来襲?
「気分はどう?」
昼間の邂逅後、私は衝撃からなかなか立ち直れずに部屋に戻ってベッドにもぐりこんだ。厳密にいうと、湯浴みと着替えをさせてもらって身綺麗にしてからだけれど、もう何も考えたくなくてベッドに横になると、思考が働かないよう目を瞑って数字を数えた。
そのうち望み通り眠ってしまったらしく少し前に目が覚めたばかりだ。
起き上がる気分ではなかったので、そのままぐずぐずしているとノックがして母が入ってきた。私が身じろいだので起きているのがわかったのだろう心配げに問われる。
私はゆっくり身体を起しベッドボードに軽く背を預けた。
「はい、随分落ち着きました」
「そう。マリアから事情は聴きました。セドリックのことはきちんと叱っておきましたから、二度とこんなことは起きません。安心して大丈夫よ」
マリアというのは三十年近く我が家に務めてもらっているベテランの侍女である。セドリックのことも私のことも赤ん坊の頃から知っているので、私たちからしたら乳母という方が近いかもしれない。
庭から戻って湯浴みと着替えを手伝ってくれたのもマリアだ。私は作業着を脱いですぐベッドに入りたかったが、「そのような泥だらけの身体では、寝台が汚れます」とピシャリと言われて従わざるを得なかった。代わりに私はセドリックのことをマリアにチクった。これでもか、これでもか、と愚痴りまくった。マリアは一緒に怒ってくれた。
「まぁ、セドリック坊ちゃまには紳士として再教育が必要のようですね」
そう言っていたので母に話が行きたっぷり叱られるだろうと思っていたが、いざ実行されると少しだけ可哀想な気がした。私がベッドに引き籠っているのも加味されたかもと思えば余計に……いろいろ間が悪かった。けれどセドリックのためにも必要なことだろう。たぶん。きっと。
「これから夜会なのでしょう? お時間大丈夫ですか?」
母の首には家宝の大きなサファイアのネックレスが輝いている。
今晩は隣国の第二王子のための歓待パーティーだ。伯爵家以上の家と、王家から直に爵位を賜った男爵家の者たちが招待されている。子爵家を飛ばして男爵家というのは奇妙にも感じるが、男爵家は大商会を営む者たちや芸術家などで占められているため、接待役として重宝されるのだ。
「そうね。そろそろ行かなければ……」
母が動くとキラキラとサファイアが煌めいた。
身につける宝石は出席する夜会のランクによって変える。他国の王族が出席する本日は最高ランクの装飾品を着けている。
だけど、母はこのネックレスを好んでいないのを知っている。淡いピンクや黄色といった暖色系のドレスを好むのでサファイアは合わないのだ。大切な場では家宝を身に着ける。何処の家もそうしているので我が家だけ例外を通すわけにいかない。何かあったのか――家宝を売却しなればならないほど困窮しているのでは? というような噂を立てられてはたまらない。だから重要な夜会ではネックレスに合わせた寒色系のドレスを着る。お洒落のための装飾品のはずが本末転倒だが仕方ない。けれど、せっかくのパーティーも好みの服装でないなら華やぐ気持ちも半減する。
貴族もなかなか大変なのだ。
「貴方はゆっくりと休みなさい」
「はい、お母様、いってらっしゃいませ」
母が出て行くまで見送って、私はもう一度もぞりと寝具の中に身体を滑り込ませた。
やわらかなシーツと枕の間に手を滑り込ませるとひんやりとしている。
眠ったせいか、あれだけギリギリと締め付けるような痛みを感じていた心は静かだ。油断するとざっくりと傷口が開きそうだから無理は禁物だけれど、何が起きたのか考えられる程度に気分も上を向いている。
何が起きたか……というほど大袈裟なことではおそらくないのだろう。
前世の記憶を取り戻してから自分のことを影の薄い存在みたいに思ってしまっていたが、私は薬術で有名な伯爵家の令嬢でグラハム侯爵家に嫁ぐことが決まっている。誰がどう見て上流階級に属する人間だ。そして上流階級というのは狭い世界だから、同じように上流階級であるゲームの主要人物に出会うのは当然だった。
ルシアンにしてもそうだ。セドリックの友人として対面するのは予想外だったが、いずれ何らかの形――夜会などで必ず顔を合わせていたはず。
というか、ルシアンって友人いたのね。
昼間に会ったときの、ものすごく普通に穏やかそうな人に見えたことを思い出す。
……でも、よくよく考えてみればベンジャミンルート以外のルシアンはとても真面というか、陰になり日向になりヒロインを支える素敵な人物だった。その献身ぶりと包容力にときめいて、他攻略キャラのルートにもかかわらず、え、もうこれルシアンでよくない? という人が続出した。だから、隠しキャラとしてルシアンルートがあるとわかったときはかなり話題になった。
そうだ。私は今マリーだからルシアンを恐れ、何の罪もない人を殺害する猟奇殺人者みたいな印象を強めてしまっていたが、ベンジャミンルートにさえ入らなければ、彼は頼りになる好青年なのだ。
願わくばあの恐ろしい一面が披露されないよう私は頑張らなければならない。方法はまだ何も浮かんではいないけれど……。
それから、私は夕食をとるために部屋を出た。
現金なもので落ち着いたら空腹感を覚えたのだ。
夕食は生ハムとフルーツのリコッタサラダ、子羊のロースト、デザートはキャラメルプディングだった。私の好物ばかり。セドリックが選定の儀式を終えて夜会に招かれはじめ、私一人だけが屋敷に残されるようになってから、寂しいだろうと好きなものを用意してくれるようになった。
私は家族に大切にされている。そのことがとても嬉しい。
食べ終わると、昼間に湯浴みを終えていたのでそのまま部屋に戻った。心も胃も満たされて、今度は現実逃避からではなく、幸せな眠りにと入れそうだった。
「マリー・ホワイト伯爵令嬢」
声がした。男の人の。父でもない、兄でもない。とてもいい声だ。うっとりと聴き惚れそうなほど。朗読会などすればきっと人気が出る。声だけで騒がれてファンがいる。こういうのを何というか――ああ、そうだ。声優。
「は?」
ひゅぅと喉が鳴った。
身体が自分の意思とは無関係に飛びはねた。
でも、混乱した頭では状況がまるで飲み込めない。
ここはどこで、何をしていて、何が起きているのか。私はベッドで眠っていて、ここは私の部屋で……。
暗闇の中、視線を漂わせる。でも室内は真っ暗闇ではなかった。眠る前は、そうであったのに、今は違う。カーテンがひらひらと揺れて、そこから月の光なのだろう、うっすらと夜の色がこぼれてきていた。壁で囲まれた室内より、自然の中の方が光がある。
「目が覚めたかい」
すぐ近くから声が降ってくる。
薄暗がりだからぼんやりとした輪郭が浮かんでいる。ぼんやりしていたらわからないだろうけれど、私はそのぼんやりしたものを見たことがあった。昼間に見た像と重なり、だからそれが誰であるかすぐにわかった。
「騒がないように」
悠然と告げられる。
心配せずとも、声などでない。いざというとき人はそんなにうまく叫べない。怖くて、喉が閉まる。息ができないくらいに締め付けられる。
なんで、なんで、なんで、なんで?
どうして、ここに、ルシアン・カールがいるの?
え。私、もう殺されるの?
いつのまにか彼はヒロインに出会っていて、そしてヒロインはベンジャミンルートに入っていて、私は邪魔者になっているの?
待って、待って。そんなはずはない。まだ何も始まって……いや、眠っている間に時間が飛んだ?
「え、今、太陽暦何年ですか?」
「………………君が、心配するべきは他にあるのでは?」
呆れたように言われるが、それはとても大事だろう。
「今何年ですか?」
「……太陽暦二〇七七年だが」
「え、じゃあ何故?」
時間は飛んではいない。
飛んではいないのに。
「……少し落ち着いた方がいい。まず、私が誰なのか。どうしてここにいるのか。それから自身の身の安全について。そういうことを気にしなさい」
ルシアンはいよいよ呆れたという感じで、私がするべきことを告げた。
物事には能動的出来事と受動的出来事がある。つまりは、自分から行動を起こすか、人が起こしたものに巻き込まれるか。後者の場合、たいていは唐突にやってくる。
今、まさに、私はそれに巻き込まれている。
ルシアンはあれから、ベッドサイドの燭台に火を灯した。スイッチを押すと魔石により明るくなる代物だ。ぽあんと明るくなったら、彼の顔がよく見えた。それはやはりどこからどう見てもルシアン・カールだった。
そして、次にドレッサーの椅子を運んできてベッド脇に置くと優雅に座った。足と腕を組んで背もたれにふんぞり返るようにして私を見ている。それは呆れて物が言えんという態度に見えた。実際そうだったのだろう。いや、しかし、不法侵入者にそのような態度をとられる覚えはまったくなかった。だというのに私は委縮して何も言えないまま沈黙が続いている。
「落ち着いたかな、マリー嬢」
おもむろに、ルシアンが言った。
「…………はぁ、まぁ。それなりに」
「それはよかった。それで?」
「それで? あ、えっと。あなたはルシアン・カール公爵子息です。何故ここにきたんですか? どうやって入ってきたのですか? 私の身はどうなるのですか?」
とりあえず、私は先程注意された内容について、わかっていることには答え、わからないことは尋ねてみることにした。
「危機感が足りない。君は少し頭が足りないのか」
ルシアンは言う。その物言いから彼が本気で私の知能を疑っているのがわかる。
それにはカチンときた。
「不法侵入されて、恐怖で声がでないというのは常識的範疇ですし、叫ぶ機会を一度失ってしまったのに、わざとらしく叫ぶのもおかしいですし、思った反応ではないからと知能を疑うとか失礼すぎませんか?」
「……それは一理ある。しかし、別に君の危機的状況が改善されたわけではない。ここで私に危害を加えられる可能性を想像して、まだまだ恐怖に怯えるべきではないだろうか」
彼からは緊張や緊迫という空気はなかったが、すぐにでもそれを出すことはできる。暗にそう言われて私は黙るしかない。
彼はゆったりと足を組みかえた。よく見ると黒のタキシードを着ている。そういえば、彼も夜会に招待されていたはずだ。今晩家族が不在であると知っていて抜けてきたのだろう。私だけ殺害するのは怪しまれるが、私だけしかいないなら怪しまれることはないから。――胃がきゅっと縮んだ。
だけど、何故? 何故急にやってきた? 私は何を失敗した?
「失礼。少し脅しすぎたようだ。可能性の話をしただけで、今のところ危害を加えるつもりはない。記憶操作をすれば君は今晩のことを綺麗に忘れるだろうしね」
記憶操作。それはルシアンというかカール公爵家の秘技である。もちろん記憶を操作できる魔術など存在が知られたら大変な混乱を招くので秘匿中の秘匿だし、そんなことは不可能であると定説になっている。それも情報操作の一貫だろう。
ゲームではルシアンはこの秘技をヒロインに助けられたあと去り際に彼女に行う。ただし、彼は万全の状態ではなかったため、その術は不完全で彼女は薄っすらと覚えており、再会したときなんとなく懐かしい気持ちがして関わっていくようになる……というような内容だった。
「記憶操作をするということは、殺す気はないってことですか?」
大事なことなので私は尋ねた。
殺害されないなら、少しは安心できる。
しかし、そのような手の内をぺらぺら話して彼の方こそ不用心ではないか? 忘れるからいいと思っているのか?
「……ふむ。やはり奇妙だな。記憶操作と聞いて何故それを君はすんなり信じられる?」
「何も信じていませんよ」
「残念だが、君は感情を隠すのが上手ではない。私の言葉に納得しているのが手に取るようにわかる。しかし、それはひどく不気味だ。記憶の操作などそれだけでもありえない話であり、まして出会ったばかりの、それも勝手に部屋に忍び込んできた私の言うことをどうして信じることができる」
私はそれほど感情豊かなほうではないのに、私の感情が手に取るようにわかるというこの人こそ一体何なのだろう? だいたい、信じてなどいない。知っているだけだ。
「何故知っている?」
「え」
流石にそれにはどきりとした。読心術でも心得ているのか。
「クローザー、と言っていただろう」
……そういえば私は昼間に彼を見た瞬間、クローザーと告げた。彼の仕事上での名前を口にしてしまった。陽炎に揺らめく様子が昼間の爽やかな顔よりも暗部の仕事をしているときの顔に思えて思わずもらしてしまった。でも、本当に小さなつぶやきで、彼は随分離れた位置にいた。
「聞こえていたのですか?」
「君のつぶやきはわからなかった。そのあとでセドリックが繰り返したのでわかった」
セドリック! そういえば私のつぶやきを拾い上げていた。セドリック!!!
あの抜けさく兄のせいで、彼がここにきたのか。
最悪だ。最悪。最悪。最悪。
「どうやら、クローザーの意味するところも知っているようだ。どこでそれを知った。君は一体何者だ?」
ルシアンの目がすっと細められた。
まずい。一気に危険水域に到達した。
これは答え方を間違えれば命の危機を迎えてしまうのではないか。
どうしよう。どうしよう。どう……いや、待て。物は考えようだ。これはチャンスなのかもしれない。
私が回避したいのは彼に殺害されることだ。それはヒロインがベンジャミンルートを選んだ場合に起きる。だが、ヒロインがベンジャミンルートを選ぶということは、必然的にルシアンの恋も叶わないことを意味している。つまり、私がここで彼にすべてを打ち明け、ヒロインが彼のルートを辿るように協力を申し出たらいいのではないか。そうすれば、彼の恋は成就するし、私も死なない。
それに、ルシアンルートではヒロインを虐める悪役令嬢ポジションは誰もいない。……いなかった、うん。いない。いなかったよね。……えーっと、ルシアンルートは確かちょっと逆ハーレムチックで、ルシアン以外の攻略対象が彼女にアプローチをかけるのだがそれを跳ねのけていくことでルシアンとの親密度を上げていく。そう、なんだか個別ルートより攻略対象がちやほやしてくれる。それは自分は見守るだけでいいと思っているルシアンの独占欲を煽るフラグになっている。で、最終的に他の攻略対象たちもヒロインの恋心を応援するようになりハッピーエンドを迎える。ライバル令嬢は一切登場しない。……現実問題として、攻略対象がヒロインをちやほやしている間にライバル令嬢たちがどのようになっているか描かれていないのでなんともいえないが、他ルートのようにライバル令嬢が確実に破滅するような明示はない。
うん。いい。とても、いい。……とてもとはいいきれないが、消去法として一番いい。
何故、このことにこれまで気づかなかったのか。危機的状況、追い詰められた故のひらめき。ルートの回避ではなくルート誘導。
まるで天啓を授かったように、靄が晴れて光が降り注ぐように、私の心は感動に震えた。
だから、言った。
「私は、貴方の恋を成就させるためにいる者です」
自信満々だった。
ちょっと浮かれていた。
すると、ルシアンはにっこりとした。
にこにこと、それはそれは楽しそうに笑い、
「ふざけているのか」
地獄の底から吐き出したような低い声が返ってきた。
読んでくださりありがとうございました。
ご感想、ご意見等ございましたらお手数ですが下記の「web拍手ボタン」からいただけると嬉しいです。ご返信は活動報告にてさせていただきます。