようにこっそりと煙突を降りて行く。
すると半ばを過ぎた辺りで、かすかに話し声が聞こえてきた。
「……何度尋ねられても、わたくしの答えは変わりません。剣は、夫と共に失われたのです」
「なるほど。では、今巷を騒がせている灰仮面の噂については、どのように思われますか?」
「何の話でしょう?」
「おや、ご存知ないのですか? 仮面舞闘会に現れる、灰色の仮面をつけた謎の剣士の噂です」
いつも通りに静かな義母の声と、少し飄々(ひょうひょう)とした印象の王子の声。
さすがに暖炉から覗き込んで姿を見るわけにはいかないので、チェルは梯子を降りるのをやめてその場で耳を澄ませた。
「あいにく、舞闘会から足が遠のいて久しいものですから」
「かつて『氷の舞姫』と呼ばれた、貴女らしからぬ話ですね」
「過去の栄光ですわ。情報に疎い、と言われればお恥ずかしい限りでございます」
「そんなつもりで口にしたわけではなかったのですが、申し訳ありません」
探り合いを続けるつもりなのだろうか、と思った矢先。
2人のやり取りは、チェルにとっては死活問題になる方向に向かった。
「なぜ今さら、当主も殿下も、剣の話を蒸し返そうとなさるのでしょう?」
「おや、そこもご存じない? ……その灰仮面が、〝硝子の双剣〟を振るっていた、という話なのですよ」
「……何ですって?」
ーーーまずい!
義母の声の調子が変わり、チェルは思わず頬が引きつる。
「祭典以外では、鞘をつけたまま舞うのが習わし。しかし灰仮面のあまりの強さに、鞘を捨て【精霊憑依】の技を使って挑みかかった者がいたのです」
精霊憑依、というのは、舞闘士が本気で戦う時に、契約した精霊の力を借りて己の力を引き出す技のことだ。
「違法なのでは?」
「ええ。その者は、舞闘法に反した旨ですでに処罰を受けましたが、彼の剣で灰仮面の鞘が裂け……そこから覗いた刃が、硝子のように透明なそれであった、と証言したのです」
そこで二人の沈黙に、チェルは冷や汗を垂らす。
するとしばらくして、義母がまた口を開いた。
「それだけでは、硝子の双剣であるとするには根拠が弱いかと」
「おっしゃる通り。ですが、もし双剣であるとするのならば、体格からして前当主ではなく……おそらくは女性。そして双剣は、トレメンス家の血筋に連なる者のみが手に出来る」
灰仮面がそうであるのなら、と、王子アズールは声を低くした。
「ーーーつまりゼゾッラが、生きているかも知れない、ということです」
煙突の中に反響した彼の声音に滲む色は、どこか期待を込めたものだった。
チェルは、話の先に傾注する。
すると義母がため息を吐く音がかすかに聞こえ、王子に答えた。
「殿下は、未だにあの子のことを愛しておられるのですか? もう十年にもなるというのに、新たな婚約者と縁を結ばれないのも、それが理由ですか」
「さて。しかし、私には許嫁が生きているかも知れないのなら、それを確かめる権利がある」
「幼い頃の憧憬に囚われ過ぎなのでは。わたくしの二人の娘も、ゼゾッラに劣らず美しいとは思われませんか?」
そんな義母の言葉に『いやだわ、お母様ったら』と二人の姉は盛り上がるが。
「確かに貴女の仰る通り、お二方は美しい。ですが、そういうことではないのです」
「と仰いますと?」
「もちろん、灰仮面がゼゾッラであればいいと、私は考えています。しかしもし仮に、灰仮面が縁もない別の人物であれば……」
衣擦れと椅子が軋む音が聞こえたところを見ると、どうやら王子は立ち上がったようだ。
「そう。本来、我が師の所有物である剣は奪い返さねばならない、と思いましてね」
※※※
「……剣を取り戻しても、二人が戻ってくるわけではありませんよ」
澄ましたまま動かないスオーチェラの顔に、アズールは微笑みかける。
「私の気は済みます」
「竜の尾を踏むことになるかも知れません。御身が危険に晒されるのは、誰も望まぬことでしょう」
「ほう。そこまで断じるということは、この件について何か心当たりでも? ……例えば、我が師と許嫁は、何者かに謀殺でもされたのでしょうかね?」
どうにか関わらせたくなさそうな彼女の態度に、切り込んでいくと。
「わたくしは、臣下として不可解なことには関わらないでいただきたい、と申し上げているだけでございます。お疑いでしょうか?」
「不要な心配です。……が、現時点で、トレメンスの現当主であるデューク大公が剣を持つ者に繋がっている可能性も、貴女がそうである可能性も低い、と私は考えています。しかしそれは、もし、剣や二人に関する話に嘘がなければです」
もし、師が剣を持っていっていなかったのなら、スオーチェラが隠したことになり、彼女への疑いは高まる。
あるいは、ゼゾッラが死んでいないにも関わらず、姿を見せていないのであれば。
彼女は父や自分を狙った何者かへの復讐を企てている可能性が、高まるのだ。
アズールは、ゼゾッラが生きていて灰仮面であることを一番に望んでいたが、そうでない場合。
デュークやスオーチェラのどちらか、あるいは二人が共謀して剣聖を殺し、その当主の座や〝硝子の双剣〟を、ひいては彼の持つ財産を奪った可能性もある、と睨んでいた。
もしそうなら。
私の尊敬する剣の師と、許嫁の命を奪った者がいるのならーーーそれは、暴かねばならない。
そんな連中に、トレメンスの魂とも言える双剣を持たせておくわけにはいかないのだ。
しかしアズールの言葉に、剣聖夫人は一切顔色を変えなかった。
「殿下は、面白いことをお考えになる方ですね。そして、夫の死に何らかの陰謀があると、殿下こそ確信しておられるように思えます」
「そうですか?」
席を立ったアズールは、それ以上突っ込まない。
そろそろ、舞闘会の時間が迫っており、流石に準備に戻らねばならなかったからだ。
二人の反応を見ることが出来ただけで、今日は十分。
デュークは『夫人に会いに行く』と言った時に表情を動かし、スオーチェラはカマかけに反応しなかった。
ーーーさて、彼らは嘘が上手いのか、下手なのか。あるいは嘘などついていないのか。
今の時点の手応えでは、何とも言えないが。
「また改めて、灰仮面の真相を確かめたら、こちらにお伺いいたしますよ」
「ただの間違いであると、わたくしは思いますけれど。……殿下がお帰りになられるようです。アナスタシア、ドリゼラ。お見送りをなさい」
「「はい」」
スオーチェラが立ち上がって、二人の娘に指示すると、彼女たちがこちらへどうぞ、と淑女の笑顔で、今度は退出のためにドアを開けてくれる。
「夫人は、本日の舞闘会には参加されるのですか?」
「年に一度、この日だけは伺わせていただいております。それが何か?」
「いえ。楽しみにしております」
『氷の剣姫』は、剣聖に嫁いでから一度も舞ったことがない、と言われている。
事実、アズールもここ最近の舞闘会で壁の花になっている彼女しか見たことはなかった。
ーーー共に舞ってみたいものだが。
そんな風に思いつつ、アズールがドアが閉まる前に、少しだけ振り向くと。
直立した完璧な姿勢で、冷ややかな目をしたスオーチェラが、瞬きもせずに最後までこちらを見つめていた。
※※※
三人が部屋から出て行く音を聞きながら、チェルは息が詰まりそうな炭の匂いの中、小さく唇を引き結ぶ。
ーーーあの方は、まだわたしのことを覚えていてくれたのね。
アズールは王子であると同時に、父に師事して今なお舞闘会で名を馳せる、優れた舞闘士だ。
ーーーあの方なら。
もしかしたら、自分の助けになってくれるかも知れない。
しかし、接触する方法がない。
そんな風に、嬉しいような歯がゆいような複雑な想いを、チェルが感じていると。
「……チェレネントラ。出てきなさい」
そんな義母の呼びかけが聞こえて、一気に現実に引き戻された。
ーーーげ、バレてる……!
義母スオーチェラは、かつて『剣の精霊に愛された氷の舞姫』と呼ばれ、全盛期には剣聖と肩を並べる、とすら言われた女性である。
こちらの気配を察することくらいお手の物だったのだ。
『あーあ……』
スーリエのため息を聴きながら、チェルは観念し、ゴソゴソと煙突を降りて暖炉から出る。
と、残っていた炭を踏んでしまい、灰が舞った。
とっさに息を止めて暖炉から出ると、ゴホゴホと咳き込む。
汚れた床とチェルの様子を見て、義母が眉根を寄せた。
「コソコソと、ネズミのように。はしたないと思わないのですか」
「も、申し訳ありません……」
「飛び散った灰は、全て綺麗に片付けておきなさい」
「わ、分かりました……ゴホ!」
「それと、一つ聞きたいことがあります」
スオーチェラはまるで剣先を翻すように、矢継ぎ早に言葉を飛ばしてくる。
「灰仮面、とやらに心当たりは?」
「ご、ございません……」
「〝硝子の双剣〟を振るっていたそうですが」
「お義母様のおっしゃる通りに、その方の勘違いではないでしょうか……?」
しかしチェルの返答に、義母の視線の強さが緩むことはなかった。
「……なるほど。しらばっくれるつもりですか」
「そんなつもりは、あ、それと、お義母様。私からも、一つ、お聞きしたいことがあるのですけれど」
「何です」
「今宵の舞闘会に、わたしも参加させていただけないでしょうか? 付き添いでもいいので」
それはダメ元での提案だった。
王子への接触の機会を得る、には、せめて城に行かねばならない。
もう一度来る、とは言っていたものの、義母はチェルを王子に接触させようとはしないだろう。
城でならば、義母が他の貴族と話している間にチャンスくらいはあるかもしれない。
そう思っての、チェルの発言に。
「いいでしょう」
「……え?」
食い下がる気満々だったチェルは、思わぬ承諾に肩透かしを喰らう。
しかし義母の発言には、続きがあった。
彼女はカツン、杖先で床を叩き、底冷えのする口調で告げる。
「片付けが終わったら、庭においでなさい」
「う、ぇ……?」
義母は、スッと視線を外すとこちらに背を向けた。
そして、王子を見送り終わったのか、戻ってきた二人の姉がちょうどノックしたドアに向かって歩いていく。
「に、庭、ですか……?」
「ええ。わたくしに一打でも剣を加えることが出来たら、同行を認めましょう」
「!?」
ーーーえ、無理。
思わず心の中でそう呟くが、万一があれば舞闘会への参加権が得られる。
相反する気持ちと打算にチェルが言葉を紡げずにいると、義母はドアを開きながら、最後にこう告げた。
「久しぶりに、わたくしが貴女に稽古をつけて差しあげます。本気で、存分にね」
ーーーもの凄く怒ってる……!
義母の本気。
それはチェルにとって、死刑宣告に等しい言葉だった。
※※※
数時間後、チェルは地面に倒れ伏していた。
ーーー二人がかりなんて、ズルいじゃない!
庭に降りると二人の姉もそこで待っており、『稽古』が始まるとチェルは、義母とアナスタシアの連携に全く太刀打ち出来なかった。
もっとも勝ち目など全くないことは、姉まで動き出した瞬間に悟ってはいたが。
これは、稽古という名の折檻なのである。
義母を怒らせた上に厚かましくお願いなどしてしまった代償だった。
「……灰仮面という者に、心辺りは?」
地面に倒れ伏したチェルの頭上から、義母の問いかけが降ってきた。
「あり、ません……」
全身の痛みに呻きそうになるのを堪えながら、頬が腫れて動かしにくい口元を動かして答える。
そのままゆるゆると顔を上げると、木剣を握った義母とアナスタシア、杖を握ったドリゼラがこちらを見下ろしていた。
「そう。……強情だこと」
義母は当然、傷一つないどころか息も上げていない。
引退してはいるが、その腕前は未だに健在だということを、チェルは誰よりも重々承知していた。
悔しい。
悔しいが、その気持ちだけで彼女らに勝てるわけではない。
しかし、いつまで痛めつけられてもその件について、バラすわけにはいかなかった。
もしバレれば、部屋に閉じ込められて、外出するのが完全に不可能になってしまうかもしれないからだ。
「もし嘘をついていたら、その時はどうなるか分かっていますね?」
「……十分に」
チェルの答えに満足したのか、違うのか。
義母はドリゼラに頷きかけた。
するとそれまで傍観していた彼女が前に出て、こちらに向けて杖をかざす。
「〝精霊よ、癒しを〟」
精霊使いであるドリゼラの魔法により、チェルの怪我に白い光がそそいで痛みが薄れる。
体力は戻らないし、打ち身の痛みはまだかすかに残っているが、傷は癒えた。
その間に、無言のまま義母が姿を消していたので、チェルは身を起こして息を吐く。
「……死ぬかと思った」
するとその呟きに、アナスタシアがポンポン、と木剣で手のひらを叩きながら呆れた顔で小首を傾げた。
「貴女、もう少し自分の立場を弁えたら?」
「姉様の言う通りよ。お母様を怒らせるような真似、慎みなさいよね。アタシたちも怖いんだから」
「……だって」
チェルは唇を尖らせるが、二人は全く意に介さずに屋敷に戻っていった。
ーーーアナスタシア義姉様も、ドリゼラ義姉様も、もう少し、言い方ってものを考えてもいいんじゃないかしら。
チェルは元々汚れているがさらに汚れた服の泥を払い、自室に戻る。
そのままベッドに飛び込みたかったが、この状態で寝転がればシーツを洗うのが面倒になるだけだ。
部屋の隅に置いてある、二つの水の入った木桶を部屋の中央に持ってきて、チェルはスーリエに頼んだ。
「温めてちょうだい」
『あのね……ボクの力はそんなことに使うもんじゃないんだよ?』
「マスター命令よ。冷たいんだもの」
スーリエは盛大にため息を吐いた後に『炎の精よ』と口にする。
呪文と共に水桶は赤い光に包まれ、それが治まった頃にはちょうどいい温度になっていた。
チェルは煤にまみれて灰色の髪を丁寧に濡らし、クシで梳っていく。
すると、汚れが水に完全に移った頃には、本来の色である白銀に近い金の髪が波を打った。
綺麗な水でもう一枚布を濡らして顔を拭き、鏡の前に立つ。
前髪の隙間から覗く、義母らとは全く似ていない自分の顔をジッと見つめて、パンパン、と頬を張った。
ーーー気合い入れなさい、ゼゾッラ。
まだ、終わってはいない。
義母と姉が出かけたら、動き出さないといけない。
チェルは、全く諦めていなかった。
「……アズール様」
王子の名前を口にすると、昔見た、青い髪と瞳を持つ彼の幼くも凛々しい顔を思い出す。
今日、少しだけ見ることが出来た彼は立派な青年になっていたが、ちゃんと面影が残っていた。
きっと、生意気だった自分に優しかった昔のままだ。
ーーーチャンスは、きっとこれっきり。
少なくとも、他に自分が正体を明かせる相手は思いつかなかった。
ーーー『灰仮面』として、彼に会う。
気づいてくれるだろうか。
気づいてくれると、そう信じるしかないけれど。
チェルはそのまま、準備をした後、着替えて少しだけ眠る。
そして義母らが出かける馬車の音で目を覚ますと、軋む体を起こして、髪紐を手にする。
長い前髪を上げて、腰まである後ろ髪と共にポニーテールの形に結えると、剣の精霊に告げた。
「やるわよ、スーリエ」
『……バレても知らないよ? 今の今なのに』
彼のそんな言葉に、チェルは薄く笑う。
「これできっと、最後よ」
『だと良いけど。……ビビデ・バビデ・ブー!』
スーリエの言葉と共に、ネグリジェを身につけただけのチェルの体が、光に包まれた。
レースで彩られた舞闘服が宙から染み出すように現れて、体を絞り上げながら巻きついて行く。
顔が勝手に化粧で装われ、最後に両手に現れたのは、透明な刀身を持つ二振りの小ぶりな剣。
ーーー〝硝子の双剣〟。
「今夜上手く行けば、きっと……いえ」
上手く行かせてみせる。
そんな決意を胸に秘めながら、化粧台の引き出しから灰色の仮面を取り出し、目元につけたチェルは。
窓から抜け出し、夜の街を駆け抜ける。
夜会の印に煌々と明かりを灯し、巨大な満月を背負った王城を目指して。