11 アヴィ・トゥルー
アヴィ・トゥルーは何不自由のない、亜人の一般家庭に生まれた。
ウルフ種特有の白銀の髪と、金色に輝く瞳を持つ少女。ウルフ種では平均的な容姿だった。
重い病気や怪我をすることもなく、兄弟姉妹こそはいなかったものの、家族からの深い愛情で育てられていた。
ただ違うところがあるとすれば――
「あなたは力が強いから、お友達を傷つけないように気をつけるのよ」
母親より頻繁に言われていたこの言葉。
アヴィは周りの子供と比べると圧倒的に力が強かった。
本来は俊敏さに秀でるはずのウルフ種なのだが、彼女のその値は全て力が回っていた。
しかも幼い頃は力のコントロールが苦手で、頻繁に物を壊していた。
しかしながらアヴィはとても優しい子であった。
周囲を傷つけないよう、小動物を扱うように、父の大事な骨董品を割らないように、大切に慎重に接していた。
自分の怪力をしっかりと理解していたからこそ出来る行動である。
「今日も肉を残したのか」
そしてもう一つの問題点。
種族にもよるが、亜人種は人肉を食らうことが多い。
数百年前の戦争の発端になったのは、それが原因の一つである。
だが優しいが故にアヴィは、人肉を食べることを拒んだ。アヴィは一度だけ、商人から人間の絵を見せてもらったことがあった。
亜人種のような尾や耳がない事以外は、ほぼほぼ同じような見た目だったのを強く覚えている。
そのせいか人肉への抵抗が増えていた。
「いいのよ、あなた……」
「よくはないだろう。そのせいでうちが馬鹿にされている。異端児だとな」
周囲はそんなアヴィを、《異端児》と呼んで忌み嫌った。
仲の良かった子供は、遊ぼうとすると親がアヴィから引き剥がし、彼女を寄せ付けないようになった。
一緒に遊ぶとお前も異端児になるよ。あられもない噂が、街で飛び交うようになったのだ。
次第に矛先は、アヴィの家族へと向かった。
周りからの視線や止められた生活必需品の供給、悪質な嫌がらせ。
「あそこの一家は肉を食わない」という噂のせいで、食料の供給までもが止まってしまった。
初めの頃こそ我慢していたものの、毎日続いていくにつれて、アヴィの母親が精神を病み、ついには倒れてしまった。
「おかあさん、これ、おはな……元気に――」
「やめて! 来ないで!」
幼いアヴィは原因が自分だとは分かっていない。
病み始めの母親の意思もあって、彼女には伝えないよう家族に言っていた。だが追い打ちをかけるように、倒れてもなお周囲の住民は嫌がらせの手を止める事はなかった。
次第に母親の状況は悪化し、今となっては父親がつきっきりで看病をしている状態になっていた。
もちろん一家の働き手が家にずっといる状況なわけで、収入も大幅に減り、幸せだったあの家庭は微塵も残っていない。
「……ご、ごめんなさい……」
「………アヴィ、お母さん少し疲れてるの、お外で遊んでらっしゃい」
「はい………」
少しでも元気づけようと、アヴィが庭で積んできた色とりどりの花。母親は、自分を苦しめる要因を見て、彼女の持っていたその花を叩き落とした。
アヴィが静かに部屋を去ると、母親は小さく泣いた。
あれだけ愛情を込めて育てた自分の愛しい可愛い娘を、誰があんな悲しそうな顔にさせたのか。
怪力に産んでしまった自分が悪いのか。
彼女が優しすぎるのが世間には悪かったのか。
人肉を食らうという文化が悪なのか。
過去と要因を振り返っても、娘が傷ついた事実は覆らない。
床に落ちたしおれた花を見て母親は再び涙を流した。
母親は優しかった。アヴィはその優しさを色濃く受け継いでいた。
だが反面父親は厳格で、母親の意見にこそ従っているものの、種族からのけ者にされている現状を打破したいと日々考えていた。
単刀直入に言えば、アヴィを街から追放したいと考えていた。
だがそんなことをしてしまえば、母親がどうなるか。
異端児と言われ忌み嫌われようとも、アヴィを深く愛している彼女。精神病になってからも、アヴィに怯えているものの、愛している事は変わりない。
そんな彼女から、アヴィを取り上げてしまったら、今度こそ発狂してしまう。
だから無闇にアヴィを追い出す事に乗り出せないのだ。
しかしながら現実というものは非情である。
ある日父親が買い出しから帰宅すると、妙に家の中が静かであった。
精神を病みベッドにいるだけの妻であったが、誰かがいるという気配がいつもあったので、不審に思ったのだ。それに、「ただいま」と言えば、小さいながらも返事が帰ってきていたのだ。
強盗でも入ったのだろうか……。
看病生活の疲れで、父親のメンタルもまいっており、ネガティブな思考がよぎる。
それでも健康体の時であれば、女ではあるとは言えウルフ種の亜人の為、よっぽどの巨漢とかではない限り対処は出来る。流石に倒すとまではいかないが、逃げる程度なら容易だった。
だが今はほぼ寝たきりで、そんな体力もあるはずがない。
「寝ているのか……?」
恐る恐る寝室を開け、そこに広がっていた光景に、父親は絶望した。
買ってきた食材を床に落とし、自身も膝をついた。
ベッドの端には布が輪になるように縛られていた。
母親はそこから顔を出し、ぐったりと項垂れている。見開かれた目には生気がなく、口からはだらしなく唾液が流れ出ている。
右手には家族写真と遺書のようなものが握られていた。
トゥルー家の最後の良心は、自らの手でこの世を去った。
最愛の妻を亡くした父親に残された感情は怒りと悲しみ。実の娘であるのに関わらず、アヴィに対して抱いたのは憎しみだった。
今まで妻の存在のおかげで許容していたが、妻の自殺によってそのタガが外れた。
遺書に書かれていた《アヴィと仲良く暮らしてください》という一文なんぞもう彼の目には入らなかった。
――アヴィを街から追放しよう。
二度と自分の前に現れないように、徹底的に追い出そう。
計画や前準備なんて必要なかった。元々アヴィの事を嫌っていた街の住人だ、母親がアヴィのせいで死んだと触れ回れば、一瞬の内に彼女はこの街にいられなくなる。
父親のする事ではないと責める亜人がいるわけがなかった。
みな父親に同情して、瞬く間に幼い一人の少女は殺人鬼へと仕立て上げられた。
街の外れで遊んでいたアヴィが帰宅する頃には、街の亜人達がアヴィに向ける視線は、罪人へ向ける軽蔑の目だった。
不審に、恐ろしいく思いながらも、良心であり心の拠り所でもある母親のいる家へと、アヴィは足を進める。
もちろんそんな母親がもう居るわけもない。
自宅に着いて、扉を開けようとした時に、年の近い少年が声を上げた。
「親殺しの異端児だ!」
アヴィは一瞬、いじめの類だと思った。
だが、アヴィが開ける前に開いた扉の向こうに立っていた父親の目。濁りきって闇を含んだその目は、娘に向ける瞳ではなかった。
元より厳しい父親だったが、その瞳を見たアヴィは流石に違和感を覚えた。
アヴィにとって良心であった母親だが、父親にとっても良心であった。
「お、おとうさ――」
彼女が倒れるほど突き飛ばすその顔には、躊躇などなかった。
「な、なんで――」
「お前が殺したんだよ」
住民が一斉に彼女に向かって「殺人鬼」と声を大にして叫ぶ。
「異端児」と彼女を呼ぶ。
殴られても這って逃げようとするその姿に、嘲笑が飛び交う。
「ちがう、おかあさんを殺すわけ……」
異端児の言葉に耳を傾ける亜人など存在するわけがない。
アヴィは走った。必死に生きたいと逃げた。
命からがら、アヴィは街の外へ出る事が出来た。
だがこの先どうしようか。アヴィは年端もいかない少女である。
家も何もかも突然失った彼女に、どう生きろと言うのだろう。
不幸中の幸いなのか、彼女がある能力を持っていたから、和弘に出会うまで生き延びる事ができた。
動物と会話できる能力。
亜人全員が持つ能力という訳でもなく、一人で遊ぶうちに人知れず身につけた力だ。
アヴィはその能力を使い、亜人の国から逃げるように人間の国へと迷い込んだ。
当然、そんなアヴィに追い打ちを掛けるかのように、人間達は亜人を嫌っている。
例え人を喰らわぬ亜人だとしても、それを信じる人間がいる訳もない。たった一人の亜人のお陰で種族全体に対する概念が書き変わるなど有り得ないのだ。
生きる為に逃げ続ける彼女に、休まる場所など存在しなかった。
だからと言って、襲ってきた人間を片っ端から殺すことなど、優しいアヴィに出来る訳がない。
超回復を持つアヴィだからこそ、その攻撃をすべて受けて、自分の怪力を出さぬようただひたすらに耐えた。
幼い頃に比べると、力の調節に長けたアヴィではあるが、力の差は圧倒的である。
また殺してしまうから。静かに耐え続けた。
「村長、そいつは」
和弘に会うまでは。
今まで数多くの村人や、冒険者達がアヴィに対して攻撃を仕掛けてきた。
死にたくない人間からの攻撃は、どれほど弱くあろうとも必死で、死にたくないという気持ちが強く伝わる。
それにアヴィは傷つけないように無抵抗に徹していた。いくら回復が早いとは言え、ただひたすら相手が満足するまで、殴る蹴るを続けられるともちろんだが痛い。
体もそうだが、心の面も痛みをとても感じていた。
そして本能的なのか今までの経験からなのか、相手の実力をなんとなく把握する力も養われていた。
そんな彼女が、彼を見て思った。
彼にやられたら死ぬ。
緊張で全身がこわばった。冷や汗も大量にかき、震え始める。
今まで色々な人間に痛めつけられたが、こんな事は初めてだった。
だが和弘は今までと違い、敵意を一切感じなかった。
むしろ捕まえていた村人に事情を聞き出し始めたのだ。
――こんな人がいるのか。
感動を実感する暇もなく、彼は治療を始め、しまいにはアヴィを村から連れ出してくれた。
――助けてくれたのだ。
村を追い出され、早十年が経とうとしていたアヴィにとって、彼の登場と救済は、主人にしたいと言う領域を飛び越えていた。
アヴィの中で和弘は、一瞬の内に神として君臨したのだ。
彼の為であれば、この命でよければ投げ出したい。
そばに居て、お役に立ちたい。
自分と似た境遇と聞いて、同情も含んだ結界、その気持ちはさらに強さを増した。
「――行きます!」
そしてあの時。
初めは耳を疑った。あの神様の口から「付いてこないか」と申し出があったのだから。
断る気持ちなんて最初からないが、もしも断ってしまえば、優しい彼のことだ。きっと、亜人の故郷まで案内してくれるだろう。
それだけは絶対に避けねばならない。
アヴィに、戻る故郷なんてないのだから。